第18話
久し振りに鬼食いとして毒に当たったのは真冬の朝だった。寒い寒いと単衣を被り、頼少納言のお茶でふーっと温まる。それから帝の膳が運ばれてきたが、スン、と羹の匂いを嗅いでみると、ツンとした悪臭が漂う。よく鼻を近づけないと解らないほどだったが、銀の箸を浸してみるとものの一瞬で真っ黒になった。頼少納言、と呼べば、彼女は台盤所の戸を開ける。風が入って寒いが、そうも言っていられない。
「羹に砒素が入っているぞ。見ろ、箸が真っ黒だ」
「きゃあ! 祢子様口は付けていませんか!?」
「匂いがあったからな、寸前で避けられた。念のために鍋を洗って作り直すと良い」
「ほ、他のおかずは」
「んー……私が見た所大丈夫そうだが、一応食ってみるよ」
「はい! 皆さん、羹に毒が入っていました!」
ぱたんっと戸を閉めて、頼少納言が台盤所に伝える声がする。しかし砒素か。典薬寮にでもあったのが盗まれたのかな。トリカブトより楽に手に入るだろう、学生や博士には。さて典薬寮に私を恨むような輩がいたらの話だが。藤原氏の息子が典薬寮の学生だったかな? そう言えば。
砒素は僅かずつ入れて行けばやがて体内に蓄積し中毒死する、と書物で読んだことがある。それほど入ってはいなかったようだが、私が気付かずに帝にお出ししていたらやがて体調を崩されていた事だろう。危ない危ない、と私はひじきの煮物をくんくんと嗅いでみる。こちらもか。用意が良い事だ。ひじきには元々毒が含まれていると言うのも読んだことがある。それも砒素だったはずだ。
強飯は問題なし。他の膾や醍醐にも問題は無し。頼少納言を呼ぶ。ひじきの煮物も僅かながら毒されている。えええっと慌てた彼女は、私の、もとい帝の膳を持って台盤所に向かった。後は半刻ほど私が毒に当たらなければ良いのだが、その時間は暇でもある。ぼけーっとしているのは別に毒の所為ではない。保管してある蜂蜜でも食べようかと思ったが、それでは意味がない。
しかし銀の箸があれほど黒くなるほどの殺意を私か帝に持っている輩がいるとなると、昼餉も夕餉も油断は出来ないな。誰が入れたのだろう。うとうとしていた所で急に喉にひりひりとした痛みが上り、私は慌てて盥を引き寄せげぇっと吐いた。
箸の方にばかり気を取られていたのか、何か逃していたらしい。嗚咽交じりの声に慌ててやって来た桔梗式部が、私の喉に指を突っ込んでくれた。お陰で嘔吐が上手く行き、なんとか一命をとりとめる。危なかった。今のは相当に、危なかった。胃がぐんっとせり上がり、また吐き出される。
吐瀉物の匂いから、それも砒素だと解る。西京漬けの味噌辺りだろうか、げほっげほっとえづくのが止まって来ると、呼吸も上手く出来るようになってはーっと溜息を吐いた。そして桔梗式部を見上げる。
「恐らく西京漬けの味噌だと思われます。匂いが強いから分からなかったのでしょう。ここで止まって、本当に良かった」
「ええ、お手柄ですよ祢子。でも言い訳はいけません。もしあなたが気付かなかったら、御上に出されていた食事なのですからね」
「はい、心得ております。でなければここにいる意味がない。意味がなければいられない」
「……そうです。ですが祢子、少しだけは自分も労わりなさい」
「え?」
「あなたは小春の君のものでもあるのですからね。怒鳴り込まれては、堪りません」
くすっと珍しく笑う桔梗式部に、私は唾液をだらだら垂らしながら俯く。怒鳴り込む。やるだろうなあ皇子なら。なんてったって私を愛しちゃってるから。げほっげほっとまた何度か吐くと、盥の中はすっかり汚れてしまっていた。味噌は匂いがきついし味も濃いから、気付かなかったのだろうなあ。最近呑気にしていた罰が当たったか。問題はこれが帝を狙ったものか私を狙ったものか分からない所だ。
私も最近はあちこちに恨みを買っている。毒を撒いている。それが返って来たのだとすれば、私の自業自得だ。帝を今失脚させる必要は、無いと言うかむしろ困るだろう。いまだ東宮は春晃皇子なのだ。赤ん坊のどちらかは決まっていない。まあ何年かやらせてその間に東宮の座を奪ってしまえればいいだろうが、その前に私が皇子の子供を産んでは困る。
どっちにしろ邪魔者なのだ、私は。しかし久し振りに当たると存外苦しいものなのだな、と思わされる。鬼食いになってもう八年ほどになるが、昔はよくあったので気にならなかった。今は滅多にない事なので、身体が驚いてしまっている。
悪い兆候だな。さっさと鬼食いとしての自分を取り戻さなければ。その為には皇子と会うのも少し控えよう。私はもっと、冷たい方が良いのだ。でなければここにいる意味がない。意味がなければいられない。それをもっと、しっかり自覚していなければ。
ふうっとある程度吐き終わると、桔梗式部は台盤所に戻って行く。朝餉は大分帝を待たせてしまいそうだな。皇子やお方様方も。どうやら桔梗式部は市から直接材料の買い付けをしてくるよう命じているらしい。安心と言えば安心だ。そして台盤所を一度空っぽにしてしまう事にしたらしい。漬物も野菜も何もかも。落窪に捨てておくように、と声がして、私はずるずると脇息に凭れる。
どっとやって来た疲れと冬の朝の倦怠感で、私はすう、と眠ってしまった。
「祢子様、祢子様」
「ん」
「新しい膳です。お疲れでしょうが、お毒見を」
頼少納言の言葉に目を覚ましたのは四半刻ほど後だっただろうか。大分回復したのが私の便利な所だ。毒に強い。とびっきり弱いとも言える。少量で反応できる。醍醐の皿は流石になかったが、大体の皿が揃っているそれに、私は箸を強飯から抜いた。それから同じ轍は踏まないよう、先に猫達に食わせて行く。こいつらなら死ぬことも無い、焼き物になったところを洗ってしまえばそれで解決だ。
一口ずつ食べさせていき、私も口にする。包丁やまな板を洗うのも命じたのか、そこそこに美味くなっていた。猫達も反応しないことから、私は箸を戻し、また半刻の待機時間に入る。
あまり目立ちたくないのだが、一時期は帝と東宮と一緒に梨壺で夜を過ごし水滸伝を読んでいたからなあ。子供が一人減って私は呼ばれることが無くなったが、女房達はただの鬼食いをそこまで引き立てる事を疎ましく思った者もあったかもしれない。
ただの鬼食い。何も出来ない私の命懸けの仕事がこれだ。すりすりと黒が懐いてきて愛想を見せるが、顎を掻くぐらいの事しか今は出来ない。これでも毎日死ぬ覚悟でやっているんだがなあ。
それでも私の存在意義には足りないか。だから毒も盛るか。
「祢子殿?」
少し虚しくなってきたところで、時間が経っているのに気付く。とっくに皆の食事は終わって、せっせと仕事に励んでいる時間だ。呼ばれた声は皇子の物。この三カ月ほどですっかり慣れた声だ。自分の名前だ。猫とも祢子ともつかない私に、与えられた自覚。それは嬉しかったのかもしれない。
「何だ? 皇子」
だが今は遠ざけていおいた方が良いだろう。毒に狙われる鬼食いになったのだ、私は。私を狙っている毒は、皇子も狙うかもしれない。何せ現東宮なのだから。梨壺を空にして自分の身内を押し込んで来ようとする公達が、いないとも限らない。だから毒からは、私からは、遠ざけておかねば。
閉じられた障子に映る影。冠が揺れて、首を傾げるのが分かる。
「入ってもよろしいでしょうか」
「止めておけ。今朝は毒に当たっている。空気からうつることは無いだろうが、用心に越したことはない」
「そんな、」
「あなたは東宮なのだ。少しは立場をわきまえられよ」
「……蜂蜜をお持ちしましょうか。私の分もまだ少し、残りがあります」
「いらん。そう言うものは自分の為にとっておけ。私もそうしている」
「ですが忠長殿には口移ししたではございませぬか」
ああもう。
このしんどい時に、嫉妬まで出して来るか、この皇子は。
「あれは応急処置だ。良いから自分の仕事を片付けて来るが良い。私も今暫くは毒が抜けるのを待つのが仕事だ」
「……ですが、」
「返事はもうない。まだしんどいのだ。帰ってくれ」
冷たい言葉は出せただろうか。冠を下に揺らして、とことこと皇子は梨壺の方に帰って行く。いつもより足音が小さくて、しょげているらしいのが分かった。
だが悪く思うなよ。私にも私で仕事があるのだ。昼餉までに体調を戻しておかなければならない。それに話をしているのは、疲れてしまう。いくら好きな相手でも、出来ないものは出来ない。
いっそこれで捨てられてしまえば楽なのだがな。思いながら私は単衣を被って、几帳の中、すぅすぅと寝息を漏らす。
誰にも必要とされない夢を見た。
どうせ私は捨て子なのだと、使い捨ての鬼食いなのだと、解らせられる思いだった。
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