第22話
それからの皇子は白を捕まえるのに躍起になっていた、籠を仕掛けたりまたたびを撒いたり、だがそれに引っ掛かるのは青や黒と言ったところで、白はまったく寄り付かない。どころか紫宸殿の屋根を寝床に決め込んで一日中そこで眠るばかりになっていた。冬は寒いから日向ぼっこがてら眠るのが至福なのだろう。それにも気付かず、白い猫を見なかったかとあちこちの公達に聞いて探し回っているのは少し滑稽だった。
自分の為にしてくれている事だとは分かっている。せめて顔を見せたいのだろうと言うのは理解している。だけどその手段が猫しかいないというのも、中々に難しい問題だった。しかも白は私の命令で逃げ回っているのではない、自分の意志でそこに行きたくないのだ。
本気になった猫を人間が捕まえるのは難しい。逆は容易いと言うのに、やはりしなやかな獣は強い。まあ、私も特に見たくはないから、問題はない。自分を捨てた人の顔なんて。
「お前たちもこればっかりは口を噤みっぱなしだものなあ」
青を撫でていると、なぁーう、と鳴かれる。いつもはぺちゃくちゃ喋り倒す癖に、肝心な時はこうなのだ、この猫達は。三歳の時、初めて自分に母がいないと言う事に気付き、私のお母さんはいないの? と訊ねたことがある。四匹とも途端に黙って、私が諦めるまで人の言葉を話さなかった。
あの時は寂しかったな、と意地悪く溜息を吐いても、青はぐるぐる喉を鳴らすだけだ。老描に入るから、そろそろ喋るのにも焼き物になるのにも加えて、猫又になるかもしれない。皇子に娶られてからの方が良いのだが、それは。家猫とは外に出さなくて良いものらしいし、適当に屋敷の中を走って貰おう。女房には驚かれるかもしれないけれど。
くっくと笑っていると、祢子殿、と障子越しに声を掛けられる。何だ、と返せば、すっかりくたびれた様子の皇子がいた。いつかと同じように水と手拭いを渡してやると、冬だと言うのに汗だくだった顔を拭き、水もごくごく飲んでしまう。ぷはあっと息を吐いて返して来た物を受け取り、私はくつくつ喉で笑いながら皇子の陰に問いかける。
「難儀しているようだな? 猫達は私と違って素早いからな、簡単に抱え上げられてはくれないぞ」
「そのようで。祢子殿も軽いと思っていましたが、それよりもっと軽い猫たちにこう振り回されていたのでは人間の甲斐も無いというものです。せめて白殿を捕まえて行こうと思ったのですが、作戦を変えることにしようかと」
「ほぉ? どうやって?」
脇息に凭れながら悠々と聞いてみると、首実検です、と言われる。
はて。何をどうするつもりなのだろうと無言で促してやれば、皇子はにぃやり笑って人の悪い顔をして見せる。この皇子にしては珍しい顔だった。小春の君、なんて呼ばれているように、普段はぼんやりしている事の方が多いのだ、この皇子は。
「先の斎宮様を、清涼殿にお連れします。帝の勅命ならばいくら隠居している方でも従わない訳にはいかないでしょう」
「なっ……」
私より先にその手を引っ搔いたのは赤だった。
「いい加減にしろ、若造。互いに会わずに済んでいたものを、何故今更になってそうも執着する。答えによっては鬼の間に近付けなくするぞ」
青と黒も出て来てにゃあーうと唸る。白だけは、屋根の上で眠っているが。
「猫殿達こそ何故そうも反対なさるのです? 私は自分の義母になる方に会ってみたいだけですよ。それに親子の断絶は悲しい。母と死に別れている私だからこそ、祢子殿にはせめて母君に晴れ姿を見る権利を与えて欲しい。そう願っているだけです」
「母親だと誰が決めた。斎宮は本当に母親なのか? そこから疑う事もせずに決めつけて動くのは止めろ」
「ですからの首実検ですよ。お互いの顔がどれほど似ているのか見比べてみれば良い。反応を見て見れば良い。赤の他人なら動揺することも無いでしょう。ですがもしも何か反応があったならば、少なくとも親族であることは解るかもしれない」
「しれない、で動くな。迷惑だ」
「ならば何故白殿は逃げるのです?」
答えられなくなった赤が、うーぐるるると喉を唸らせる。はあっと息を吐いて、私は白、と呟いた。目が開いて、清涼殿の屋根が見える。
「ここに連れて来られても妙な噂が立って向こうが迷惑するだけだろう。ただ顔を見れば良いだけならば、白が行く。行かせる。約束だ」
「本当ですね? ところで白殿は今どこに?」
「紫宸殿の屋根の上だ。梯子を使って捕まえようなどと思うなよ。私の胸に悪い」
「約束して頂いたのです、そんなことは致しません。では今夜、暮れ六つに白殿を迎えに参上します」
「解った……構わんな、白」
根負けした私ははあっと溜息を吐いて、冷ましていた茶を飲む。すっかり冷えてしまっていたが、頭を冷やしたい今の私には丁度良いぐらいだった。まったく皇子のしつこさと言ったら、今回は異常ではないのか? 何をそんなに確かめたいのだ?
もしも私の母だったとしても。
私は捨てられているのに。
晴れ姿なんて。
どうでも良い事だろうに。
逆に今更母親だと出て来られても、軽蔑するだけだ。東宮――もうすぐ『元』が付く――と結婚する、と言うだけで、手のひらを返して今まで放っておいた娘を『娘』扱いなどして来るぐらいならば、そんな女には会いたくもない。私は殆ど、一人で生きて来たようなものなのだ。鬼食いとしての感覚を分かってくれる者などいないし、食事は常に毒との真剣勝負。屋根の付いた寝床があることだけが幸いの。それだって私が鬼食いだからと与えられているだけだ。
一人で生きて一人で死ぬのだろうな、と思っていた。そんな生活の中に、皇子が出て来た。よく笑い、とぼけ、ただし頼りになる男が一人出て来た。それだけで私は十分なのだ。母親などいらない。今更そんなもの、いらない。必要とされたとしても、私は必要ないのだ。
たかって来る事は無いだろう。斎宮も皇族だ、それなりの金子は出ている。春晃皇子ほどではないだろうが、暮らすに困らないだけの蓄えはあるだろう。まして斎宮を務めたのだ、あれから十年経つが、落ちぶれてはいるまい。
だからと言って許せるものでもないが。許す。私は許す立場なのだろうか。邪魔なのに生まれて、要らないから捨てられて。本当に許されたいのは私の方じゃないのか? 生まれて来てくれて良かったと、言われたいのは私の方じゃないのか?
違う。私は一人で生きていける。生きて来た。今は皇子もいる。風に乗って御子達の泣く声が聞こえる。ああん、うわあん。私がそうして鳴いているのを見付けたのは帝だったと言う。否、その前におろおろしている女房がいたのだったか。その女房は知っている。今も台盤所にいる。
「頼少納言」
「はい」
「桔梗式部を、呼んではくれぬか」
「はい……?」
ぱたんっと戸を閉めて、それがまた開けられる。夕餉の支度に取り掛かっているだろう所を悪いが、あの頃からここにいるのはもうこの人ぐらいなのだ。十二年前からここに、台盤所に、清涼殿にいるのは。
「どうかしたのですか、祢子」
「式部。あなたが私を見付けた時、私はどうなっていた?」
「ッ」
さっと顔色の変わる式部の眼を、私は几帳の中、真っ直ぐに見詰める。
「……子猫四匹と、背中に温石を入れて、籠に入れられ泣いていました」
「籠の大きさは?」
「すっぽりみなが入れるように」
「まるでうってつけの?」
「……祢子! 一体何が言いたいと言うのです!」
「私の母親を皇子が探している」
桔梗式部は蒼褪めた。
「そんな――今更――そんな事――」
「やはり知っているのだな、あなたは」
「いいえ! いいえ、私は知りません! 夕餉の支度があります、私は行きますよ!」
それが知ってるって言う証拠だよなあ、と、私は諦めるように溜息を吐いて黒の首を挟んで揉んだ。
まあ誰かは知らないけれど、桔梗式部があそこまで畏まる相手なんて、そういないだろう。そしてそれは、先の斎宮にも当てはまる特徴だ。
白、と声を掛ける。まだ紫宸殿の屋根で寝たふりをしている白は、目を開けなかった。
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