第16話
昼が過ぎる頃には忠長の呼吸も痺れも回復し、すぅすぅと眠っているだけになった。私は鬼食いの仕事を終え、その様子を見てホッとする。一応私の首は繋がったと言う事だろう。命懸けで私を失脚させに来た忠長には悪いが、こちらも毎日が命懸けなのだ。
と、几帳から出て畳に向かっていた私に掛かる影がある。障子の見ると、皇子と知れた。
「祢子殿。入ってもよろしいですか」
「少し待ってくれ」
急いで几帳の奥に入り、御簾を下ろして、良いぞ、と声を掛ける。
障子を引いた皇子が持っていたのは、茶碗だった。どうやら薬湯が入っているらしい。もしや最初に私がトリカブトの毒を当てた時に飲ませた物だろうか、思っていると盥をこちらに、と言われる。やはり飲ませて吐かせるものだろう、朝に顔を洗ったきりの盥を御簾の下から押しやると、まだ顔色の悪い忠長の口に皇子は薬湯をゆっくり飲ませた。
それから少し待って、喉の奥に指を突っ込む。がはっと出て来た薬湯を盥に吐かせながら、皇子は無表情だった。二・三度繰り返してからぜえぜえと息をする忠長は、目を覚ましたのか、ああ、と息を吐く。
「失敗したのか。私は」
「藤原氏からの命ですか? 忠長殿」
「それを言ったら家が断たれる。私の死でな」
「そうですか。美丈夫が台無しですよ、口元をお拭きなさい」
「どうせなら蜂蜜の口吸いが良かったものですが」
「私がして差し上げましょうか」
「いや結構」
はーっと息を吐いた忠長は、多分小突いても依頼主の名は明かさないだろう。白には御子の様子ばかり見に行かせていたから、大臣の事は放って置きっぱなしだったのだ。もしかしたら手紙のやり取りで命じていたのかもしれない。そうなると私にも白にも分からないから、どうしようもないが。
しかしまたトリカブトとは、芸がないな。だが私以外の人間なら大分効く毒だろう。そこらの山に入ればすぐに見付けられる。斎藤是和からの横流しなのかもしれない。それも今はどうでも良い事だ。取り敢えずお互い首が繋がったのだから。
「忠長殿。これよりあなたには雷鳴壺に向かってもらう」
「帝の相手は出来ませんよ、私。これでも男ですから」
「そんなことは解っています。見張りも立ててあなたを暫く監禁させて頂く。そうしてあなたを死んだように見せれば、藤原氏の次の動きが見えようというものです。勿論梅壺様や藤壺様と相まみえることはなりません。その御子達にもです。死んだ事にしてしまえば失敗が主にばれない。あなたにも良い条件でしょう?」
うぐ、と一つ息を呑んだ忠長は、はあっと大きな息を吐いて乱れた直衣を伸ばしてから両手を上げた。降参、と言う事だろう。それから私の方を向いて、にぃやりと嫌な笑い方をする。
「ところで私は祢子殿の口吸いを受けた最初の一人になるのですかな?」
「忠長殿」
「おっと、いつも呑気な小春の君が恐ろしい声を出す。図星だったようですね。私はそれで充分ですよ、猫の姫。どうか壮健で」
ばしっと皇子に背中を叩かれた忠長は、ふらりと立ち上がって雷鳴壺の方に向かう。途中に藤壺と梅壺があるので少し不安だったが、鬼の間にいられるのも困るので、いまだ誰も入内していない雷鳴壺はうってつけだった。大納言の娘が入内してくる予定だった桐壷も空いてはいるが、七殿を通って行くのは不安だったので、そちらに。梨壺からも回り道になるし、面倒な場所なのだ。光の君のお父上はよくも面倒がらずに通ったものだと思う。
それより問題は藤原氏が何をしてくるかだ。取り敢えず雨戸を閉め、心張棒の入っている箇所を押してその頑丈さを確かめる。またぞろ弓など入れられては叶わない。
雷鳴壺様は御寺に入り、尼となった。これよりは梅壺様と藤壺様、それぞれの御子、そして御自分の御子の健康を願って世俗を絶つ覚悟をしているらしい。お子は東宮候補から外れ、藤原氏に戻された。帝は嘆いていたが、雷鳴壺様が決めた事、それを尊重して御子を手放した。東宮候補は残り二人。どちらも藤原氏とは関係がない。帝祖への道は絶たれた。それはその権力を、僅かにだが弱めることとなってしまう。
それが気に入らなかったのだろう、梅壺様を失脚させる計画を破り雷鳴壺様を出家させる原因となった私を恨んでいるのは知っていたが、まさか身内を使ってまで私を陥れようとしてくるとは思わなかった。
台盤所に通じる戸から出て来た桔梗式部が、あら、と空っぽの布団と汚れた盥を見る。祢子、と呼ばれ、はい、と私は返事をした。
「忠長様はどうなさったのです?」
「皇子が雷鳴壺に連れて行きました。藤原氏の言動が知れるまで、生き死にを彷徨ってもらう予定です」
「皇子……小春の君が?」
「それと、毒を吐いたので盥を洗って下さると助かります。私も少し喉が渇きましたので」
「解りました。頼少納言、頼めるかしら」
「はい、式部様」
雑用を色々任されてくれる頼少納言には頭が上がらんなあ。思いながら私はうんっと伸びをする。金糸が頬に触れた。
そう言えばこの十二単は、皇子に借りている物だったな。私が皇子に貰ったものもとっくに繕っているのだが、ほんの少し着ただけで洗濯するのもこの時期は面倒とのことで、ずっと着ている。上物で温かい。勿論皇子がくれた物も温かかったが、やはり中宮の物とは織物からして違うのだろう。今の左大臣様や右大臣様、太政大臣様がまだその位置にいなかった頃は、よく帝を待つ間鬼の間で遊んでもらったものだ。その頃は裳も付けていなかった。子供だったのだ。体温も高く、厚い単衣は邪魔なぐらいの。
子供を厄介払いするほど、藤原様も狭量ではなかった。漢字を教えて貰ったり、水滸伝を熱く語ってくれたのもあの方が最初だったと思う。
六年で私は裳着も済ませ、鬼食いになった。だが黒旋風が好きなのは今も昔も変わらない。藤原様は変わってしまっただろうか。変わってしまったのだろうなあ。娘を入内させ、太政大臣の席に着き、念願の孫も生まれた。
それが私の所為で滅茶苦茶だ。娘は世俗を捨て、孫は東宮合戦から落ちた。面白くないだろう。苛立つだろう。ならば罪を着せて清涼殿から追い出してしまえば良い。そうすれば、留飲も下がるというものだ。そういうもの。なのかなあ。
午後になり脇息に凭れうとうとしていると、祢子、と桔梗式部に呼ばれる。はあい、と寝惚けた声を出せば、お客様ですよ、との事だった。どなたです、と訊ねると。
「久し振りだな、祢子。否、今は鬼食いか」
懐かしい声は、藤原様の物だった。
「――お久しゅうございます、太政大臣様」
「固くならんで良い。時に今朝方、伊藤忠長と言うわしのゆかりの者が訪ねて来なかったか?」
さあどう答えた物だろう。台盤所からもぴりぴりした視線が向けられているのが分かる。どう答えるべきか。皇子が来るまでだんまりを続けても良かったが、私もそこまでか弱くはない。姫君でも無しに。鬼食いの分際で。
「いらっしゃいました。毒を持って、その鑑定を頼みたいと」
「ほぉ、毒の鑑定なあ」
「私の舌は帝とお方様方のものだと断りましたが、薬袋はここに置いております。お確かめになられますか?」
「いや結構。それで、忠長はどうした?」
「倒れました。自分で毒を含んでいたと言って。父に盛られているのが毒だったと知って、衝撃を受けていたようでした」
「――生きているのか?」
「さあ、それは典薬寮に連れて行った春晃皇子にお尋ねくだされば」
「皇子?」
突然出て来た現東宮の名に、ぴくりとその肩が反応する。
「私達、恋仲ですの」
台盤所から色んなものを堪えた気配が伝わって来た。そして障子の影からも。からりとそこを開けた皇子は、しっかり雷鳴壺に見張りを立てて来たのだろうか。抜けている所もあるからなあ、この皇子は。
でも私の好きな人だからなあ。信用はしておきたい。信頼は、しておきたい。
「……春晃皇子、これは、ご機嫌麗しゅう」
「そう畏まらなくて良い、太政大臣殿。ゆかりの方は典薬寮で生死の境をさまよっているところですよ。それにしても鬼食いの元に毒を含んでやって来るとは、まるで自爆ですね。薬も毒も、いくらでもあると言うのに」
「本当に忠長は自分で毒を含んだと言ったのですか?」
「どういう意味でしょう」
「鬼食いに一服盛られたのかと」
「何のために」
「我が勢力を削ぐために。そう、娘にしたように」
「何ですってぇ!?」
響いた声は、頼少納言の物だった。
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