第10話
白が止まったのは京の西、桂川の河原にある貧民窟だった。その一つの小屋に入って行くとは、今日は事を起こさないらしい。次に白には紫宸殿の入り口に向かってもらう。怪しい者の姿はない。だがこくりこくりと眠り掛けている門番がいたので、嚙り付いて起こしてもらった。いでっ、と言う声は周りの番達も起こす。
それぞれに厳めしい顔をした男達だった。特徴のない顔、はいない。今日は内部の方もいないらしいが、ぼけっとさせておくわけにも行くまい。それでは意味がない。帝のおわす清涼殿に一番近い外はここなのだから、しっかりしてもらわねば困る。既に賊は雷鳴壺まで手を届かせているのだ。帝の元など容易く入り込めるだろう。それでは帝を守ると決めている私の面目も立たない。
一応清涼殿を一回りして、白は鬼の間の外に戻って来る。もう雨戸は閉めてしまったから、今日は軒下が寝床だ。黒と青も外に出て貰って、手元にいるのは赤だけ。一番爪を研いでいる、つまり強い赤を残したのは、勿論迎撃の為である。
いつ来るか知れない敵だ。灯台だって心細い。だが夜目の効く猫がいれば、少しは心強いだろう。と、ふにゃ、と梅壺様の子が泣き出す。腹が減ったのだろう、小さな手の届く範囲をごそごそと探るようにしている。しかし目当ての物が見付からないのに苛立ってか、泣き始める。梅壺様はうとうとしながら、しかし慣れた仕種で裳を解き、胸元を曝け出した。そして子供はその胸に吸い付く。
確かに慣れているなあ。これが母親と言うものか。私に乳をくれていたという人は、今どうしているのだろう。神の思し召しとばかりに乳が出るようになったと言うが、簡単に考えて、それが私の母で催した乳を片付けたのだろう。不義の子だった、私は恐らく。
だが捨てられたのだから探すようなことはしない。せめて清涼殿内であった事が幸いだろう。鬼食いとして何度か死に掛けたが、読み書きも出来るし教養は嗜んだ。どこへでも嫁に行ける。
例えばこの皇子の元へ。思って膝上を見下ろし、笑ってしまう。随分我が侭になったものだ、私も。典正や高氏のお陰かとも思えば、多少複雑なものがある。だがこの優しい皇子に、私のようなじゃじゃ馬はぴったりだろう。
赤子は満足そうに眼を閉じ、女御は胸を曝け出したまますぅすぅと眠る。こんな女だらけの場所で、しかも裳を解いた女もいる場所で、よくも皇子は眠っていられるものだ。御簾越しとは言え、朝には一人で大騒動だろうな。
夜が明けてくる。しかし何故赤子達に直接触れる私や皇子、帝ではなく、お三方の方に嫌がらせが向いたのだろう。入内を狙っている者がいると言う事だろうか。中宮に。だがそれにはそれぞれ女御もいれば、赤子もいる。何より怖い後ろ盾もいるのだ。女御に嫌がらせをする理由。やはり帝に遠のいて欲しいのか? 不吉を思わせて、そうしたいのか?
近頃入内する予定の姫がいないかは、目を覚ました皇子に聞いておこう。そろそろ動き出した台盤所の気配に、私は欠伸をした。
「祢子、食事……あらまあお方様方。こんな所で夜をお過ごしになったのですか?」
「ここが一番安全ですからね。ところで私達もここで食事を頂いても良いかしら」
「構いませんが、祢子が口を付けて半時は待って頂くことになりますよ」
「構いません。安全には必要ですから」
案の定慌てて梨壺に帰って行った皇子が、ついでとばかりに開けて行ってくれた雨戸からは、障子越しの日が差す。私は箸を取って強米を取ると、妙な臭いがするのに気が付いた。知っている。昨日も嗅いだ。
「頼少納言。箸はどこから?」
「え? 台盤所のものですが」
「すべて洗い直した方が良い。糞が付いている」
「えええ!?」
ざわっとなったのはお方様方もだった。他の食事は匂いこそ無事そうだが、漬物などは何を仕掛けられているか分からない。一度台盤所全体を洗い直してから作り直した方が良いだろう、言うと女房達はてきぱきと私の前の膳を片付けだした。勿体ないのう、と言うのは赤。お前たちとは違うのよ、と思わず叩く。
しかし、お方様方がここに居るのを知っているのは、清涼殿でも少ない。内側担当の者がそれを知った。大方自分の糞便を台盤所のあちこちにすり付けたのだろう。あちこちとは言え臭いの目立たない所。例えば箸とか。
しかしそうなると、清涼殿に出入りできる貴族が犯人になる。泊まり込みのいない訳でもない。外からは入れないし入って来ていない。少なくとも昨日は。
取り敢えずお方様方には蜂蜜で暫く食事を凌いでもらった。私もだ。うまー、としている間に、皇子が戻って来る。
「直近で一人、入内する姫がいるそうです。大納言の娘御とのことですが、母は生まれた時に死んだと言う事にされているものの実は妾の子で、今までは桂川の河原に住んでいたとか言う噂が」
「それだ。先日の娘も桂川のあばら家で糞を溜めていた。おそらく今日また来るぞ。それと、年の近い兄弟はいるか?」
「出仕している公達に一人。誰に聞いてもどういう表現をすればいいか分からない、普通の男だと」
「決まりだな」
「はい」
「え、待って、何が決まりなの祢子さん」
「お三方に害を加えた者ですよ」
「え、えええ!?」
母君たちが声を上げると、赤子達が一斉に泣き出す。それをあやした後で、三人は私を見た。説明だろう。皇子には検非違使を桂川にやってもらい、私は事件の説明を始めた。
「まずはお三方が同時に赤子を授かったことから始まります――」
そう、欲しかった中宮の座。しかしそこには地盤を固めている三人の女御がいる。後ろ盾もあり、赤子も授かって誰が東宮になってもおかしくない、誰も入り込むことの出来ない鉄壁の後宮。
ならば逃げ出したくなるようなことをすれば良い。娘を入内させようとしていた大納言家は、娘に都の糞を集めさせ、息子に廊下に撒かせると言う嫌がらせをした。紫の式部の物語のように、お三方の心から削り取ろうとしたのだろう。だが間違えたのは、梨壺にまでそれをした事だ。そこには私も出入りする。毒を逃さぬこの鬼食いが、出入りする。
私と皇子はそれを調べ出した。二人掛かりで清涼殿に糞便を持ち込み、それをしたのが一番最近に入内する姫の身内だと調べ上げた。おそらくはあと二・三度繰り返すつもりだったろうが、はたしてそれは叶わない。それぞれの女御が鬼の間に閉じこもったからだ。ならば鬼から崩せばいい。そして糞を付けた箸で、私をまず取り除こうとしたが、舌だけでなく鼻も良かった私には効かなかった。そう言うわけだ。
はーっと息を吐いたお方様方は、ぎゅっとそれぞれの子供を抱きしめる。
「子供に刃が行かなくて良かったわ。それにしても祢子さんの閃きは凄いものね。桂川まで手の届く僕もあるなんて知らなかったわ。もしかして、その猫達?」
にゃお、と外で白が鳴く。まあ、今回も白の手柄と言うものだ。やはり見れるのは便利である。そしてこちらの事を伝えられるのも。赤がのそのそと私の持っていた蜂の巣を齧る。同じようにやって来た白と黒と青も。
「あら、襁褓が汚れて」
「頼少納言、布を」
「はい、お方様どうぞ」
「さすがに襁褓に糞便を付けても、毒になりはしないだろうからな」
「それは確かにそうね」
けらけら笑いながら雷鳴壺様は自分で子供の襁褓を代えなさる。普通は女房に任せるものだろうに、やっぱりみんな東宮の座はともかくとして子供が可愛いらしい。と、ばたばた走り来る気配があった。
障子を乱暴に開けられると、いたのは三人のお父様方。私も小さな頃は遊んでもらったことのある、すっかり皴の増えたお祖父様三人だった。
「糞便を使った嫌がらせがあったとは本当か!?」
「子供達に危害を加えられてはいないか!?」
「犯人は分かっているのか!?」
扇で顔を隠すお三方と、御簾の奥から吹き出してしまう私。こう言う父親だったら欲しかったかもしれない。でも私は良いのだ。皇子もいるし頼少納言や他の女房達もいる。大納言家はどうなるのだろう。息子は出世の道を絶たれたと言っても良い。後宮での無礼は許されまい。まして三人の息子の母君達の部屋への嫌がらせだ。娘も中宮なんてありえない。そして三人揃って姦しくなった母達は強い。桐壺の更衣とは、度胸が違う。
「お父様方、いくらなんでも女の居る部屋に飛び込んでくるのは失礼でしょう!」
「それに犯人はもう解って、春晃皇子が捕えに行きましたわ!」
「良いから障子を閉めて下さいな! 急な明かりで赤子が起きて、」
「うああああああん!」
「言わんこっちゃない! 早く出て下さいな!」
「あ、その、なんだ、すまん……」
しょんぼりしたお祖父さま方にまた吹き出すと、四人揃って私達は笑っていた。きょとんとした赤子も笑い出している。襁褓を代えた子も心地良さそうに、そしてこの中で鉄壁の眠りを続けている子も母の裳を掴んで。
私も欲しいかもなあ、皇子の子供。
ぽつんと言ったら、にやにやされた。
もう二度と、言わない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます