第14話

 こくりこくりと眠り掛けている見張りは一人だ。この三日何事もなかったから人数を減らされたのだろうと思わせるためのそれに、敵は見事に引っ掛かってくれる。粗末な身なりをした坊主を床下に潜らせ、静かにしかし梅壺の全体に響く声で唱えられるのは読経だ。死者を弔うためのそれ。うう、と梅壺様が唸る声が聞こえる。やはり心の奥では不安があったのだろう、その様子にしたりと言った様子でより低く低く声を響かせるのは生臭坊主だろうか。それとも高僧を雇って襤褸を着せたのだろうか。


 毒だ。これは気の毒なことをしている。ただでさえ産後の立ち行かない身体で不安もあると言うのに、こんなものを一晩中聞かされたら堪ったものではないだろう。だから私はこの毒を食らう。梅壺様の為に。私の為に。


 ぎゃあっと声が上がる。すかさず立ち上がるのは眠っていたと見せ掛けていた見張り――春晃皇子だ。しゃーッと声が上がり、青に爪を立てられ襤褸が襤褸襤褸になった姿で出て来るのは坊主である。それをすかさず槍で叩き捕まえたのは皇子だ。それと同時に私は辺りを見渡す。ギリ、っと弦の音。赤に木を上らせて顔中引っ掻かせたのは、多分鬼の間に弓を射かけた者と同じだろう。つまりは藤原氏の者。桜少納言に首実検させれば一発だ。

 もっとも藤原氏を恐れて、少納言は首を振るだろうけれど。だけどこの後宮で、春晃皇子に捕まえられた二人とあれば、藤原氏も黙るしかあるまい。


 二人に縄を掛けて、やって来た見回り兵達に突き出すのと同時に、梅壺様が恐る恐ると言った様子で雨戸を開ける。物陰に隠れていた私はまた慣れない草履に指を痛めながら、その傍に歩み寄った。


「祢子さん? 一体何が――私、私また頭の中に読経が聞こえて、私」

「大丈夫です、頭の中で響いていたのではありません。坊主が床下に潜り込んで読経をしていたんです」

「床下?」

「言ったでしょう、青が床下でネズミでも捕まえるでしょう、と」


 松明に照らされた引っかき傷だらけの男達を見て、あなや、と梅壺様が目を見開く。それにしてもこの騒ぎの最中でも寝っぱなしなの、本当に神経が太い赤子だな、と思う。


「ええい離せ、わたしを誰だと思っておる! 御寺みでらの僧だぞ、早くこの縄を解け!」


 御寺とは天皇家にゆかりのある寺だ。そんな所から生臭坊主引っ張り出して来たのか。後で金子をどのぐらい持っているのか見分しよう。そしてあわよくば猫糞しよう。祢子だけに。


「その御寺の坊主がどうして後宮に入り床下で念仏など唱えていたのです? どなたの御指図か、教えて頂ければ寺に連絡して迎えを来させましょう」

「て、寺に連絡されるのは困る! 忍びで来たのだ!」

「だから、誰の御指図で?」


 むぐうと坊主は黙ったので、顔いっぱいによく研がれた赤の爪傷を付けた公達に尋問は移動する。


「あなたは藤原氏の馬子ではありませんでしたか?」


 直衣姿の男はびくっとする。まさに馬子にも衣裳だったのかと、私は皇子を見る。斎藤氏の事件以来、公達に混じって顔を覚えることに躍起になっていたそうだ。いざと言う時に誰が何をしたのか解るように。しかし馬子まで記憶しているとは、流石は私と同じく漢籍を愛する者。暗記は得意なのだ。私は鬼の間からほとんど出ないし公達も来ない清涼殿の一室にいるから、発揮出来ないけれど。


「つまりこの一件は藤原氏が関わっていると、そう仰るのですか、春晃皇子」

「推理にすぎませんがその可能性は高いですね」

「ち、違う! 俺一人の判断だ、これは! 殿様の孫を東宮にするために、まずは神経の弱っている梅壺から攻めようと――」

「何故梅壺殿が弱っているのを御存知で?」

「そ、それは」

「後宮の情報を流している者がいる――雷鳴壺様ですか?」

「違う! あのお方は何も関係ない!」

「ありますよ」


 その時雷鳴壺の方からやって来たのは、単衣を着てしずしずと歩いて来る女御だった。


「佐助。お父上に何を言われたのか。素直にお話しなさい。梅壺様は私の妹同然の方。彼女に危害を加えた次第、すべて申して見よ」

「姫様――」

「佐助」

「……御意、お方様」


 がくんっと首を垂らした男――佐助は、するすると話し出した。


「最初は梅壺様の乳の出が悪くなるように膳に薬を入れました。台盤所の女房を脅してです。代わりに姫様と藤壺様にはよく乳の出る薬を。乳離れ以前に弱ってしまえば東宮の座は外されると思ったのです。だが鬼食いがそれに気付いてしまった。坊主を引き込んで念仏を唱えさせていた事もばれてしまった。せめて脅した女房の口封じにと弓を入れましたが、鬼食いはそれを身体で受け止めた。見張りも入れられて読経も出来なくなった。梅壺様は恢復なされてしまい、焦りました。このままでは一番大きな身体をしている梅壺様の子が東宮に選ばれる可能性が高い。だがまた梅壺の警備が緩んだ。好機だと思いましたが、まさかそれが春晃皇子とは――」


「父は関係ないと申すか? 佐助」

「殿様は関係ございません。すべてこの佐助の判断にございます。本当です、ですから殿様にはどうか――」


 沓脱石に置いてあった草履を履き、ずるずると単衣を土の上に擦らせて雷鳴壺様は捕らえられている馬子の前に行く。

 それから、皇子が佩いていた刀を取った。

 そして、自分の髪を半分ほど掴み、ばさりと断ち切る。

 うわああああああと、馬子が叫んだ。


「身内の恥には変わりない。私は尼になって梅壺様と藤壺様のために祈ろう。吾子は藤原本家に預ける。東宮の座は無いものと思え。それが私の矜持である。卑怯な男どもに対する、抵抗である」


 ばさばさと落ちた髪。乱暴な切り口。雷鳴壺様はひと際世話好きだった方だ。妹分である梅壺様に対する無礼を、自分の実家を、許せなかったのだろう。ふらりと倒れる梅壺様を支え、私は『毒気の抜かれた』顔でただぼろぼろ泣き出す馬子を見る。恐らく藤原氏に咎めはあるまい。それは今、雷鳴壺様がすべて引き被った。東宮の座は、奪われたが。これが後宮だけの事ならまだしも、春晃皇子がいることはどうしようもあるまい。


 皇子は顛末を帝に話すだろう。あの優しい帝はどんな顔で息子との別れに臨むのか、解らなかった。ただ悲しい顔をするだろうことは、想像できた。優しいだけの帝だと、言っていたのは斎藤高氏だったか。確かに帝はお優しい。だからこそ、雷鳴壺様の決心を尊重するだろう。悲しいけれど、寂しいけれど。


 がさっと気配がして、木の下に潜ませていた白が顔を上げる。走って行く人影が見えた。追わせて私は片目を瞑る。向かったのは藤原本家。そしてすべてを見ていた男は、馬子の守備を見張っていた男は、雷鳴壺様の断髪を告げる。顔を真っ赤にした藤原氏は、しかし諦めたように尻もちをつき、胡坐を掻いて髪を掻きむしっていた。冠が揺れるほどのそれに、男は押し留めようと手を伸ばすが、手を振られて相当荒く引っ叩かれる。


 あの鬼食い、と言ったのが解った。梅壺様でなく私に怒りが向いた事を、心から僥倖と思う。これで東宮候補は二人。それがどちらになるのかは、私にも分からない。騒ぎの割に、藤壺からは誰も出て来なかった。みんな眠っているのかもしれないし、知らぬふりを決め込んでいるのかもしれない。


 ただ一つ言えることは、梅壺様の子はこの騒ぎにも拘らず、すよすよと眠っているようだと言う事だ。

 強い。太い肝っ玉をしている。思わず笑ってしまうと、梅壺様がはっと目を覚まし、雷鳴壺様の御髪を集めようと袴姿のまま庭に出ようとする。雷鳴壺様は笑って、それを押し留めるように華奢な身体を抱きしめた。


「良き母になるのですよ。私のように政治の道具にされるような女になっては駄目。子を愛でて、恥じない母になるのです。私はそれを、願っていますからね」

「姉様……雷鳴壺の姉様ぁ……」

「困った時は祢子殿にお頼りなさい。きっと何とかして下さるわ」

「え」

「今回のようにね」


 にっこり笑い掛けられ、参ったな、と髪を引っ張る。まあ、精々頑張りますけれど、私ただの鬼食いですからね。毒気の無い物には反応できない、鬼食いですから。まあ皇子を影武者に仕立てたり今回も色々やったけれど。


 後の噂では、坊主は寺を放逐され、馬子は暇を出されたという。人死にがなかっただけ良いか、思いながら私は時折風に乗って響いて来る子供たちの泣き声に耳を傾け、脇息に肘を掛けた。

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