第21話
「祢子殿、あなたの母君の所に行ってみませんか?」
「は?」
「母君です」
昼餉の毒見も終わったところでやって来た皇子にそう問われ、私は声を上げてしまう。母? 私の?
そんな者はいない。私は内裏の捨て子だったのだ、いる訳がない。思って怪訝に皇子を御簾越しに見て見ると、真剣な顔でこちらを見ているのが分かる。伊達やはったりで言っているのではなさそうだと、私も脇息から腕を離してちょこんと正座をした。一体何を言い出すのか、興味はなくもない。人は自分の根を知りたがるとは、書物でも書いてあった事だ。私にもその気がないではないが、私本人が分からない事をどうして皇子が知っているのだろう。
胡坐を掻いて皇子は話し出す。
「先だっての事件で祢子殿を見た公達が、あなたが以前の斎宮様に似ていると言っていたのです。今は左京にこじんまりとした家を建て、細々と暮らしていると」
「似ているだけでは確信に遠いだろう。どこにでもいる顔だぞ」
「いえ、そうでもありませんよ。目付きの悪さとか」
「何か言ったか?」
「いえ何も。しかし、顔の特徴が沸く似ていたのだそうです。目元、鼻筋、口元。すべてがその方を幼くしたようだと」
「だとしても、出て行くことは出来んよ」
「外出でしたら私が兄上に頼んで、」
「違う。解らんのか皇子、私は捨て子だったのだ。捨てた子が会いに行ったところで迷惑なだけだろう。私に母はいないのだ。父もいない。いるのは後見をしてくれると言う帝と、あなたぐらいだ」
さりげない告白に少し頬を赤らめた皇子は、可愛いやつだった。まったく。
「それに先の斎宮が私の乳母だったことも知っている。おそらく乳が張ってたまらないのを神の思し召しだとか言って片付けたのだろう。出仕はしていないものだと思っていたが、隠居しているのならば余計に会いに行く必要がない。私は必要ないのだからな、もう。乳の欲しい歳でもないし、親が恋しい頃も過ぎた。あなただって今更母君に会いたいとは思わないだろう? それとも、私にこの単衣を渡したのは母恋しさからか?」
ひらっと袖を振って見せると、ぶんぶんと頭を振って皇子は否定する。冠がずれるぞ。はしたない。一番上が驚くほどに丁寧な濃さの黒い十二単は、いまだ私の体を温めている。この冬はこれで過ごせるかな、と思うほどだ。母親の形見だと言っていた。男が母の形見の着物を後生大事に持っていたのは、嫁に着せる為だろう。嫁。三日夜の餅は、まだ済んでいない。
それにしても突然唐突に母親などと言い出して何のつもりなのだろうなあ。何か下心があると見えるが、それが解らない。そう言えば白に覗きに行かせた皇子の屋敷は、そろそろ出来上がりそうな様子だった。大詰めと言う所か、襖や戸板が運び込まれている。
それが関係しているのだろうか。まだ東宮が決まらないから梨壺を出るのはもう少し先になるだろうが、その際に私も連れて行くつもりなのだろうか。だったらせめて餅ぐらいは食っておきたい所なのだが、と、私は皇子を見るぱたぱたと頬を仰いでいた。図星だったのか、まさか。
「生憎と私はあなたの母にはなれんぞ。嫁にはなれるかもしれんが」
「よ、嫁になってくれるのですか!?」
「口吸いまでねだっておいて今更何をそんなに嬉しがっているのだ、あなたは。まあなってやっても良いとは思っているぞ、今はな。それまでに新しい鬼食いを見付けて、毒箱も引き継いで行かねばならぬが」
「それならば公達の妹に丁度身体の弱い娘がいると情報を入れています。彼女に頼めばすぐに体調を崩してくれるでしょう」
「なんかやだなーその手際の良さ」
「うっ」
「良いか、鬼食いは死ぬかもしれんのだぞ? そこをきちんと説いてから、その娘御には鬼食いの跡継ぎをさせろ。ちなみに歳は?」
「三つか四つと聞いています」
「まあ、丁度良い所だな」
私がこの仕事始めたのも四つの頃からだし。小さな手に銀の箸が重かったのを覚えている。ぷるぷる震えながら最初に食べたのは、蓮根の煮物だっただろうか。糸を引いていたのを覚えている。
刺して食べようとして、桔梗式部に怒られたっけなあ。あの頃は式部ではなかったと思うけれど、もう覚えていない。子供の記憶なんてそんなものだ。膝に黒を乗せ、首の下をくるくると擽ってやる。心地良さそうにした所で、私はずばり訊ねた。
「お前たちは知っているはずだよな? 私の母の事」
にゃぁーんとわざとらしい猫鳴きをするのに、首の後ろの撓んだ皮を掴む。そのまま吊り上げると、金色の眼をした黒はぷいっとそっぽを向いた。その仕種が何よりの証拠だと言うのに気付かないのが、何と言うか、間の抜けている。
だが言うつもりはないと。白に視線を飛ばして見たが、庭の松の木の上で眠っているだけだ。何も見えないし、聞こえない。右京にあると言うその母の家とやらにも、行ってくれるつもりはなさそうだ。自分で行けと言う事か? 青に尋ねるが、くわーっと欠伸をされるだけだった。赤にも視線を向けるが、どうしようともしない。丸くなって温石を独り占めしている。
「猫殿達は、確か一緒に捨てられていたとのお話でしたね」
「そう、冬の、今ぐらいの季節ではないのかな。背中には温石も入れてあったらしい。殺すつもりではなかったが邪魔になったのは確かなのだろう。いらないから捨てた。そんな者に今更来られるのは、迷惑だ」
「それは祢子殿のお考えでしょう。向こうはずっと気に掛けていたの闇しれません。清涼殿の鬼と言えば、貴族では知らない者もいないぐらいに有名だ。それだけ毒を当てて来たあなたの噂に、はらはらしていたのでは」
「なら何故会いに来ない? 文の一つも寄越さない? どうでも良いからだろう」
そう、私は要らない子なのだ。この皇子以外にとっては。台盤所で重宝されるのは毒を引き当てる能力からだし、帝の役に直接立っているからだろう。お方様方も安心できるし、私はまあ、食うに困らないの典型だ。温かい単衣もあるし、昼はたまにこうして皇子がやって来ては公達の流行や漢籍の話もする。夜は最近あまり来なくなったけれど、昼に潰した時間の分の仕事でもしているのだろう。後は子守り。
私の事なんて手に入れてしまうつもりなら今はどうでも良いだろうに、足繁く通ってくれているし、調べ物もしてくれる。ただ、こういう調べ物は困ったものだった。要らない情報。要らない。私は要らなかったと言う、事実を突きつけてくるような知らせ。
要らない私。いつか皇子にも要らなくされてしまうのだろうか。愛想は悪いし愛嬌も無い私だから。漢籍とにらめっこしているのが大好きな私だから。所詮は姫になれない、鬼だから。
鬼食いになることを託されてここに捨てられたのかなあ。確かに身寄りのない娘はいつ死んでも良いから鬼食いにはぴったりだったのかもしれないけれど、だったらどうして乳はくれたのだろう。しぼって捨ててしまえば良いだけじゃないか、張った乳なんて。それでも私にあげたかったのだろうか。どうして? 捨てたくせに?
私は結局私を捨てた相手に会いたくないだけなのかもしれない。捨てられた事実を濃く認識するのが嫌なだけなのかもしれない。だけど。だけどそれは当たり前の事だろう。
育ててくれたのは一歳を少し過ぎるまで。それからは顔も出さないし文も与えない。まあ字が読めなかったら文なんか出しても仕方なかっただろう。いつまでも彼女の中の私は小さな赤子のまま。だから触れない。近付かない。
「本当に、お会いになるつもりはないのですか?」
「だから、向こうに迷惑だと言っている」
「そんなことはないと思いますが……、」
「ならば何故捨てた? 私が邪魔だったからだろう? 乳母は出来ても直接自分の子供だと晒すには問題があった。そう言う事だろう?」
「…………」
「私だって今更、十年も経って、迷惑を掛けたくはないのだ」
「あの、でしたら」
「なんだ」
「白をお貸し願えませんか。せめてお顔を見るだけでも」
「残念だな、今まで庭の松で寝ていたが一瞬で逃げたぞ」
「そんな……それほどまでに……」
何故かしょぼんとしている皇子に、ほれっと黒を投げてやった。慌てて受け止められた黒は、愛想良く皇子に懐きその浅葱色の直衣を毛だらけにする。黒は目立つ。私の今の単衣では、目立たないけれど。
猫達だって私に会わせたくないのだ。
だったらやっぱり、会いになど行かない方が良い。
それが、お互いの為だ。
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