第15話

 眉目秀麗で紫の式部の物語に出て来そうなその男が私の前に現れたのは、冬も深くなりつつある頃だった。梅壺様の御子も藤壺様の御子も元気に育っていると聞いている。漢方を入れるのはもう止めていた。そんな事しなくても、もう十分に乳の出が良いらしいからだ。良い事だと思う。まだ東宮は決まっていないが、もう少しの間は兄弟として仲良くしていても良いだろう。

 藤原氏に返された御子は乳母を雇って、こちらも元気に育っているのは、白の目を通して確認していた。いつか兄弟だと名乗りを上げられればいい。今でなくても、いつか。


 冬の朝に盥で顔を洗い、化粧をしていると、祢子殿、と呼ばれた。私をそう呼ぶ男の声は皇子ぐらいしか心当たりがないが、もっときりりと尖った声だったので、私は顔を上げる。雨戸は開けられて、その陰からも皇子ではないと知れた。もう少し背が小さい。ほんの、少しだが。


「鬼食いの祢子殿とは、あなたの事で? お嬢さん」

「然り。何者か」

「これは失礼を。伊藤忠長いとう・ただながと申します。陰陽寮の天文生をしております」

「学生が清涼殿に何の用だ?」

「実はこの毒を鑑定して頂きたく」


 真正面から毒を出されるのは流石にない事だったので、面食らった。忍ばせられるのが毒の良いところだろう。だからこそ私はそれを見分け嗅ぎ分け口にして噛分ける。それをさらりと毒ですと差し出されて、惰性で几帳の下から薬袋を受け取ってしまう。


「何故毒だと?」

「最近父の具合が悪く、毒を盛られているのではないかと思われまして。家の薬箱から出て来たそれだけが怪しいものだったので、ここは鬼食い殿に鑑定を願おうと、参った次第でございます」

「私は帝の為の鬼食いだ。ただの公達の願いは入れぬ」


 困ったように笑う忠長は、顰めた顔も美しい、良い男だった。顔は。ただ何か胸に一つ含みごとをしているようにも見えて、どうにも信用できないのも実際だった。大体毒を飲めと持ってくる男がろくなものではないのは当然だろう。先ほど帝の膳の毒見は終わったところだが、だからと言ってまた毒を確かめる訳にはいかない。


 頼少納言が温かい茶を出し、忠長の前にも出す。おお、と彼は大げさに喜んで見せた。


「噂の頼少納言のお茶ですか。最近は帝にもお出ししているとか。帝と同じものを食べられるとは、鬼の間とは良いものだ」

「それが仕事だからな。学生、それを飲んだら寮に戻ると良い。どちらにしろ毒が無くなれば父上の病状も安定しよう。それまでこれは私が預かっておくことにする。それで構わないか?」

「構いません。父の病状さえ治まれば、また宮中に出仕できる身体になれば、それで充分ですから。ところで小春の君はこちらにいらっしゃらないので?」

「皇子は今頃飯を食っている頃だろうよ。そうちょくちょく来るわけでもない」

「毎日通い詰めては振られている、という噂でしたが」

「何だその噂は。どこから出た」


 む、と私は棘のある声を出してしまう。振っている訳ではない。間がずれていつも結婚まではいかないだけだ。最近は帝と一緒に水滸伝の読み聞かせ。私は御子が一人減ったのでお払い箱だが、皇子はまだ使われている。最近は欠伸も多く、私の所に来ても四半刻ほどで眠ってしまう。

 ついでに言うならその枕は私の膝だ。これで振っていると言われては、堪らない。間が悪いだけで、夫婦ほどの時間は過ごしているつもりなのだ、こちらも。


 くっくと狐のような眼で笑って見せる忠長は、噂はあくまで噂ですよ、と私に応える。だからどこから、とは、訊いても無駄になりそうだ。はあっと息を吐いて茶を飲む。うむ、美味い。頼少納言は最近帝にお出しする茶を立てることを許され始めた。出世である。相変わらず私や皇子、時折訪れるお方様方にも出すのだが、概ね好評だ。私も無駄に鼻が高い。


 と、噂をすれば皇子の足音がした。白の眼と繋ぐと、廊下をきしきし言わせながらこちらに向かって来る皇子の姿が見える。邪魔だな、この男。とは言えまだ茶を飲んでいる途中だ、追い出すのは無作法だろう。どうしたものか、思っていると、ご機嫌な様子で祢子殿、と呼ぶ声がする。

 別に浮気をしている訳でもないが、居心地が悪い。そんな私を気にせず、忠長はおや小春の君、とわざとらしく皇子を呼んだ。障子を開けてきょとん、とした皇子は、私を窺うようにするが、何とも応えられない。


「忠長殿。学生のあなたが何故清涼殿に? 祢子殿になにか御用事ですか?」


 怪訝そうな声にいやいやと茶を飲む忠長。


「父に盛られているものが毒か薬か確かめたく、願い出たまでですよ。あっさり断られてしまいましたが」

「私の舌は帝のものだからな。或いはお方様方の為のものだ」

「そう、ですか――あまり物騒な案件を持って来るのはおよし願いたいところですが」

「おや何故です? あなたと祢子殿、そんな深い御関係で?」


 かっと皇子の顔が赤くなるのを、赤をその直衣の裾に懐かせることで宥める。赤殿、と一瞬で気を静めた皇子は、そのまま赤を抱き上げた。なぁーご、とじゃれついて見せるのは、この鬼の間に皇子が慣れているという見せ付けだ。猫たちの中では一番の攻撃力を持つ赤は、抱く人間も選ぶ。


「そうですよ、深い関係です。猫を侍らせられるぐらいには」


 すると青と黒と白も出て来て、やはり裾に懐く。面食らった顔になった忠長は、これはこれは、と苦笑いして一気に茶を飲んだ。


「ではお邪魔虫の私は退散いたしましょう。祢子殿、気が向きましたら薬袋の中身、検分願いますよ」


 立ち上がって皇子と擦れ違って行く忠長は飄々としていた。

 とてもその直後に倒れるとは思えないほどに。


「忠長殿!?」


 手足をかたかたを震わせ痺れさせている。トリカブトの症状か。私は急いで箱に入れていた貰い物の蜂の巣を齧り、嚙み砕いて忠長に口移しにする。二・三度繰り返せば、舌の痺れは抜けてきたようで、私に絡ませてきた。それが鬱陶しくさっさと口唇を離すと、目を細めて、忠長は笑っている。


「実はあの毒、少し含んで茶を飲んだのです。ただではあなたが動いては下さらないと思いまして」

「何と言う事をッ命を粗末にするような真似をするな! 量次第では即死だったのだぞ!?」

「ですからひと舐めだけ。ふふふ、甘い口吸いを頂いてしまったものだ」


 口吸い。初めてのそれをこんな所で無駄遣いしてしまった。しかも皇子の前で。顔を赤くしている間もなく、女房達が出て来て、忠長を鬼の間に戻し畳敷きの部分に寝かせた。その待遇にきょとんとしていると、祢子、と桔梗式部に真剣な顔をされる。


「忠長様は藤原氏の一角、伊藤家のお世継ぎ様でいらっしゃいます。もしも鬼の間で何かがあったとしたら、あなたも処分を免れません。良いですか、忠長様が落ち着きになるまで、しっかり看ているのですよ」

「……自分で毒を含んで来た者に、その必要があるでしょうか」

「祢子!」


 ぱしん、と頬を叩かれる。


「藤原氏の方に何かあれば、あなたの首など簡単に飛ぶのですよ! 私はあなたを心配して言っているのです! ただでさえ雷鳴壺様のことであなたは睨まれているのですからね!? 良いですね、くれぐれも、目を離してはいけませんよ!」


 ちょっと痛かった頬に、はい、としょぼくれて返事をする。

 命懸けで私を失脚に追い込むつもりか、藤原氏。

 しかも他人の命懸けで。


 ふと見ると、皇子の姿がなかった。やはり好きな女が他人に必死で口吸いしているのを見たのは衝撃だったのだろうか。好きな女。本当に好きな女なのだろうか、私は。ちょっとだけ不安になると、黒が懐いてきて大丈夫だ、と言う。


「あの若造、嫉妬はしているがお前を嫌いになったりはするまいよ。それはここ数か月の態度で察してやれ。それよりそこの小僧、決して殺すでないぞ」

「解っている。でなければここにいる意味がない。意味がなければいられない。私にはどこにも、帰る場所がない。ここ以外に」

「そうだ。念のため蜂蜜をもう少し含ませておけ。勿論口移しでなくても良い」

「金輪際せんよ、あんなことは。皇子に何かあれば、解らんが」


 布団を被せられまだ手足をぴくぴく言わせている様子に、常人はこんなにも毒に弱いのかと恐ろしくなる。蜂蜜はトリカブトには覿面に効くはずだが、果たしてどの程度をどれほど含んだのか分からないこの男は、生き残れるだろうか。

 主家の命で命懸け、この鬼食いを失脚させに来た男は。

 物語に出て来る軟派な男達より、よほど強いのが厄介だ。

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