第17話
思わぬところ――台盤所から響いた素っ頓狂な声に、驚いたのは鬼の間にいた三人共だった。真っ赤な顔をした頼少納言は、だんっと膝で板の間を叩き藤原様の前に出る。ぽかん、としていた彼はハッと威厳を取り戻すが、頼少納言の口は止まらなかった。
「忠長様にお茶をお出ししたのは私です! 祢子様は器に一切手を触れていません! 毒を盛ったと仰るのなら私になるでしょうが、私はそんな事していません! とんだ濡れ衣ですわ!」
キン、と響く年頃の女子特有の声に、御簾の裏で私は頼少納言の背を見ながら笑ってしまいそうになるのを堪える。
「大臣様、この頼少納言は帝の茶も立てる係だ。信用は帝の折り紙付きだぞ」
「むぅ」
「驚いているのはこっちなんですからね! 朝から毒を含んで来るなんて馬鹿なことをして、お陰で昼餉の時間が遅れそうになったり、祢子様は几帳から出て看病したりして! 嫁入り前の娘になんて事させるんです! ご自分のゆかりの方はご自分で躾くださいまし! 私達、ほんっとうに迷惑したんですからね!」
学生相手にだから言える事だよなあ。相手がもっと地位のある公達だったなら、頼少納言もここまで言えはしないだろう。だからこそ強い。歳は私より三つほど上だが、あの忠長よりは年下だ。だと言うのにここまで言えるのは、学生が学問しか知らず、女房達が世慣れているからだろう。恐ろしい事だ、まったく。今を時めく藤原氏の長にここまで言えてしまうのだから。
「わ、わしは関係なかろう、すべては忠長が自分でした事だ」
「では何故忠長殿がここにいると思われたのです? 大臣殿」
「それは――公達が、ここに入るのを見たと言うので――」
「どこの公達でしょう。私、出仕している公達の顔は殆ど覚えていますから、特徴を教えて頂ければ確認が出来ますよ」
「その――顔にほくろのある、」
「十七人」
「しもぶくれの、」
「十三人」
「赤い頬をした、」
「十人」
「……覚えているのなどそれぐらいだ! 何か文句がおありか、皇子!」
「十人にまで絞れたら、聞き込みは簡単ですね。誰があなたに忠長殿の行先を教えたのかはすぐに分かる。誰も当てはまらなかったら? どうなるのでしょうね、大臣殿」
だんっと胡坐を掻いていた足を起こし、藤原様は黙って出て行く。皇子にここまで言われたら、私を陥れるどころか、私を陥れようとしたかどで捕まるのが自分だと解ったのだろう。ふうっと皇子は汗を拭く。手拭いを盥の水で絞ってから、御簾を上げ渡してやった。受け取って顔を拭くと、ふーっと赤い顔をしているのが分かる。
「はったりをかますと言うのも、中々疲れますね」
「ってはったりだったのか」
「いえ、知っている公達にその特徴の者がいるのは本当ですよ。ただし知らない公達だとしたら解らない。とりあえず裏を取りに行ってきます。頼少納言、それに合わせて茶を立てて頂けますか」
「はい! まったく私が毒入れるだなんて、とんでもない大臣様ですよ! 縁もゆかりも恨みも無い相手にそんなことしてどうするって言うんです! 第一トリカブトなんて恐ろしい物、どこで仕入れろって言うんですか! もー、もー!」
「そのぐらいにしなさい、頼少納言。桜少納言のように寝込んでしまわないのがあなたの強いところだけれど、太政大臣様なのですよ、相手は。はらはらしてしまいました」
「だってー」
「まあ、頼少納言に圧倒的な分があったからな。しばらく顔を出せんだろうさ」
皇子が去り、少納言たちが去り、急に一人ぽつんと残された部屋で、私はなんだか寂しさを覚えている自分に笑ってしまう。
ほんの少し前までそれは私にとって当たり前の事だったのだ。たまに頼少納言に茶を立てて貰い、食事の時間以外は放っておかれて、だから漢籍を読んでは時間を潰していた。今は梨壺にある水滸伝。読みに行こうかと思うが、下手に出掛けて矢で射られるのも嫌だ。睡眠は最近十分に摂れているし、さっきの今でまた転寝しようという気にもなれない。
いつの間にか随分弱くなってしまったなあ、私。変わらないのは舌だけか。そう言えば結局忠長の持って来た毒は本物だったのだろうか、確かめようかと思ったけれど、藤原様の反応からして本当に毒物である可能性があるので止めておいた。
それから白と目を繋ぎ、伊藤家を探して覗いてみる。藤原氏は身内をなるべく近くに寄せて家を建たせているから、見付けるの簡単だった。と、そこに現れるのは高そうな牛車だ。白を壁に上らせて、そこから出て来る男を眺める。
藤原様だった。門を擦り抜け玄関で怒号を放つ気配。出て来た老爺は忠長の父親らしい。なんだ、元気に物忌みしてるだけじゃないか。毒なんて最初から私を片付けるための物だったのだろう。思っていると、怒鳴り声が響いて来るのが分かる。
お前の息子は役立たずだ、とか。
死に損なって典薬寮にいるそうだ、とか。
鬼食いの始末も出来なかった、とか。
最初はぺこぺこと頭を下げて平身低頭の様子だった伊藤氏は、しかし重ねられる罵倒にたまりかねたのか、藤原様に言い返した。帝と一番歳の近い雷鳴壺様がさっさと御子を作っていればそもそも東宮合戦なんて起こらなかったし、下手な小細工をして雷鳴壺様が尼になることも、御子を返されることもなかった。その尻拭いをさせに息子を犠牲にせよと仰ったのはそちらではありませんか。物忌みが終わったらすぐにでも出仕して息子を引き取って来る。その前に息子が死んだら、今回の事はすべて帝のお耳に入れる。
その言葉に藤原様は腰に佩いた達を抜き――
伊藤氏に切りつける寸前で、白にその手を噛まれた。
「なっお前、祢子の所の白か!? ええい離せ、痛い、こら! 白!」
知り合いだろうが悪党を離さないのが我が眷属の良い所で。慌てて外に出た伊藤氏は、あらん限りの声で叫ぶ。誰か、誰か検非違使を呼んでくれ。藤原様が錯乱なされて剣を振るっている。誰か、誰か。
ぱちっと私が目を開けると、紫宸殿の方が騒がしいのに気付いた。検非違使達が出て行く馬の足音を聞いて、もう一度目を閉じると、白について行った赤が爪でその顔を引っ掻いている。顔は止めなさい、と呟くと、仕方なく赤は袴をぼろぼろに切り裂いていった。裾が覚束なくなればそう簡単に逃げることも出来ないだろう。やがてぱかぱかと馬で検非違使が駆け付けて来て、牛車の牛が驚き、前足を上げる。どうどうと稚児がそれを宥めている間に、服も顔も猫に引っ掛かれまくった藤原様は、振り回していた剣を捨てて、がっくりと項垂れながら検非違使に連れられて出て来た。
まあ権力ですぐに釈放されるだろうことは解り切っていたので、物忌みの終わった伊藤様が出仕してきた所で、忠長の監禁も解いた。生きていた息子に伊藤様は泣きながら私にありがとう、ありがとうと言って、それから帝に今回の件のことを全てお話になった。
政務と子守りでてんやわんやになっていた帝はそんな事があったのかと私と皇子を叱り、無事で良かったが金輪際毒絡みの事は報告すること、と言われてしまった。
まあ私は鬼食いだし、それは仕方ないかな。皇子だっていまだ位置は東宮だ。その二人で隠し事と言うのはも帝だって怒るのだろう。本当、お三方が惚れただけあって、いざと言う時の帝は手早いし恐ろしい。即位したのは二年前なのに、所々では貫禄が出せるようになっている。と言えば不敬だが、しかし、と皇子と私は茶を飲みながらふーっと息を吐く。結局思い当たる公達はいなかったらしい。頼少納言の茶は、温かいと香りが立って更にうまい。
「白や赤、頼少納言の事もあって、藤原氏はもう鬼の間には手を出して来るまいな」
「あらなんです私の事って。私は自分の潔白を証明しただけです」
「そうだな、あなたは何も悪くないな。だが結構な剣幕だったからな、伊藤氏を訪ねた時にはもうかんかんだったぞ、藤原様」
「どうしてそんなことを御存知なんです?」
「え? あーと、検非違使の噂かな」
「本当ですかあ……?」
じいっと見て来る頼少納言は、斜め上を見て視線を逃がす私を見て、ふうっと息を吐く。それから台盤所に下がっていくのに、私達はほっと息を吐いた。危ない、危ない。猫達の事は秘密にしておいた方が良いだろう。この十年で、喋る猫は一般的に気味が悪いと知っている。もっとも、皇子は驚いただけだったが。変な所で肝が太いよな、この皇子は。
「それにしても伊藤氏は藤原氏から離れて行けるものなのでしょうか。心配ですね、それも」
「あの父親なら大丈夫だろうよ。今は中納言だったか? 死ぬまで出仕して、小僧を育てるだろう。問題ない」
「……個人的に一つ、問題があるのですが」
「ん?」
「私も祢子殿から口吸いを貰ってみたいのですが」
茶を吹きそうになって、まだ根に持っていたのかと驚かされる。
あー、でも、私も初めてをあんな男にくれてやったのは後悔しているしなあ。
仕方ない。茶を飲み干して、私は御簾を上げる。
ごくんっと皇子が喉を鳴らす音がした。
そっと触れると、茶の味がして、まあ、悪くないんじゃないかな、と思えた。
悪くない。
惚れた男のそれなら。舌を突っ込まれても離さない。
その程度には、私もこの皇子を好いているのだ。今更ながら。
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