第9話

 さて誰が四カ所に肥などばら撒けたのか。肥柄杓はあるから誰にでも可能だが、しいて言うなら男だろう。そして束帯や衣冠と言った汚れて困るものを着ていない公達。清涼殿には先日弓も持ち込まれているから、色々と警備は見直したと皇子が言っていたのだが、と思っていると、あふー、とよく抱えている赤子が這いながら御簾を上げて私を見上げてくる。

 にこーっと笑うが、私は笑い返さない。私みたいな者に好かれたって困るだろう、将来を考えれば。乳児相手にちょっと大人げないながらも、ツン、としていると、膝に乗られた。子供は強い。


 私は清涼殿の鬼だぞ、と解らない言葉を言い聞かせる。あら、と言ったのは、梅壺の女御だった。化粧を整え、今夜は廊下が片付くのを待っている。


「あなたが鬼だなんてことはみんな知っているわ。そして何度も帝を救って来た事も。先日も二人、不埒者を追い出したと言うじゃない」

「何それ知らない。祢子と言ったかしら、私達にも教えて頂戴な、そのお話」

「そうね、気も紛れるわ。お願いできないかしら。猫の姫」

「ねこ?」

「ほら、いつも傍に控えているから」

「なるほど」


 普通に仲良しだな、この三人。中宮の座を争う仲だと言うのに、姉妹のように仲が良い。父上方も同じような役職だから派閥争いが激しいだろうに。


「私としてはお方様方の仲の良さが気になりますよ。お父上同士もいがみ合う仲でしょう?」

「父達は勝手にやっているだけよ。年頃になったら勝手に入内を決めて、さっさと子を産めの催促ばかり。だから私達決めたの。三人でかわりばんこに帝に抱いて貰って、出来た者勝ち、ってね」


 気さくなのは雷鳴壺の女御だ。一番年上だけど、十七か八だったと思う。本当なら公達と歌をかわして楽しんでいる頃だろうに、不満にならないのだろうか。一番年下の梅壺様だって、十四ぐらいで私と大して変わらない。真ん中の藤壺様は十五歳。子供ってこんなに華奢でも産めるのだな、と思わせるほど小柄だ。


 くすくす雷鳴壺様が笑う。


「まあこんな事になったけれどね。それにしても誰なのかしらね、犯人って」

「捕まるまでの暇つぶしに、今回のお話してくださいな。猫の姫」

「その呼び方止めて頂けたら、幾らでも話しますよ。まず帝の朝食の羹に毒が入っていて――」


 わー、や、ほー、などと声を出しながら三人は御簾越しに私の声を聞いてくれている。そして溜息を吐いたのは梅壺様だ。


「清涼殿も安全ではないのねえ……弓まで持ち込むなんて、私達全然知らなかった」

「そりゃあ臨月に入っているお方様方を不安にさせる訳には参りませんから、仕方のない事と思って頂ければ幸いです。それで今宵は本当にここでお休みになられるおつもりですか? 狭いですよ、鬼の間は」

「脇息を貸してくれれば子供を抱いて寝られるわ。お乳が欲しくなった時もその方が楽だし」

「私達も。子供が出来てからは大体そんな感じで寝ているわ」

「大変ですね……」

「祢子さんだってそうなるんでしょう? 小春の君と」


 ぶっと思わず吹く。どっから出て来たその話。まだ言ってないぞ。


「聞いていれば二人の絆がしっかりしたものだと解るし、その単衣は皇子からの贈り物なのでしょう? まだ正妻のいない皇子のこと、あなたを見初めたに決まっているわ」

「そんなもんですかね……私はまだ皇子の妻になる度胸もありませんよ」

「もし鬼食いの仕事が上がったら、この子の毒見をして頂戴な。トリカブトを食べて死なないなんて、心強くて頼もしいわ」

「あら姉様ずるい」

「そうですわ、鬼食いとしての祢子さんは名高いんですから」


 そうなのか。長い髪に指を絡めて、いやはや、と思わず照れる。

 あんまり嬉しくない評価だが、この舌が役に立つのは鬼食いのような毒見だ。私にはこの舌しかない。交わった男を殺すのではないかと公達に噂されているのを聞いた事がある。下衆いな、とは思ったが。皇子はそんな私にも毒消しを持って来てくれたような男だ。少々強引だったが、そこを話した時にきゃーっとお方様方ははしゃいだから、多少強引なのも悪くないのかもしれない。


 帝はちょっと気が弱いところがあるからなあ。きゃっきゃと私と皇子の話で盛り上がっている所に水を差す気は。実を言えば照れ臭いのであまりない。まあね。でもそんな私達の三日夜の餅を遠ざけているのもお宅の子供達なんですけれどね。とは言わず、私は取り敢えず廊下の雨戸を閉めた。先日心張棒を付けて強力にしたものだから、並みの賊では入れまい。

 勿論、清涼殿外に賊がいればだけれど。


 内部犯行だよなあ、と久し振りにうとうと夜を迎えていると、灯台皿の火が揺れる。風だ。どこから?


「祢子殿」

「皇子か」


 低く掛けられた声に、私は御簾を上げる。戸を滑らせたときに火が揺れただけらしい。皇子は真剣な顔をして、私の居る御簾の内側に入って来る。すっかり慣れた距離だと思えば、多少は面映ゆい。しかしこんな夜更けに何の用だろう。


「外から入って来た者はなく、内部犯の可能性が大きいかと」

「そんな事は最初から分かっていただろう」

「ぇぅ」

「まあ凹むな。市井ではあちこちで糞尿を垂れ流している。今、白が町を探している所だ。糞尿を集めている奴などそうは居るまいからな」

「祢子殿にはいつも負け通しですね……」

「勝ち負けではない」

「はい」

「生き死にだ」

「……はい」


 しょぼん、とした皇子の腕を、ぺしぺしと撫でてやる。外部犯で内部犯。外から肥を持ち込み中でぶちまける。おそらくは二人以上の戦力。それが解っただけでも良しとしよう。言うと、はにかんだ顔ではい、と皇子は頷く。前もそうだった。中と外。もしかしたら同一犯かも知れない。と、白の眼が私に伝えてくる。


 柄杓を手にした、女だった。

 桶に肥をざくざくと入れて行く。そしてまた違う所でも、高下駄を退けてざくざく土を集めて行く。


「祢子殿?」

「典正か高氏に妹はいたか?」

「典正には年の離れた妹が――まさか彼女が? 八歳ですよ?」

「それなら違うな。私に見えるのは十四・五の娘だ。肥を集めている。一応白に着けさせよう。紫宸殿の門番達は信用が出来るのだろうな?」

「それが――」

「それが?」

「昨日、酒を回し飲みしたそうで、誰一人確かな事は言えないと」

「処分しろ」

「ご無体を」

「しかしそれが恐らくは内部犯の方だな。明日で良い、その相手を探してみよう。特徴ぐらい聞いて来たのだろうな」

「いえ、特徴のない顔をした公達としか」

「特徴がないのが特徴か。面倒だな」

「そうですね、ほくろや傷跡などあれば良かったのでしょうが」

「まあ仕方ない。今日は貴方も休むと良い。私はもう少し白を追う」

「白殿にはどんな能力がおありで?」


 おや、知らなかったか。話していなかったとも言うが。どちらにしてもあまり重要な事でもない。


「私の眼は白の眼と繋がっているのだよ。あれの眼は金目銀目だろう? それの片方と繋がっている。だから娘がどこの者かも分かるというものだ」

「そう何日も連続で来ますかね? 実際典正たちが縛に付いてから四日ほどになる。それに少女がどう動くものか――紫宸殿に直接運んでくるものなのか」

「まあそれは明日の朝のお楽しみだ。幸い鬼の間には白澤王もいる。あやかしでなければ意味もないが、仏像も置いてある。確かにお方様方の言うとおり、ここが一番安全な場所かも知れんしな」

「祢子殿」

「ん?」

「私もここで寝て良いでしょうか」


 何言い出してるこの皇子は。しかし真剣な顔に、心配されているのだろうなあと思えてしまったら、どうしようもない。まだ臭うあの廊下を一人歩いて行くのも嫌だろう。はあっと息を吐き。頷けば、ほっとした顔を見せられた。

 ああ本当、好きになって良かったよ、こんなお人好し。


「では失礼を」

「へ」


 膝にこてんと頭を預けられ、すぐにすぅすぅと眠られてしまう。

 はーっともう一度息を吐くと、灯台が揺れた。

 私、寝ずの番決定だな。

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