第20話

「高氏の兄上が典薬寮の学生だったのは覚えておいでですか?」


 すてすてと歩いて行く皇子の後ろを、膝で歩くのが面倒になって立って歩く私は、はてとその名前をまず思い出す。高氏。斎藤高氏か。そう言えば徒党を作って次期天皇になろうとしていたとか言っていたな。そして皇子が私に薬湯を持ってきた時に言っていた気がする。本当の典薬寮の学生は、高氏なのだと。


 降って湧いたような小石だが、向こうはずっと恨みに思っていたのだろうか。しかし高氏はもう投獄されたはずだ。検非違使にそう聞いた事を覚えている。


「徒党の者が恨みに思い、劇薬を手にする機会を狙い、夜に台盤所へ忍び込んで食材や食器に塗り付けたらしいのです」

「食器……それは解らんところだったなあ」

「鬼食いも帝も殺せると踏んだらしいのですが、祢子殿の反応でそれも駄目になった。管を巻いてあなたの悪口を言っていた所を、私の手の者が聞きつけてくれたのです」

「手の者、とは」

「まあ、秘密の友人たちです」


 友人居たのか。まあ全ての公達を覚えるには会って話した方が覚えやすいものな。従人のような者か、それで自分の徒党も作っていたのか。公達の何人が、この優し気な目元の男を小春の君と気付いていたのだろうなあ。少し可笑しかったが、笑っている場合ではない。皇子は案外足が速いので、置いて行かれないように速足になってしまうのだ。そうすると足袋が足に食い込んで痛い。

 外からでも宮中を見渡せるように、この皇子はしっかりと足場を作っている。鬼の間から出ない私とは正反対だ。おそらく私の元に来なかった三日間、自分の徒党で帝と鬼食いを狙うだろう公達を探し回っていたのだろう。


 そして見付けたのが、高氏が組んでいた徒党の者だった。どうやら自分が帝になったらそれなりの地位を約束する、と言われていたらしい。普通の甘言だと思うのだが、何故信じたのだろう。解らない。


 紫宸殿には検非違使に縛られた、顔を赤くして昼酒を煽っていたらしい男がいる。ぜーぜー息を吐いていると、すみません急ぎました、と背を撫でられる。檜扇を懐から出して顔を覆いがてら仰ぐと、冬だと言うのに汗が出ていた。運動しないからな、私。昔は鬼の間に遊びに来た公達が蹴鞠などを教えてくれたが、あれも娘の遊びではなかった。


 そんな事より、と私は頭二つ分ぐらい大きいだろう皇子を改めて見上げる。

 こんなに大きかったのか。並んだことがあまりないから忘れていた。帝の一つか二つ下だから、十六か五のはず。十二歳の私には、中々大きい者だったのだな。口吸いの時も私が覆いかぶさる形で座っている皇子にしたから、解らなかった。


 けっ、と男はこちらにその酒で潤んだ眼を向けてくる。都ではこんな昼間から酒を出す店があるのか、と一つ賢くなる。単に外で飲んだくれていただけかもしれないが。手酌の酒はあまり美味くなさそうだがなあ。私もたまに酒を飲む機会に恵まれるが、少量なら頭がぽーっとして心地良い。

 過ぎれば毒、と言うから毒になるまで飲まされたこともあるが。銚子一本、と言ったところだった。私は。次の日は頭痛と吐き気で、鬼食いの仕事を猫達に任せたほどだった。


「なんだあ? その小さいのが鬼食いかあ?」


 離れてても感じる酒気を含んだ口臭に、思わず眉を顰めてしまう。そうですよ、と皇子が言った。縛られているとはいえ、咎人を煽る言い方はしないで欲しいのだが。主に私が危ない。太刀を佩いている訳でも無ければ毒針を含んでいる訳でもない。吐息は毒霧になるかもしれないが、さっき茶を飲んだばかりだ。身体はどちらかと言うと、清められている状態である。


「あなたが殺そうとしたか弱い子女です。あなたの毒に当てられて死にかかった娘です。このか弱い姿を見てもまだ、殺したいと思うのですか?」


 目を背けたと言う事は、それほど私に殺意がある訳ではないのだろう。帝に対してもそうだ。ただ、自分の出世の道が絶たれたことによる嫌がらせでしかなかったのだろう。本人の感覚では。

 だが嫌がらせで死ぬものもいる。私だってまだ全快とは言えない。とりあえず犯人が捕まった事で、台盤所の緊張態勢は解かれるだろう。それはそれで良い。頼少納言や桔梗式部の労も減る。


 殺意は薄くても人は死ぬ。毒を手にすれば使って見たくなるのが人だと誰かが言っていた気がする。幸い今回は私の舌のお陰で帝まで毒が届くことはなかった。だがもしもを考えると、ゾッとしたものが走る。勿論、冷気の所為ではなく。

 公達に夢を見せるとこうなるのか。恐ろしいものだ。それで、と皇子がいつになく尖った声を出す。


「あなたに仲間はいたのですか?」

「いねえよ! いたらこんな事しねえ! 頭の悪い事したのは解ってんだ、帝と鬼食いを殺したって東宮がいる! 帝の子供だって!」

「その東宮が私です」

「へ?」

「東宮春晃。あなたの上の、大きなたんこぶです」

「ッ……東宮自らが捜査してたってのかよ!?」

「そうです。兄も鬼食い殿も、私には大切な人ですからね」

「畜生ッ、畜生畜生! 考えたのは俺だけじゃねえはずだ! 高氏様の仇を取ろうとしたのは俺だけじゃねえはずだ!」

「家を絶たれた斎藤氏の何がそんなにあなたを駆り立てたのです?」

「単純なことだよ! 俺は高氏様のお人柄が好きだったんだ!」


 人柄。

 私には分からない事だ、それは。

 皇子はよく知っているのだろう、少し目を伏せる。

 優しい兄上だったと言っていた。帝と違って裏のある優しさだったのだろうが、それでもその思い出は美しい物なのだろう。思い出は絶対だ。どんなにその人が裁かれようと、消えることはない。

 だからこそ余計に動機を強くする。思い出は、美化される。それが爆発したら、こうなるのだろう。


 仕事柄目の前で激情を吐く者に出会う機会が少ない私だって、そのぐらいは推察できる。清涼殿だって恐ろしい場所なのだ。私がいなければ帝の首は五・六個挿げ替えられている。にこにこと毒物を差し出して来る者もいれば、いくつも罠を仕掛けて私に気付き難くさせようとする者もいる。


 鬼だ、私は。

 帝を守護する、鬼神なのだ。私は。

 食われる姫では、ありえない。

 そんなか弱い者には、なれない。


 せめてもう少し愛嬌があればな。ふ、と鼻で笑うと、男がそれに気付き食って掛かって来る。


「お前みたいな餓鬼には解らんだろうがな、勉学や政治の事を事細やかに教えてくれる、良い師でもあったのだ、あの方は! まだ出仕して間もない者にも優しく声を掛けて下さった!」

「そして作ったのが徒党なのだろう? 最初から利用するつもりで下心を隠していただけではないのか?」

「うるせえ、黙れ糞餓鬼が!」

「餓鬼だから解るのだ。下心無く近付いて来るのなんて、本当にお優しい人だけだ。徒党を組む相手を探している者なら下心を秘めた者だ。徒党だとすればそれは何のための物なのか。くしくも帝の暗殺未遂と言う大罪を犯した貴様が、一番それを体現している」


 そう、本当にお優しい人は。

 勝手に御簾を上げて薬湯を飲ませて来るような、男。


 くっと喉で笑うと、祢子殿、と皇子に窘められてしまう。足元にはいつでも攻撃できる態勢で猫が四匹侍っている。この程度の男なら、怖くない。典正や高氏のような、一見良い人ぶっているような者の方が怖い事を、私はもう知っている。

 男はぎりぎりと自分を縛る縄を解こうとするが、それは叶わない。餓鬼が、と怒鳴れて、餓鬼さ、と応える。私は鬼だ。満たされることのない、鬼なのだ。だから鬼食いでいられる。


 検非違使に小突かれ、男は去っていく。高氏の待っている牢へと。否、待ってはいないか。きっとしかめっ面をするだろう。あなたの為に、あなたの為にと言われて、うんざりした顔を見せるに違いない。そして男は傷付くだろう。絶対だった思い出が美化されていたことを知るだろう。

 だが、それは私には関係のない事だ。もうこの事件は私の手を離れた。台盤所に戻って犯人が見付かったことを伝えれば、皆が胸を撫で下ろそう。人一倍神経質になっていた桔梗式部には、この上ない朗報だ。


「さあ、祢子殿」

「へ? きゃあっ」


 単衣ごと抱え上げられて、私は声を上げる。思わず閉じた檜扇で殴ってしまいそうになるが、久し振りに見た晴れ晴れとしたその笑顔に、意気が挫かれる。


「私は歩くのが早い方のようなので、帰りはこうしてお送りしましょう。単衣を着ていても、軽いですね、祢子殿は」

「やめっ止めろ、一人で歩ける! 子供でも無しに!」

「私に比べたら子供ではありませんか。実際こんなに小さいとは思っていませんでしたよ」

「私だってあなたがこんなに背が高いなど知らなかったわ! 牛車を追って暗闇を歩いていた時は気付かなかった!」

「だから送って差し上げようと言うのです。さあ台盤所へ声を掛けて下さい。犯人は見付かったと」

「解ったから下ろせー!」


 けらけら笑っている皇子に、女房達がきょとんとしていた。そして抱えられている私はいまだ皇子の母上の十二単姿だ。早く返してしまわなくては、覗かれる言い訳にされてしまう。やーやー暴れる私に、頼少納言がぽつりと呟いた。


「祢子様、子供みたい……」


 裳着も済ませた娘に言う言葉ではないと思うが、今は確かに子供めいていると言わざるを得なかった。

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