第23話
拗ねた白は目を閉じたまま焼き物姿になっていた。苦笑しつつ、では確かに借り受けます、と皇子は言って大切そうに懐に入れる。落ちて割れることはないだろうかと少し不安になったが、その前に猫の姿になるだけの機敏さは持ち合わせているだろうと、紫宸殿まで見送りに出る。冬の暮れ六つはとっぷりと暗い。夕餉も終わって台盤所も静かだ。一人になったように、ぽつん、と私は鬼の間に戻る。
赤と青が迎えてくれたが、黒の姿がなかった。きょろ、と見回すと、脇息の上で寝こけている。器用な奴だな、と思いながら几帳の中に入り目を閉じてみるが、ごとんごとんと網代車の中の音が聞こえるだけだった。目を瞑られては私にはどうにも出来ない。
仕方なかろう、ごとんごとんと言う単調な音に眠くなってくると、やがてそれが止まった。ごくりと喉を鳴らしてしまう。何事か人と言葉を交わし、門が開く音。屋敷の中に入り、奥まで向かう足音。
「――これは、小春の君。すっかり大人になりまして、私の事は覚えておられますかしら」
少しくぐもった声は御簾越しだからだろう。低い落ち着いた声に、私はどくんっと心臓が跳ねるのが分かる。
「ええ、覚えておりますとも。短い間でしたが清涼殿で一緒に暮らしていたこともありましたからね」
「あら嬉しい。それでこんな隠居になんの御用かしら。そろそろ御寺にでも入ろうかと思っている所なので、婚姻なら受けられないけれど」
くつくつと言う笑い方が、自分に似ている。その事実にゾッとした。もしかして本当に? 本当に、私の?
嫌だ。知りたくない。私は知るのが怖い。自分を捨てた人を、母親を、知るのが怖い。面と向かって要らないと言われるよりずっと、ずっと。知るだけでもそれが怖いのだ。だって私は要らない子。不義の子。所詮、捨てられる程度の子。
「婚姻は近々別の方とするつもりなのです。その前に確認しておきたいことがございまして」
「あらお目出度い。でも確認することなんて、なんでしょう」
「十二年前、あなたが内裏にした落とし物の事です」
「――――まさか」
「さあ白殿! 観念して下さい!」
懐から白の焼き物を出した皇子は、それを御簾の方に放り投げる。とっさに猫の姿に戻ってしまった白は、降り立った床から僅かに上げられた御簾の中を見てしまう。中の人を、見てしまう。
恐ろしいほど自分によく似た女だった。
目付き。鼻筋。口元。
そして白は呟いてしまう。
母上、と。
――やっぱり知っていたのだな、お前達は。
「白……? まさか、十二年前、まさか、まさか」
「そうです。あなたが猫達と一緒に捨てた、祢子殿が私の思い人です」
「そんな! い、いえ、知りません、そんな子は知りません! 私とは何の関係もない娘です! 私は、私は」
「密婚なさっていたのですね。あなたは。斎宮時代に」
「!」
「手の者を向かわせて確認しました。十二年前、確かに赤子の産声を聞いたという老爺がいましたよ。おそらくまつりの際に出会った男の子だろうと。無理矢理か合意かは分からないが、あなたはその聖性を失った。ですが斎宮としての務めを全うし、帰京した。娘は置いて行けなかった。男に使われるのが怖かったのか、自分の密婚がばれるのが怖かったのかは分かりませんが」
「やめて……やめて下さい、皇子」
「そしてあなたは素焼きの猫四匹と一緒に祢子殿を捨てた。せめて帝に近い清涼殿に。土馬――素焼きの馬などを頼まれることはあっても、猫を頼まれるのは珍しかったからと、窯元が覚えていました」
「皇子!」
「あなたの聖性のかけらで、猫達は本物の猫に化けることも出来た。そして祢子殿が凍えないよう温めた。そうして別れたところを、おそらく他の女房に見られたのでしょう。どうしたものかとうろうろしていた彼女は、兄に見付かった。そして兄は祢子殿を見付け、あなたの望み通り、清涼殿で育てられることになった」
やめて。
もうやめて。
顔を顰めた母の膝に、白が手を乗せる。なぁお、と鳴いたが、その震えが収まることはなかった。すりすりと懐いてみる。振り払われはしないが、迎えられることも無い。そう。私はそう言う、もの。無視される。それはもしかしたら拒絶よりもっと虚しい。
「ですがあなたは、祢子殿が鬼食いになったことまでは知らなかったはずだ」
「え……?」
「あなたの娘は鬼食いとして帝の膳を預かり、何度も死にそうな目に遭っている」
「そんな……そんな! 女房か何かになっているのではないのですか、皇子!? 鬼食い!? あの子が、『清涼殿の鬼』!? そんな危険なッ」
「身寄りのない娘を女房には出来ませんよ。あなたの娘はそうするしか生きていく術がなかった。でなければここにいる意味がない。意味がなければいられないと、繰り返して清涼殿に必死にしがみついている」
「ああ……あああ……」
「ですがご存じのよう、帝には子がお生まれになった。私も東宮ではなくなり、梨壺を出て京で暮らすことにしています。その際に、祢子殿を引き取りたいと願っている。妻として」
「え……?」
「帝が後見人を引き受けようとしているのが現状ですが、私は実の母のあなたにそれを願っている。勿論金銭的な援助は要りません。ただそこにいて下さればいい。扇で顔を隠し合っていれば、よく似た面差しもばれることはございますまい」
後見人?
母上に?
そんな。
「そんな厚かましくて図々しいこと、今更出来ません。私は御寺に入ります。そこからあの子の幸せを願うのが、今の私に精々残された母としての務めです」
「母であることを認めるのですね?」
「はい」
ははうえ。
ぱたぱたと涙が、単衣に落ちる。
「あの子は私が腹を痛めた、娘でございます」
だったら何故。
「ならば何故お捨てになられたのです。こんな季節だったと聞いていますよ、見付かったのは。せめて七殿のどこかに――ああ、」
「七殿はほぼ埋まっていましたから……せめて温石と猫を。当時は父が存命でしたので、不義の子を家には入れられなかったのです」
「差し支えなければ、祢子殿の御父君は」
「漁師でした。出入りする度、逞しくなっていくその姿が眩しくて」
「……その方は」
「死にました。船の難破で」
もう良い。
もう良いから。
帰って来て。
帰って来てくれ、皇子。
「皇子。祢子がもう限界です。今回の訪問はここまでにして頂けませんか」
細い女の声で白が喋る。はっとして母は白を見た。その目が私と繋がっているのを思い出したのかもしれない。でもそんなこと、今更気付いても遅い。
「そうですか――では、後見の事、考えておいてください。義母上」
顔を洗って涙を流してしまう。泣いていたのがばれないように、白粉をはたく。網代車に乗った皇子が返って来る前に、さっさとそれらを済ませ、何気ない仕種でいることを自分に命じる。何も知らないかのように。何も見ていなかったかのように。でも白は言っていた。母上。私にも母がいた。私が鬼であることを知らぬ、母がいた。
十分だ。後見などいらない。今更なのだ。私を認めてくれた。それで良い。だから私はもう何も怖くないし、泣く理由もない。
愛し合った二人から生まれた子だったのだ。
ならばそれで良い。
それ以上は、望まない。
私と皇子だって、同じような物じゃないか。
母の聖性が受け継がれてこの舌になったのだとしたら、納得も行く。
そして私は皇子に嫁ぐのだ。
祝福は、どうだか分からないけれど。
愛し合って、母の分も幸せになってやる。
その願い通りに。
「祢子殿?」
「なんだ皇子」
「いえ、白殿があなたがもう限界だと言うので――」
「何が限界だ。私は何も見ていなかったぞ。目を開けていたからな」
「……嘘がお下手な人だ」
「何?」
「これは何です? 祢子殿」
少し上げていた御簾から、差し入れられた手。黒い単衣に白い粒がぽたぽた落ちている。白粉を流した涙の痕だ。しまった、こんな所に。こんな目立つ色を。かっと頬に熱を溜めると、赤が老爺の声でけらけらと笑う。
「全部見ておったよ、わしら全員な。そうか、母上は尼になるのか。遅すぎたぐらいだが、神仏に近くいればまた聖性も戻ろう。そして祢子の毒も抜けよう。そうすればお主との子供の一人や二人、ぽんぽん産めるかもしれんぞ」
「赤!」
「ぽ、ぽんぽんっ……そ、そんなに無茶をさせる気はありませんよ! とりあえず今は!」
「今は?」
「……今は口吸いで充分です」
御簾を上げられいつかのように几帳の中に入って来られる。掛かる影がちょっとだけ怖かったけれど、私は目を閉じて顔を上げた。
ちゅ、と小さな口吸い。
今はこれで、問題ない。
後日母は仏門に入ったので後見人にはなれない、と文が届いた。
弁えた人だった。
今度は直接顔を合わせて見ても良いかと、思えるぐらい。
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