第3話

「ど、うやら、公達の中に高氏たかうじ兄上――私達の従兄の、斎藤高氏を帝に擁立せんと言う一派が、出来ているようです」


 ぜぇぜぇと息を荒げて水を一杯ぐいっと飲んだ春晃皇子が私の元に駆け付けて来たのは、三日目だった。


「どうしてそんな事になった?」

「高氏の兄上は、昔から勉学に長け、人を集める能力のようなものを持っている、素晴らしい方です。それが先日の試験で合格した為、高氏の兄上に余計人が侍るようになった」

「群れた人間は野望を大きくしていくものだから、と?」

「解りません……しかし高氏の兄上は、良くも悪くも人に好かれるお方なのです。私にそれを注進してくれたのも、過激な思想に尻込みした公達の一人でした」


 少しは板について来た狩衣をさばいて片膝を立てた皇子は、ぱたぱたと手で首を仰ぐ。私がいっそ水を入れていた瓢箪ごと差し出すと、かたじけない、と真面目腐った顔で言われた。ちなみに私達の間の御簾は、一応下ろしているが、私が小さい所為なのか皇子の首から上は薄く透ける程度に見えるだけだ。

 こんなに走り回ったのは子供の頃以来です。だろうよなあ、狩りも苦手と言うのならば。蹴鞠はどうだったのか訊いてみたいが、それは一応人の命が掛かっている事なので、後にしよう。主に私の命だが。


 一人で調べるのは大変だったのだろうが、正直情報が足りないのは否めなかった。ぷは、と水を飲み干した皇子は、すまなそうにそれを私に返す。元々猫用の水だったとは言えないので、ふーっと息を吐いてようやく人心地ついた様子の彼は、それにしても、と言う。


「嫌なものですね、身内の裏側を知ると言う事は。昔は本当に、私の事を親のように育ててくれた人であるのに」

「あなたや帝の母上は?」

「私を産んだ際に産後の肥立ちが悪く、そのまま」

「……すまなかった」

「滅相もないことです。それに、幸い当時同時期に出産した更衣の方が、自分に乳兄弟を与えてくれました」

「兄代わりの多い奴だな、あなたは。少し羨ましい」

「あ、す、すみません。祢子殿も乳兄弟はいらっしゃったのでは?」

「これがまったくさっぱり思い出せない。猫達の名前を付け、私に乳をくれたとしか誰もが言わん。今も宮中に出仕しているのかすら謎だ」

「そうでしたか……、不躾を重ね、すみません」

「すぐ謝るのは悪い癖だな、あなたは。だから東宮だと言うのに威厳がまるでない。公達に混じるのは簡単かもしれんが」

「形だけの東宮です。梨壺に籠って大陸の文学を読み漁っていられる時が、至福の」

「水滸伝は?」

「勿論」

「三国志は?」

「勿論」

「良い友人になれそうだ」

「そのようで」


 くすくすと私達は笑い合う。


 三日前に壊された雨戸は気休め代わりに芯棒を増やし、取り付け直してある。朝に起きて来た女房が雨戸が歪んでいるのを奇妙に思い、外から見た所、十本近くの長弓の矢が刺さっていたと言うのだから驚きだった。皇子が狙われていると判断した帝が雨戸の強化を取り仕切っている。


 それにしても、私のいる鬼の間の守備体勢は迅速で重厚だった。恐らく皇子が私を訪ねて来ると踏んでの事だろう。梨壺は流石に後宮の中でも奥の方に入るので、そちらは後回しして貰ったと言う。私が梨壺に行くことは、流石にない。私も子供の頃以来歩いたり走ったりした記憶が朧なのだ。今走れと言われたら取り敢えず着物を脱いで行くしかないだろうが、紫宸殿辺りで確実に躓く。年頃の娘が走って来たとなれば大慌てだろう。


 思えば最後にこの鬼の間を出たのはいつだろう。赤飯を炊かれる前ではあったと思う。誰かを追い掛けて床を走って、転んで鼻血を出して見失って。それからずっと泣いていたのを、誰かがまた私を鬼の間に戻した。ここに居ればいつかはきっと。あれは、いつの事だったろう。


 乳母の事を聞いて、そうしたのだったか。確か聞いた話では時の斎宮が京に帰って来たころだったと、誰かが話していた。そして、胸がはって仕方ないからと私の乳母になってくれたとか――斎宮に男の影があったのかは知らない。だが、都合が良すぎるので誰もが口を噤んでいる。


 特に私が言葉を分かるようになった頃からはそうだった。だが私の毒に当たりやすい癖は、重宝された。決してすぐに飲み込んでは駄目。何度か口の中で転がして、それでも何も起きなかったらやっと飲み込んで良い。それも十分に時間を空けて一口ずつ。良いですね、祢子。ごめんなさいね。ごめんなさいね――。


 まあ良い、と私は頭を振る。今必要なのは帝の食事に毒を盛った犯人を突き止める事だ。斎藤、と言うからには藤原氏の一派だろう。あとで書庫の家系図を取り寄せれば、どういった繋がりで第二皇位継承権を得ているのかも解るし、その前に本物の東宮――と言うと皇子には失礼だが――が生まれるかもしれない。一種の競争だな、と檜扇をぱちんっと鳴らすと、そう言えば、と皇子が思いついたように言う。


「怖い噂も聞きました。高氏の兄上の父――私達には叔父にあたる方なのですが、その方が帝に呪いを掛けている、とか」

「呪いなどあるものか」

「しかしあなたの猫は喋るではありませんか」

「ム」

「喋れるだけではないぞ、若造」


 白の青い左目と金色の右目に見詰められて、揃った四匹がくるんっと宙返りする。

 するとそこにあるのは、焼き物の小さな猫達だった。流石に驚いたらしい皇子は、彼らを指さし、私の方を見る。私はと言えば、扇でひたすら笑いそうな口元を隠す。


「私が喋れるようになった頃から、こうして喋ったり置物になったりするようになってな。まあ俗にいう、猫を被った状態、と言うのがこの姿だ。普段はあちこち好き勝手散歩している、まったくの猫だが、冬はこの鬼の間で過ごすことが多い。温石を置いておくと虫のように群がって行くぞ」

「祢子殿、例えが」

「口の悪い娘でしょう?」


 くすくす笑うのは黒だ。あまり付け上がるなよ、と思いながら、私は水を飲む。


「とりあえずは斎藤氏の事を教えて欲しいのだが。何かどうなって斎藤高氏に帝の可能性がある?」

「父の義妹が降嫁した先が、斎藤氏でして。その際に宮中とは縁がないものと思えと言われたのですが、やはり斎藤氏は自分の子供に権力を与えたかったのでしょう、色々と暗躍をしていつの間にか高氏の兄上に第二位の継承権が与えられたと」

「ふむ。帝よりも先に生まれていたのならばその野望は並々ならない所があったろうな」

「だから呪いに走ったのではないかと」

「呪いは解らんが、何かの祈祷をして賃料をもらい、清涼殿近くまでめかし込ませた市井の人間を連れて行くのは簡単そうだな。勿論、毒を持たせて」

「確かめなかった自分が本当に情けないことです」

「馬鹿者め、私の所で止まるのが一番良かったに決まっておろう。少しでも飲んだら死ぬ毒だぞ、あれは。私もまだ手足の痺れが取れん。筆も使えん状態だし、鬼食いの代役にも迷惑を掛けている。それに」


 少し前に差し入れられた茶に舌先を漬けると、また刺激が走った。


「青」


 ぽんっと跳ね上がって猫の姿になった青は、差し出した茶碗の中身を舐め、げえっと吐き出した。


「どうやら私も、狙われる側になったようだな」


 焼き物に戻った青を盥の水で流してやれば、あー死ぬかと思った、と低い声で喋るのに、色々驚いている皇子が面白かった。多分何に驚いて良いか解らなかったんだろう。さて、この盥も茶碗も捨ててしまった方が良いな。なまじ毒が残っていたら困る。誰か、と呼ぶと顔なじみの女房がはぁい、と答えた。ふむ。そう言えば。


「見ない器だが、これはどこから出て来た物か解るか?」

「ああ、それでしたら寝込んでいる祢子様に、薬湯用にでも使ってくれと斎藤是和様から沢山頂いたものの一つですよ」

「すべて捨てろ。恐らく全部に毒が薄く掃かれている」

「毒!? そんな、先程お出しした茶碗はそこからの、」

「だから毒が解った。これが私でなくそこの皇子を狙っていたとしたら、大変だったぞ」

「小春の君! いけませんこのような所にいては! どうか梨壺へお戻り下さいませ!」


 ほー、小春の君なんて呼ばれていたのか。確かに少し春めいた思考をしているので、それはそれで似合いかもしれない。しかしこんな所とは随分な言いようだ。まあ、狙われた実績があるのだから。こんな所かも知れないが。


「毒は以前と同じもの、だな。だが第三者がの手が介在しているとなると、そう簡単にしょっ引く訳にもいかない――頼少納言。このことは内密にしておいてくれ。勿論、帝にもだ。今はお忙しいのだろう? 臨月の妻達を抱えていると聞いている。この件は私と、春晃皇子で片を付ける。頼むぞ」


 几帳の隙間から小指を差し出すと、震える細い指が絡められる。これで、清涼殿内での騒ぎは無かったことに出来るだろう。しかし大きく出てしまったな、解決までするとは。しかし切った札は返せない。


「あなたは本当に、豪胆な人だ……」

「でなければここにいる意味がない。意味がなければいられないからな。しかし同じ毒とは芸がないな……仕入れ元がすべて同じなら、特定は存外簡単やもしれんぞ。小春の君」

「止めて下さいその名前は。何も考えていない春眠のようで恥ずかしい」

「たたずまいがそう呼ばせるのだろう。それとも、春晃皇子の方が良いか?」

「三月の朝生まれなんですよ」

「春に愛されている、良い名だと思うがなあ」


 くっくっく、笑うとすっくと皇子は立ち上がる。


「乳兄弟に検非違使がおりますので、そこからも調べてみようと思います」

「やめておけ、騒ぎが大きくなるだけだ」

「だが元々あなたは巻き込まれてしまっただけで、」

「忠告はした。それと、これからは井戸の水を直接汲んだ方が良いかもしれない。井戸一つ潰してまで、暗殺に走るような男が背後にいなければな」

「……肝に銘じます。あなたもどうか、ご自愛を」


 するすると足袋の音が遠ざかって行くのに、私は身体を横たえる。

 しかし、痺れの残る手では歩き回れもしない。

 だが誰かが毒を調達しているのだけは確かなのだ。

 その証拠さえ、掴めてしまえば。


「赤、黒、青、白」


 猫の姿になった四匹を集め、私はそれぞれに斎藤氏と近い血筋の者を探らせることにした。

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