第25話
順番に露になった胸に鍼を刺していく。流石に鍼治療と言うのは初めてだったが、書物で読んだところを順番に差していくと、やがて藤壺様の息が戻って頬に赤みがさして来るのが分かった。自分の知識が間違っていなかったのを確認してほっとする。鍼治療は微妙なツボを突くことも多いので、その見分けは大変だった。
幸いだったのは藤壺様が私と同じく瘦せ型で、ツボの位置を見付けやすかったことだろう。昨日自分でも確認したところが、次々に見える。
すべての針を刺し終えると、藤壺様はただ眠っているだけのようにくぅくぅと寝息を漏らすようになった。子持ちになって不自然に膨らんでいるようにも見える胸も、すぅ、すぅと呼吸の度に上下するようになる。
成功だ。ふーっと息を吐いて針を抜き、布で一本一本拭いてから、懐にしまって行く。藤壺様を袴姿に戻して単衣を被せると、すっかり深く眠っているだけなのが分かった。御簾を上げ、もだもだと待っていた左大臣様と帝に笑い掛ける。本来ならば顔を隠すべきのだろうが、鬼食いにそんな必要もない。
女房達もざわざわしている中、私は二人に告げた。
「治療は終わりました。お方様はこの通り眠っているだけです。ただし二十日ほどは薬湯で身体の陰陽を整えなければなりませんので、その間の乳は梅壺様にお願いして下さいませ」
「む、襁褓はどうする」
「女房の方にお任せすれば良いのでは?」
「なっならん! それはならんぞ!」
突如慌て始めた左大臣様に、帝は怪訝そうな目を向ける。今まで襁褓替えは藤壺様が一手に引き受けて来た事だ。勿論、その性別を隠すために。それだから娘が瀕死になって動けない状態になったら、誰も任せられる人はいない。梅壺様にも、女房達にも。
困り果てた左大臣様は、そうだ、と思い付いたように顔を上げる。
「左大臣家から女房を一人連れて来よう、その者に任せれば」
「左大臣様は私達の何がそれほど信用ならないとでも仰るのですか?」
むっとした声を出したのは、女房の中でも歳の行った一人だった。おそらくは藤壺様が生まれた頃から左大臣家に勤めていたのだろう彼女の言葉に、うっと左大臣様は声を上げる。彼女も御子の性別は知らないらしい。本当、よく隠し通せたな、この三ヶ月。藤壺様が心労をたたらせるのも頷ける。
「赤子の襁褓を替えるためだけに女房を派遣してくるなんて、宮仕えの私達に対する冒涜ですわ。乳は出ないにしても襁褓を替えることぐらい出来ます。何がそんなに御不満なのです? まさか病み上がりのお方様を襁褓の度に叩き起こせと? そんな暴虐、まかり通る物ではありません」
「うう、だが、だがこの子は」
「お方様をお守りするのが私達の使命、その御子をお守りするのも同じです。何故私達が襁褓を替えてはならないのか。その事情をお話しください」
ちらちらと帝を見る左大臣様は、腕に抱いている子を隠すようにしている。その微妙な硬さが嫌なのか、ふぇ、と子供は泣き出した。ああ、と帝が抱きかかえようとするが、左大臣様はそれから逃れるように腰を引く。やがて子供の声は大きくなった。あああん。ああああああん。
女房達が総出でその腕から子供を引き剥がす。襁褓ではなく、単純に抱かれ心地が悪かっただけらしく、壮年の女房の腕の中に入るときゃっきゃと喜び出した。
その様子に最早隠し立ては出来ないと思ったのか。左大臣様ははーっと息を吐いて、悪あがきのように私を見る。
「娘は二十日間、本当に動けないのか?」
「お体の陰陽を整えるのが優先なれば、そうです」
「そうか……」
脱力したような左大臣に、帝はこてんっと首を傾げて見せる。子の外祖父だ、無碍には出来ない。だがその行動はあまりにも不審で、何か隠し事をしているのかばれないはずもない事だった。女房達に帝に、見詰められて左大臣様はそれこそ『魂の抜けた』ような状態になってしまう。
ただしこれは毒ではない。だから鬼食いの私には直せない。嘘が溜まった故に身体に毒を求めた藤壺様とも違う。命懸けでこの後宮を出ようとしている藤壺様とは、違う。
「少納言。襁褓を解いてみせてくれ」
ぐったりとした声で左大臣様に言われ、怪訝そうに壮年の少納言とやらは襁褓を解く。そしてまあっと声を上げた。確か藤壺様が産気づいた時には護摩を焚いて女房全員でその安産を願っていたというから、誰も出産には立ち会わなかったのだろう。本当に、産婆と左大臣様だけで。知っているのは、その二人だけで。
「お、女の子でございます! 帝、この子は女の子にございます!」
「何と!? 左大臣殿、どう言う事だ!?」
一気に十歳ぐらい老け込んだ様子の左大臣様は、ぽつぽつと話し始める。
「娘が産気づいたのと同時に、他のお二方も産気づいたとの連絡が入り……どうしても東宮の座を奪われたくなかったので、産婆を急かして産ませたのです。だが生まれた子供は女子だった。東宮にはなれない。せめて娘が体調を取り戻してもう一度、今度こそ男の子を産めるようになるまで、その子を男として育てようと思ったのです」
帝はだんっと音を立てて立ち上がる。
「それがこの病の原因ではないのか! 隠し事に疲れた藤壺が魂消た状態になったのは、すべてそなたの責任だ! 藤壺が目覚めるまでの間、そなたには物忌みを命ずる! 藤壺の為に祈り、潔斎せよ! 娘は我が姫として育てる! 構わないな、左大臣殿!」
そんな声が出せたのかと思うぐらいの怒鳴り声に、藤壺中がびりびりとする。私もいつも優しい帝しか見て来なかったから、その激怒ぶりには驚かされるほどだった。それにまた子供が泣き出したところを、襁褓を締めた彼女を帝は抱きしめて揺さぶってやる。慣れた手付きは梅壺様の御子で鍛えた賜物だろう。この子の方がずっと小さいが。
「吾子や。娘とも気付かず三か月も過ごしていた父を許しておくれ。お前には良い縁談が来るよう、年頃にはたんまり手を掛けてやるからな。その為には漢籍ではなく、歌を覚えねばならぬな。この手が大きくなったら習字や琴も教えてやろう。立派な姫君として、恥ずかしくないよう育ててやるからな」
きゃっきゃと子供が笑う声に、うんうんと帝は頷いて見せる。その親子の団欒に、入って行けないのが左大臣様だ。祖父としては悲しいところだろうが、それも自業自得と思ってもらわねば困る。
と、うう、と単衣の下で声が響く。
ぼんやりと目を開けた藤壺様は、私を見た。
万事うまく行きましたよ、と笑い掛けると、ほっとした顔を見せる。
そしてまた、すぅすぅと眠りに沈んで行った。
「子供三人と蹴鞠をするのが楽しみだったのだが、なあ」
清涼殿に帰って行く帝の後を膝で歩いて付いて行く。皇子も一緒だ。もしも左大臣様が乱心した時の為に控えて貰っていたのだが、消沈して出て行くのを見た時は少し憐れそうだった。だが本当に憐れだった母子は救われたので、これで良しとしよう。後は毎日薬を立てて藤壺に通えば良いだけだ。
東宮はこれで梅壺様の所の御子に決まったわけだが、あの大きくて泰然自若としてよく眠る子なら、多少の病は受け付けまい。伝染病に気を付ければ良いぐらいだが、後宮で育てばそれもないだろう。
それにしても帝の喝には驚きましたよ、と思わず言うと、いやあ、と帝は照れ臭そうに頭を掻く。
「私も十七、即位して二年だ。少しは公達を纏め上げるための大声も出せねばならぬと思ってな。いつまでもただ優しいだけの帝だと言わせておくわけにも行かぬ。そうすれば高氏や典正のような者がまた出て来てしまう。それは避けねばならない」
「帝はお優しいから良いんですよ。たまの喝は必要かもしれませんが。あの左大臣様がしおしおになるぐらいのは、時々で良いんです。その方が突然の変化で驚かされる」
「祢子は厳しいなあ。私も厳しく居たいと願うのは、分不相応だろうか」
「帝に分不相応なことなんてありませんよ。私達の方こそ、こんな意見を言って――なあ皇子?」
「それもそうですね」
「優しさで言うなら春晃も随分だと思うが。祢子にまだ手を出していないのだろう?」
「ぶっ」
「皇子汚い。まあまだ出されてませんけれど、何かと邪魔してくる帝の所為でもあるんですよ」
「やはり祢子は手厳しいなあ。だが心強くもある。きっと元気な子を産んでくれるだろうから、頑張るんだぞ、春晃」
「兄上ッ!」
「はっはっは。しかしこれで東宮問題も解決か。もう数年は春晃に梨壺を守ってもらいたかったが。都の屋敷もそろそろ大詰めだろうし、丁度良い所で片が付いたと言えるかな」
そう言えば建ててたな家。小ぢんまりとしていて、紫の式部の物語に出て来た光の君の屋敷とはずいぶん違ったようだったが。あれでは妻もそうおけまい。私に縛り付けているようで、少し気が引ける。男なんて移り気なものだ、外に女は作れば良いか。通う女にまでは、文句は付けないでおこう。白は着けさせるかもしれないが。
私、存外嫉妬深いな。六条御息所みたいにならないよう気を付けねば。気位が高い方ではないと思うが、知識をひけらかす所はあるかもしれん。
「そう言えば祢子のその十二単は、母上の物だね」
「あ、そっか帝の母上でもありますよね。そうです、すみません」
「謝ることはないよ。後ろから見ていると母上のようで少し嬉しい。春晃は見たことがなかったから、祢子に着てもらいたかったのかな」
そう言えば皇子の母上は皇子を産んで産後の肥立ちが悪いままに亡くなっているから、皇子は母上を知らないのか。私と一緒だな、なんて思う。でも何で私に?
「~~兄上!」
「母の物を託すなんて、自分の母親になってほしいみたいで可愛いじゃないか。春晃にもそう言う幼い所があるのが分かって良かったよ」
「違います! 祢子殿が弓で射られた時に、」
「弓で? その話は聞いていないぞ。詳しく話せ、春晃」
「その前に政務に戻って下さい、兄上はもう! 私もそうします! 祢子殿は薬湯を作って藤壺様の元へ!」
てきぱき指示をしながら、隣を歩く皇子はまた早足になっている。だが私は私の塩梅で歩くことにする。遅ければ皇子が担いでくれるか、今まで通り歩みを緩めてくれるだろう。
清涼殿に向かう廊下で皇子と別れる。帝はそこではーっと息を吐いて、うんっと伸びをした。誰もいない僅かな環境。彼はいつも引き被っているその衣を脱ぎ捨てる。
「東宮決まって良かったー! 同じ日に三人とか本当焦ってたんだー! 十年ぐらい経ったら三人集めて百人一首しようっと!」
子供のような言葉にぷっと笑うと、振り向いた帝がにっこり笑う。
「その時は祢子達の子供も一緒だと良いな!」
この帝は。
もうちょっと年頃の娘の扱いを心得て欲しい。
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