第13話
大分顔色の良くなった梅壺様が訪ねて来たのは
「もしやまた弓が――」
「いえ、念のためですよ。お方様に何かあっては大変ですからね」
薄暗い部屋の中、ほっとした梅壺様は、華奢な身体に赤子を抱いて、私に膝を寄せてくる。
「この頃乳の出が良くなって来たの。あなたが入れてくれたお薬のお陰かしら、妙な読経もなくなってすっかり安心して居られているわ。一昨日は小春の君と来ていたけれど、何の話だったの? 私、よく解らなかったわ。雷鳴壺の姉様との争いなんて。精々が東宮合戦ぐらいだけれど、それもお父様達が勝手にやっている事だし」
そう。
白が見届けた男は藤原本家に入って行った。太政大臣藤原氏だ。先日の斎藤氏も藤原氏とは繋がりがある。そして、雷鳴壺の女御の父君でもある。もしも雷鳴壺様と梅壺様の間に諍いがあって藤原氏が己が孫を東宮にするため梅壺様に薬を盛っていたと言うのなら、話は簡単だが複雑であるともいえる。帝にとっては息子の祖父なのだ。そう簡単に罰することは出来ないし、今を時めく藤原氏に刃は向けられまい。どうしたものかと思うが、猫の見た風景は証拠にならないだろうし、何せ太政大臣様が相手だ。私達も素手ではいられない。
東宮合戦。やはり動機はそれだろう。どこの大臣も自分の孫を東宮にしたがっている。私には分からない事だが、権力争いと言うのは面倒な物なのだろう。斎藤高氏だって、帝の座を欲しがった挙句の事だった。まだ帝に子がない内にと。だが今は頭の上に更に三人の子がいる状態だ。典正も。もう東宮の地位は、周って来るまい。
梅壺に僧を忍ばせていられるお大尽など、そうはいるまい。そして見張りを付けた途端にぴたりと止めた。敵はこちらの手の内を見ている。知っている。解っている。それだけ、後宮に近い者と言ったら、太政大臣と左大臣に右大臣と言ったところだろう。子らの、祖父達。
勝手にやっているだけだと梅壺様は言うが、簡単な話ではないのだ。次の帝の祖父になると言う事は、内裏の権力を一気に手に入れると言う事に近い。帝すらも凌ぐことが出来るかもしれないともなれば、相手も本気度合が違うだろう。
そうなると、やがては母君だけでなく子供にも刃が向く。それは避けなければならない。今の所一番図太く母の腕の中で眠っているが、子供は子供だ。毒には特に気を付けなければなるまい。母の母乳で育つうちは母の身が危ない。梅壺様の、身が危ない。
「ちょっとした確認ごとですよ、他意は有りません。時にそろそろ、授乳の時のようですよ」
「あら、裳を噛んで、この子ったら……はいはい、今あげますからね」
「良ければ几帳の中をお使いください。流石の皇子にも見えないでしょうから」
「仲良しなのねえ、二人は本当に」
「不本意ながら。何故か災難ごとに巻き込まれにやって来る。厄介な皇子ですよ、あれは」
「小春の君を『あれ』扱いできるから、強いのよ、祢子さんは。そう言えば今日は猫達の姿が見えないようだけれど」
「外で日向ぼっこしています。雨戸を閉められるとそうするしかないので。もう少し冬が近づいてきましたら、温石で引き寄せます」
「まあ。猫は温かい所が好きだというものね。あら」
裳を解いて胸を曝け出していた梅壺様の元に、ひょいと雨戸の隙間から入って来た青がごろごろと懐く。ふむ。そうか。子供が三人、猫が四匹、ならば。
「梅壺様、猫は魔除けにもなると言いますから、良ければその青をお傍にお付けくださいませんか?」
「良いの? 何を食べるのかも知らないのよ、私」
「勝手に床下のネズミでも食うでしょうし、水があれば飢え死にはしませんよ。頼めるか、青」
なぁーぅ、とわざとらしく猫の声で鳴くのに、くすくすっと笑って梅壺様は授乳しながら青の頭を撫でる。先日焼き物に戻して四匹洗い倒したから、さぞやふかふかだろう。変な所だけ猫らしい。水が嫌いだとか、雨の日の前には顔を洗うとか。果たしてどちらが本性なのだろう。それは私を内裏に捨てたひとにしか分からない。
せめてもの詫びにとこの四匹を置いていったのならば、何故私一人を連れて行くことは出来なかったのだろう。思ったこともあるが、詮が無いので止めた。私は望まれぬ子だった。三人の東宮候補とは違って。
否、この子達も他の大臣から見れば望まれぬ子か。一緒の日に生まれた、三人の赤子。誰がどうとも決められない中、日々だけは過ぎて行く。早く梨壺を手にしてしまわなければと、焦っているお祖父さま方のいる。
寝ずの番。猫の番。二ついればどうにかなるだろう。だが本当にそうだろうか? 次の手配を行っているのでは。鬼食いが絡んでいることを知ったのなら、今度こそ桜少納言のように脅しつけて私を殺す毒を仕込んで来るかもしれない。そうはさせないと皇子辺りは鼻を鳴らすだろうが、私の方が毒には舌も鼻も効くのだ。
桜少納言は恐怖から臥せってしまっている。今の所そちらに藤原氏の手は回っていない。呪い。のろい。まじない。そんなものはないと思っているが、箱入りの姫君を脅すには便利な言葉だろう。
青がそろそろ現れるだろう『床下のネズミ』をうまく食ってくれれば良いのだが。
裳を直した梅壺様は、また寝入ってしまった子供を愛おし気に見ている。食って寝て、本当に大器だな、この子供は。襁褓が汚れても滅多に泣かないと言うのは、被れてしまうからあまり良くもないけれど。藤壺様の所は夜泣きが多くて大変らしい。雷鳴壺様の所は添い乳が無いとすぐに泣き出すとか。考えると、一番手の掛からない子供はこの子だろう。
つまり狙われやすいのもこの子だと言う事だろうか。それは解らないが、藤壺様か雷鳴壺様のお父上が梅壺様を狙っていると見るのは確かだ。そして白の情報から、藤原氏――雷鳴壺様のお父君がそうであると、予感は出ている。後は証拠だ。
皇子に一つ頼んでみるか。それとも赤達に任せてしまおうか。猫の言う事など誰も本気にしないだろうから、頼むなら皇子だな。
「吾子、随分大きくなって、今では三人のうちで一番大きいんですよ」
「乳が良いんでしょうよ。少しの間は不満だったでしょうが、今は随分満足していると見える」
「ええ、袴が濡れて仕方ないぐらいに出るようになって……本当、祢子さんには感謝しきれないばかりです。このまま乳離れまで持ってくれれば良いのですけれど」
「たまに重湯も飲ませるのが良いと聞きますよ。水分は大切だからと」
「なるほど……台盤所に、頼んでみます」
「その時は私が毒見いたしますよ。ぬるくなって丁度良いでしょう。赤子が狙われる可能性も、無くはない」
私の言葉にぶるっと震えた梅壺様は、そうですね、と頷いて見せた。
この人も私と同じなのかもしれない。子供を産んで次期東宮に。でなければここにいる意味がない。意味がなければいられない。七殿の女御たちもさぞかし居心地の悪い思いをしているだろう。だが生まれてしまったものは生まれてしまったのだ。それを守るのが、清涼殿に構える私の役割。
でなければここにいる意味がない。意味がなければいられない。私の居場所はここだけなのだ。少なくとも次の東宮が決まるまでは、私がこの子らを守らなければならない。猫を付けるのも弓矢が飛んできた時に取らせるためだ。その為にはしなやかなこの動物たちが心強い。
「このまま平和な日々が続けば良いのに……」
ぽつりと呟いた梅壺様に、私は何も言い返せない。
下手な慰めは出来ない。
私にはその資格もないのだ。
私に出来るのは、毒を見分ける事だけ。
読経が果たして魔除けなのか死者への弔いなのか、聞き分けるぐらいのことだけだ。
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