第19話
落窪に捨てた野菜や漬物にたかって来たネズミが大量死していたと聞いたのは次の朝だった。台盤所にどれだけの悪意が潜んでいるのか、事態を重く見た桔梗式部は毎朝市で新鮮な野菜を買って来ること、包丁、まな板などは使う度に井戸の水で洗う事、使う前の鍋は空焚きしておくことなどを徹底した。お陰で私も猫達も何とか安全な食事を出来ている。皇子はあれから三日、来ていない。それで良い。それで良いのだと、私は思う。
どうせ出自の知れない私は将来皇子が望んでもその北の方になることは出来ないし、いつ死ぬか知れない身なのはまだ続いているのが現状なのだ。とりあえず今日も半刻ぼんやりして、帝に食事を出せる時間まで待つ。作って半刻もすれば羹でも冷めてしまうので、帝や皇子達は猫舌なのだと聞いた事がある。
だからお茶もぬるめが良いが、鬼の間で頼少納言の茶の味を知ってからはそうも言わなくなった。懐に温石を入れて、温かい茶を飲むのが至福なのだそうだ。
その茶碗も使う寸前に井戸水で洗うようになったから、大分冷えるようになったが。冬の井戸水は冷たい。手も荒れる。台盤所ではそれでも、帝の、私の命を守るために休まずそれをしてくれるのだ。ありがたい事だと思う。心から、そう思う。
「皇子が来なくなってもう三日ですねえ」
私の相手として几帳の中で自分の立てた茶を飲んでいる頼少納言が、心配そうにそう言った。
「今まで毎日のようにいらしていたのに、祢子様が毒に当たった途端来なくなってしまうなんて、薄情な方」
「いや、私の方から突き放したのだ。どうせ私は鬼食いだからな。絡めば毒が皇子にも向く。それは避けねばならない」
「祢子様こんなに心配してるのに! やっぱり皇子は薄情な方です! 呆れてしまいましたわ、もう!」
ぷんすか怒って見せる頼少納言の茶を、私も頂く。はーっと息を吐くと、丸く白いものだった。雨戸を開けていると室内でもやはり寒い。こんな時は頼少納言の茶が良く効く。腹から温まるのは良い事だ。ひもじい訳ではないが、食事の度に気を張っているので、こんな時には少しぐらい落ち着いたって良いだろう。
「祢子様は皇子の事、どう思っていらっしゃるんです?」
「好きだぞ」
「すぱっと言った! 慎みが無いです、祢子様!」
「まあ包み隠しても仕方ないしなあ。だから心配してくれるのは嬉しいが、私にも心配させてもらわなければ困ると言うものだ。皇子が狙われる可能性もなくはない。失脚の決まっている東宮を、今更誰が大事にしてくれると言うのだ。帝と私ぐらいだぞ」
「失脚って。確かに赤子の片方に決まってしまえば梨壺は出ましょうし、今は左京の方に邸宅を立てているそうですよ」
「ほぉ」
初耳の事なので、きょとんとしてしまう。そうか、着々と梨壺を出る準備はしていたのか。しかしどんな屋敷だろうな。さっさと妻も娶って幸せな暮らしが出来れば良いものだが。今は東宮として気疲れすることも多いだろう。特に、子供達が生まれてからは。梨壺の取り合いで現当主としても居心地が悪かろう。
そうか、皇子も私を捨てる決心が付いたか。良い事だ、こんな穢れの溜った身体は口吸いぐらいしか出来まい。同衾でもして毒がうつったら、それは私の責任だ。だから私は結婚などしない方が良いのだろう。ちょっと甘い夢に浮かれていたな。三日夜の餅も交わしていないと言うのに。口吸いだって少し前に初めて、しかも二人目として交わしたきりだ。
私のような娘からは、持参金も出ない。何と言っても親が知れない。身元が確認できない娘を、天皇の弟の嫁にするわけにはいくまい。後には天皇の叔父になるだろう人だ。少しでも権力は持っておかなければならないし、失うものがあってはならないというものだ。後見人も無い、私はただの鬼。ぺろりと姫君を食べてしまう話もあったが、私の場合はぺろりと皇子を食べてしまうのだろう。
鬼食い。この身体は穢れている。いくら蜂蜜を食べたって、次の毒が溜まるだけ。私は何にもなれない。せめて台盤所の女房になれれば良いのだが、何もしたことのない身では足手纏いになるだけだろう。桔梗式部に怒られてしまうな、くっくと笑うと、頼少納言にきょとんとされた。
「祢子様?」
「否、皇子が去る頃には私も鬼食いの座を追われている頃かと思ってな。台盤所で働ければ良いが、桔梗式部がちょいと怖い。出来ない者には厳しい方だと聞いているしな」
「何言ってるんです、祢子様は皇子のお嫁さんになるんですよ」
「そちらこそ何を言っている。貴族の後ろ盾も無い娘がどうして元が付くとは言え東宮の嫁になれると思うのだ。女房ぐらいにはなれるかもしれんが、階級も付かない私が」
「後ろ盾ならおっきいのがいるじゃないですか。帝ですよ」
「は?」
思わず声を上げてしまうと、頼少納言はくすくす笑って膝を寄せてくる。
「祢子に良い男はいないのか、いつでも後ろ盾は引き受けると言うのに、って毎日仰ってますよ、帝。春晃は臆病な所があるし、とか。でも基本はお二人の事祝福していらっしゃいますから、北の方様になるのだって夢じゃないですよ」
「夢じゃない」
「なのにこんなに祢子様をお待たせして。悪い皇子です、まったく」
ぷう、と息を吐いて、頼少納言は茶をくーっと飲んでしまう。堪りかねているのだろうか、だが帝、私と皇子の結婚が成立しないのはそもそもあなたが来るからで。新しい東宮が決まるまではそうするつもりなのだろうか。それまでは私と皇子をくっ付けないようにしているつもりなのだろうか。
悪い皇子。趣味の悪い皇子。本当にあなたは性格も趣味も悪い。屋敷の話なんて聞いてない。私は、せめて女房にはなれるようにした方が良いのだろうか。ぬか喜びになっても大丈夫なように。
せめて傍で? そんな殊勝な気持ちが自分にあった事に、ゾッとする。冬の寒さの所為だけでなく、そんなにも皇子を愛していたことに。そうか、私は皇子をそんなに愛しているのか。恋しているのか。好きになってやってもいいと思っていたが、自分の気持ちがここまで膨らんでいるなんて知らなかった。こんなにも恋しいと思っているなんて知らなかった。
本当は他のどんな女にも取られたくない。位の低い妾にでもなれれば良いなんて、卑屈な思いは全部嘘で、私はあの人の好きな人になりたいのか。清涼殿の鬼だぞ、私は。毒食わば皿まで、と言ったのは皇子だ。最初から皇子は私を全て受け止める気でいたのか。私が何者でも、食われてやるつもりだったのか。あなやと声を上げてぱくりと食べられるのは姫君の方だと言うのに、あの人は。あの男は。
変な所で肝が据わっている。解っていたけれどここまでとは思っていなかった。私を娶るのか、皇子。私は何も出来ないぞ。歌を詠むことも琴を引くことも出来ない、およそ普通の姫君とは出来の違う、ただの鬼食いだ。向かい合って一緒に酒でも飲めたら、それは幸せだろうか。何の屈託もなく、毒の心配もなくそうしていられれば、幸せだろうか。
過ぎた幸せではない? 私には、身分不相応なことではない? 私は、私はどうしたい?
私は皇子のお嫁さんになりたい。
ぽたっと袴に水滴が落ちる。頼少納言にばれないように、顔を隠すよう、私も茶をくぅーっと飲んでしまう。温かい。この温かさが味わえなくなるのは少し残念だな。いっそ皇子の屋敷に勧誘してやろうか。そうしたら帝が可哀想か。折角私の後ろ盾を買って出てくれた方だ。
優しいだけの帝だと言われていた。優しいだけかもしれない。でも良いじゃないか、優しい事は、悪い事じゃない。優しいんだから。その所為で東宮を選べないのは有耶無耶で優柔不断、良くないところなのかもしれない。でもいつかは選ぶのだろう。そして梨壺は皇子のものではなくなる。そして皇子は京に移る。
私も連れて行って、と、言う勇気を振り絞らなければならない。毎日の毒見よりよっぽど勇気のいる事だ。自分で自分のことを決めるなんて、私には恐れ多いと思っていたのに。年頃になったら女房になって、そのままずっと清涼殿にいるのだと思っていた。だってここが私の居場所だから。
でなければここにいる意味がない。意味がなければいられない。言いながら執着していたのだな、私は。鬼食いの定年も近い。皇子は私を連れ出してくれるのだろうか。
「祢子様?」
ぽろぽろ次から次に零れてくる涙は、止まらなかった。
「祢子殿!」
すぱんっと障子の開く音と、慣れた声にびくんっとする。
「見付けましたよ、あなたの膳に毒を盛った男!」
褒められたがりの犬のような声に、ぽかん、としてしまった。
猫達はくっくっくと笑い出していた。
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