第11話

 梅壺様がいらっしゃったのは暮れ六つ刻、丁度公達が帰って行く頃の時間帯だった。女御様の突然の来訪に台盤所では急ぎ茶を立てたり、几帳を立てたりと大忙しだ。普通姫君はその部屋を出ることは滅多にない。まして女御と言う帝の妻ともなれば更にだ。女房も連れていない。いるのは腕に一人、赤子だけ。それもよく寝ている。

 大物になるな、などと思いながら、どうかしたのですか、と私は訊く。梅壺様は顔色が悪く、産褥熱も長かったと言うから華奢な身体も余計にそう見えた。


 その、と言い辛そうにしながらも、梅壺様は御簾を上げた私の方を見てくる。頼少納言が立てた茶を一口飲んでから、やっと彼女は話し出した。


「吾子が、命を狙われているようなのです」


 流石に素っ頓狂な話に、ずり、と私は脇息から肘を滑らせた。だが梅壺様は決壊したように早口でまくし立てる。


「藤壺様は左大臣様の娘、それに清涼殿にも近い藤壺住まいで帝のお渡りも多いと聞いています。雷鳴壺様は今を時めく藤原氏、太政大臣様の娘御。強力な背後が付いておいでです。でも私は右大臣の娘、お二人に比べると少し格が劣ります。吾子も生まれたのは一番最後でした。東宮に相応しくないと、噂を聞くのです。その度に私、私」


 ぽろぽろ子供のように泣き出す女御に、私は戸惑ってしまう。だからってどうして命を狙われていることに繋がるんだろう。七殿の女御様方にはまだ子供がないし、一緒の日付に生まれた三人が東宮の候補としてはほぼ同率で一番だろう。

 確かに右大臣様は左大臣様に比べると少しだが権力が弱いが、太政大臣様にはどちらも負ける。入内を急いだお三方が七殿を――位の高い位置にある部屋を、捨てたからだ。殆どの女御が七つも八つも年上で、帝は気後れしていると春晃皇子がぼやいていたのを知っている。だから歳の近いこの三人に心惹かれたのだろうとも。


「梅壺様、どうか落ち着かれてくださいまし。何ゆえにそれで赤子の命が狙われると思われたのですか? 一番位が低いと言うのなら、むしろ放っておかれますでしょう」

「念仏が聞こえるのです。毎夜毎夜死者を弔う声が聞こえるのです。それに祢子さんも言っていたでしょう、後宮に弓を入れた者の話。聞けば藤原家の縁者だったとのこと、この子も邪魔者には変わりありませぬ。それを思うと吾子が心配で――最近は乳の出も悪く、寝不足も続いているのです」


 確かに梅壺様は目の下に隈を作っていた。乳離れは一歳と少しが目安とされているから、今から乳の出が悪いのは確かに良くないだろう。乳母がいればと思うものの、最近出産したのはお三方だけだ。貰い乳するわけにもいくまい。そうなれば完全に、梅壺様が心配するように東宮の座が離れる。

 折角手に入れた東宮の母、中宮への道。手放したくないのは仕方ないだろうが、それで病んでしまっては元も子もない。それに何故私の元にやって来たのかも、解らない。こちらはしがない鬼食いだ。どうも出来ることはない。


「この母乳が出なくなるのも何か毒を盛られているのかと思うと、私、私」


 ああ、と声を上げる梅壺様に、だから女房も連れずにやって来たのか、と私は納得する。主がこんな状態では女房達も不安がるだろうし、薄気味悪くなって離れてしまうだろう。私は膝で歩き、御簾から出て梅壺様を抱きしめる。白粉が少し単衣についてしまったが、皇子なら許してくれるだろう。

 そう言えば斎藤氏の時の事件も、呪いがどうとか言う話が出ていなかっただろうか。藤原氏が関わっていたとなると、折角良好な雷鳴壺様と梅壺様との関係も悪くなってしまう。


 口を噤んで自分より三つは年上なのに子供のように華奢な梅壺様を抱きしめる。あにゃ、うにゃ、とその膝に乗せられた赤子が目を覚ました。しかし泣きはせず、ちゅっちゅっと裳を掴んで吸っている。生まれて一か月、段々顔が出来上がって来たところだ。他の子達もそう。盗んで行くのも訳がない、顔立ち。


「春晃皇子に相談して、警護を置いて貰いましょう。食事には、乳の出の良くなる漢方を。それと、私が毒見を致します。それで梅壺様が安心できますならば」

「ごめんなさい、祢子さん。お願いできますでしょうか。帝でもないのにあなたに頼ってしまって」

「春晃皇子なら蹴っ飛ばすところですが、同じ女の悩みです。私にも来ない悩みではありません。さあ目をお拭きになって、白粉を直しましょう。この祢子、出来る事ならば何でも致します故」


 わああっと泣く梅壺様は、誰にも相談できなくて辛かったのだろう。東宮の座を表向き争っていることになっている藤壺様と雷鳴壺様にも、自分の孫を東宮にしたい父親にも。女房達にも、きっと。


 取り敢えず梅壺様を帰してから、私は薬箱を取り出し、目当ての物を探す。薬箱と言うよりは毒箱と言った方が正しい、私のほぼ唯一の私物だ。あった。芒硝ぼうしょうと言って、乳の出を悪くするのにも使える薬だったと思う。紙から口に含んで、盥の水を柄杓に取り取りくちゅくちゅと味を覚える。


 よし、これで羹や漬物に入っていても味が分かる。しっかり覚えた。麦も悪いと聞いているから、それも控えて貰うようにする。あとは出やすくするために、牛蒡子なんかを煮物に入れて貰おう。台盤所に声を掛けて指示していると、春晃皇子が丁度よくやって来る。上げっぱなしだった御簾にわっと慌てて背を向けるのが、つくづく初心で可愛らしい。互いの顔など何度も見て来たと言うのに。


「ね、祢子殿、何かあったのですか?」

「丁度良い所に来てくれたな、皇子。今日から梅壺に寝ずの番を二人ほど付けてくれぬか」

「……構いませんが、何ゆえに?」

「梅壺殿が念仏が聞こえて眠れぬと言うのだ。幸い子供は昼に眠れるが、このままでは梅壺様の方が参ってしまう」


 御簾を下ろして、良いぞ、と言うと、ほっとしたように皇子がこちらを向く。私が小柄だから殆ど下ろしておかないと顔が見えるのだが、その辺りは心得ている皇子は背筋を伸ばしてなるべく顔が見えないようにした。なぉ、と鳴いた黒が胡坐のその脚に乗る。墨猫、とも言って、一点の白も無い黒猫は好かれるのだ。特に貴人には。


「おまけに乳の出も悪いそうでな。それで私が漢方の指南をしていた所だ。穿山甲せんざんこう木通もくつうなどな。それに、乳の出を悪くする薬が入っていた時の為に、その味見もしていた」

「祢子殿にはまだ早いのでは……」

「早いも遅いも無い。毒でも薬でも見分ける。でなければここにいる意味がない。意味がなければいられないからな。今しばらく、私は鬼なのだよ」


 皇子の渡りも二日ほどは続くのだが、三日目になると帝がやって来て梨壺で水滸伝の読み聞かせだ。子供達を引き受けて妻たちにぐっすり眠って欲しいのは良い事だと思うが、それが丁度私達の婚姻の時期に重なるものだから、最近は台盤所に餅を頼むのも忘れてしまっている。まあ、正式な次期東宮が決まるまではこんな日々が続くのだろうな、と、私はまず帝の食事を毒見した。


 はらはらしている皇子にくっくと笑い、羹や膾に手を付けて行く。うむ、と膳を台盤所の方に退け、口を濯ぐ。この所は問題なく平和だが、お方様方の食事にまで私が手を付けると言うのは異常事態だった。まあもっとも、何が入っている訳でもないだろうが。

 半刻ほどして私に問題がないのが分かると、膳は帝の元に持って行かれる。次に私が手を付けたのは、梅壺様の食事だった。膾。羹、漬物――と、舌に覚えのあるものが出て、私は漬物をもう一口食べる。


「頼少納言」

「はい?」

「この漬物、芒硝が入っているぞ」

「えっ」

「誰かの女房が来たのは覚えているか?」

「い、いえ、台盤所も常に人がいる訳でもないので解りかねます」

「とりあえずこれは抜いて出した方が良い。乳の出が悪くなっては赤子もさすがに泣き出してしまうだろう。重湯では足りないだろうからな、さすがに」


 祢子殿、と春晃皇子が心配そうな顔をするのに私はくっくと喉で笑う。


「何、私はまだ乳が出ないからな。問題はないよ」

「そんな問題ではありません! つまりは今梅壺の女御に――」

「ああ、敵がいる」


 あんなか弱い方に何をしてくれているのだ、と、私は息を吐いて脇息に肘を掛けた。

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