第8話
東宮は中々決まらず、私も帝も皇子の起居する梨壺で子供たちに水滸伝を読み聞かせするのが毎夜の事となりつつあった。お陰で皇子の通い婚は成立せず、餅はただ腹に消えていくだけである。まあ良いかと思っていた矢先。
鬼の間から梨壺への廊下に汚物がぶちまけられていた。
とんだ紫の式部ごっこだな、とスンとなる。
くさい。腕に抱いていた赤子が泣き出して、次に帝が抱いていた子が泣き出し、最後に春晃皇子の抱いていた子供がつられるように泣き出した。
「な、なんだこれは一体」
「まあ、嫌がらせでしょうね。誰にかは分かりませんが、一番心当たりがあるのは私かな」
「祢子、何かやったのかい?」
「いえ。この単衣、皇子に貰ったものだったので、それを汚してやろうかと言う画策かなと」
「そんな! それでは私の所為です、兄上!」
「まあまあ落ち着け」
言ったのは三毛猫の赤だ。何故か帝も驚かないが、びくっとして余計赤子を泣かせいてるのは春晃皇子である。駄目な人だ。まだ慣れないのか。この一か月一緒に居て。まあ普通はあやかしと思うのも仕方ないなあ。私にとってはただの兄弟めいたものなのだが。
「わざわざ肥溜めまで行って肥柄杓を持ってここへと撒いたのだ、女の仕業ではあるまい。すると逆に一番に心当たりがある者から祢子は抜ける。帝にこんなことをする者もあるまい。となると」
「や、やはり私ではないですか、赤殿」
「そうなるな、落ち着いて考えれば。まあ鬼の間に戻って赤子達を落ち着かせるが良い。漏らしておるのもいるぞ、中には」
「ああっ私の束帯が!」
「帝、早く清涼殿へ戻りましょう。ここの事は皇子が女房に伝えてくれ、私は
「は、はい祢子殿」
「祢子は逞しくなったなあ。眉一つ動かさない」
「可愛げがありませんか?」
「いや、あの時拾った子がこんなに大きくなったのかと感心しているんだよ」
ふむ?
「私を拾ったのは帝だったのですか?」
「正確には女房がおろおろしていたのを見付けた、と言うのが正しいかな。ああ、衣がびっしょりだ。誰か、誰かある!」
「帝!? 何故鬼の間などに」
「良いから着替えを持って来てはくれないか。漏らされてこの通りなのだ」
「は、はい! 祢子は」
「私は御簾を下ろして襁褓を代える。このぐらいの知識ならばあるからな。という訳で布を持って来てくれ」
それにしても秋に生まれてよかったな、この子達。春なら春晃皇子と被っていたし、夏ならあせもで襁褓が酷いだろう。冬は襁褓を洗うのがしんどい。その点帝は良い時に三人孕ませたものだ。もっとも、帝の子なら、だが。
おっと良くないことを考えてしまったな。頼少納言が持って来てくれた布を襁褓にして、汚物の付いた方は盥の近くに置いておく。帝も着替えが終わったようで、いつもの禁色の衣になっている。すっかり機嫌の治った赤子は、あば、と言いながら私に手を伸ばして来た。私のような者に懐いても仕方がないので、帝、と彼が連れてきた二人に合流させた。そろそろ顔が分かって来た頃だ。自分が抱いている子は解る。
台盤所から借りて来た角盥で襁褓を洗う。少し冷たいが、湯にするほどでもない。綺麗に洗って、干しておくよう頼み、私は鬼の間に戻る。と、皇子がおろおろしているのが見えた。皇子、と呼び掛けてみると、ほっとした顔をされる。
「御上! うちの子を抱いてくれないのは何故ですか!」
「そりゃあ懐いていないからでしょうよ。うちの子はいつも御上の抱っこでないと寝ないもんねえー?」
「あらうちの子だって今も御上の手ですやすやと眠って――」
……。
三人模様の姦しさに、入って行けないらしい。
「そう騒いでいては寝た子も起きてしまいますよ、お三方」
「あなた、鬼食いの――」
「祢子と申します。お方様方」
さてどんな反応をされるかな? 鬼食いが自分の子供をあやしているなんて、不気味で気味が悪くて引かれるものかな? 何せ何度か当たっているからなあ、思いながらくっと笑うと、
お三方はずずいっと私に詰め寄って来た。
きらきらした目で。
え、予想外の反応なのだが。
「春晃皇子と帝とあなたでいつもお世話をして下さっているそうね!? なら解るでしょう、誰が一番帝に懐いているの!?」
「春晃皇子もいらっしゃるじゃない、ここは一つ決めて頂きましょう! そうしたら梨壺の予約にもなろうと言うものよ!」
「そうね、それが良いわ! さあ二人とも、教えて頂戴な!」
私と皇子は顔を合わせる。
えーと。
「それよりお方様達のお部屋の前には、汚物を散らされたりしませんでしたか?」
「え、なあに、紫の式部の物語?」
「実は先ほどいつものように梨壺に行こうとしたら、廊下に汚物が撒かれていて退散してきた所なのでございます。お方様達の部屋にそんな無礼者がいたとは思えませんが、一応」
「うちにはなかったわよ」
「うちも」
「うちもだわ。もしかして新しい帝としてうちの子が狙われている!?」
「それならうちの子よ!」
「いいえ狙われるならうちだわ!」
帝が助けを求める目でこちらを見ているのに、気付いた私と皇子はうーんと唸る。皇子か三人の東宮候補か、狙われているとしたら誰だろう。赤を見下ろしてみると、まあるくなって眠っている。青も白も黒だ。助けてくれるつもりは、まだないらしい。
しかしなんかあんまり必死さを感じない姦しさだなあ。単にうちの子が一番可愛いと認めて欲しいだけのようにも見える。言っていたっけ、お爺様達もうちの子可愛い合戦を始めて来るとか。結局それが一番なのだとしたら、この三人の将来も安泰だろう。一人は帝に二人は大臣に。太政大臣、左大臣、右大臣の孫たちだから、誰がどうとは決められないのだ。強いて言うなら太政大臣の孫が権力的に強そうだけれど、彼は生まれた時間が一刻遅かったと聞いている。
ぽんぽんころんと一拍遅れて来たらしいけれど、そんな一拍の事で人生を決められたら大変だろう。それにそのお方様が陣痛で苦しんでおられる時には、すでに出産を終えた二人が両方から手を握って励ましたという。やっぱり団結力が強いのだろうな、この姿を見ても。
それにしても誰が一番懐いてるとかはないからなあ。三人で水滸伝読んでるだけだし、本当。いや鉄牛――
でもあんな暴れ者になって欲しくはないなあ。思いながら私はそれぞれの子供を抱いて一旦部屋に戻っていくお方様達を見送ると、帝がぐったりしていた。毎日あれは確かに疲れるだろう。そしてきゃあ、と声を聞く。
それが自分の妻の物だとすぐに解って立ち上がり、早歩きになりながら声の元に向かうのは、案外格好良かった。お方様達もこの姿に惚れたのかもしれない。
肥柄杓一杯分ぐらいの汚物が撒かれているのは、梨壺への廊下と同じだった。そしてさらに、きゃあ、やだあ、と声が響き、帝はそちらにも向かっていく。やはり同じように、雷鳴壺、梅壺、藤壺への廊下が汚されていた。
お三方は朝から清涼殿にいたらしいし、誰も単衣も肥で汚れてはいないから、この中に犯人はいるまい。じゃあ一体誰が。やだあと泣き出したのは梅壺の女御だった。それに雷鳴壺と藤壺の女御が寄り添う。
「一番安全なところに居ましょう。このままでは落ち着かないわ」
「と言うと?」
「鬼の間ですよ、御上」
え。毒とか運ばれてくるけどそれって安全?
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