第2話
目が覚めてぼんやりしていると、手足が幾らか痺れているのが解った。少量でも中々効くのは、私の性質でもあるのだろう。私は昔から毒に敏感で、野草に混じった毒草も見分けられる程度には知識もあった。毒に強いと言うのか、弱いと言うのか。解らないが、とにかく普通の毒味よりも私は毒味として優秀だった。
だからいつも鬼の間にいるし、清涼殿の鬼とも冗談交じりに呼ばわれて来た。それは鬼の間で帝との謁見を待つ御大尽達が主に呼ぶ名だった。赤ん坊の頃から台盤所と言う女所帯の隣にいたものだから、抱きかかえ上げられて泣いたり、襁褓を変えて貰ったりもしたものだった。私が鬼食いになると、ますます彼らはおかしそうに私を鬼、と呼んだものだ。ちなみに私が寝かされている布団も、先の右大臣が大人になるまで使えるよう、大きなものを寄越してくれたものだ。広い横幅に『大人』の意味が分かったのは、つい最近だが。
着替えさせられた寝巻の汗をぱたぱた手で仰ぎつつ身体を起こす。すっかりと夜になっているらしく、灯台の灯りだけでは少し心細かったが、猫達がいたので少しは気がまぎれた。布団の所々で眠っている猫達を眺めていると、スッと音が鳴り、誰かが入って来たのが知れた。御簾も几帳もきちんと立てて下ろしてある。何者か、と思うよりも先に、私の頭の隣で眠っていた白が御簾の隙間から出て行った。ついで黒、青も。私残ったのは赤だけで、少しぽかんとしてしまう。本当、何者だろう。白達は甘えるような声を出している。御大尽達にも懐かないのに――スン、と私は鼻を鳴らす。
マタタビか。
ここに猫と鬼食いがいるのを知らない者は、少なくとも後宮にはいまい。
「鬼食いの祢子殿とお見受けする」
すぅっとした美声に、猫達の甘える声が混じる。
「然り。こんな夜更けに何の御用か」
「これを」
御簾の下から差し出されたのは、温かい薬湯だった。震える手で器を持ち、ぺろ、と舌を付けても毒の味はない。むしろ心地良いほどによく練られている。
「これは?」
「薬湯です。それを飲んで吐き出せば、毒が残っていたとしても少なくとも胃の腑からは消えましょう」
「そなたは?」
「しがない典薬寮の学生にございます」
痺れる手で器を傾けようとするが、それは難しかった。一度置いてから、改めて手足のしびれを指を折ったり伸ばしたりする事で確認する。自分で思うより、多く含んでしまっていたか。あまり力が入らないのが分かった。と、名乗りもしない客人は少し狼狽えたようになる。
「飲めないのですか?」
「手足に痺れが残っていてな」
「痺れ――とすると、トリカブトの可能性もあります。もし良ければ、私を御簾の中に入れては下さいませんでしょうか。飲むお手伝いを、させて頂きたい」
「生憎これでも未婚の女子なのでな、そう言う事は――」
ばさり、御簾が上げられる。
その公達は、申し訳なさそうにしているが、眉目秀麗な性質なのは分かった。
さぞ女房たちに噂されるだろう、美しさ。
私も成人してから男の顔を見ることなどなかったから、自信はないが。
まあ言ってしまえば。
惚れてやっても良い、顔だった。
「失礼を――」
薬湯の入った茶碗を片手に、もう片手は私の頬を挟んだ。そうされると口唇を開けざるを得ない。そこにゆっくりとどろり流し込まれていく薬湯。布団や着物を汚すのも面倒なので、仕方なく飲んでいく。腹が少し痛むが、それでも薬効はなんとなく知れた。身体が軽くなって行く、と言うか、夢見心地になりそうな、と言うのか。まあ時間だものな、眠気は私がただ感じているだけかもしれない。すべてを飲み干し、つぅ、と唾液の線が椀と唇を一瞬繋げた。
ほっ、と息を吐くと、男も同じように顔の強張りを緩める。そうすると案外幼い顔立ちをしているのが分かった。それでも私より三つか四つ年上だろう。じ、っと不躾に見ていると、ハッとした顔になって慌てて御簾の向こうに戻って行く。その姿が滑稽で、少し笑ってしまった。
それから言われた通りにげぇっと角盥に薬湯を吐き出すと、なるほど頭がすっきりとしてくる。そう、こんな夜中に忍んで来るような、未婚の女子の口に真偽の知れぬ薬を流し込むようなうつけものが何者であるのか、とか言う好奇心も。
「お前は何者か」
赤が訊ねる。しかし男はどこから声がしたのか解らない様子で、きょろきょろと辺りを見回した。しわがれた老人のようなその声が、聞こえてきそうな気配もない。誰がどこからと思うのも仕方ないだろうが――。
「ここじゃここ」
少し上げた御簾、顔を出したのが三毛猫だったことに、うわあっと男は大げさに驚く。まあ私もこいつらが喋り出した時には腰を抜かしたものだが。そう。
私に侍る猫達は、みな喋るのだ。驚くほどに、恐ろしきことに。
まあ私は慣れてしまったが、と唇を舐める。まだ薬草の味がした。垂れて行かなくて良かったと思う。寝巻を汚すと面倒な詮索が来る。赤飯を炊かれて祝われた時はつるし上げの気分だった。私が何をした。否、子供として何もせず、その辺りで御大尽達やその子弟と遊んでいたばかりだったか。文字や漢籍は好きで、よく嗜んだが、最近はそう言えば見ていない。どこまで読んだか、水滸伝。
さて、普段は他人の前で喋る事を良しとしない赤が真っ先に声を上げたと言う事は、何か腹に秘めていることを伝えに来たのだろう。大方――
「あなたに毒を盛ったのは、自分なのです」
「……そんな所でしょうね」
「気付いていたのですか?」
「こんな時間に忍んで来られれば秘め事と知れますよ」
存外間抜けだった。ふうっと息を吐くと、男は慌てて座り直し、ちょんちょんと赤の額をつつく。本物の猫なのを確認しているのだろう。まあこんなあやかしめいたもの、すぐに信じることは出来ないだろう。くるくるくるくるっと喉を鳴らして、赤もまたたびの虜になる。
ちょっと心細いな、と思ってしまうのは、猫達が常に私の傍にいたからだろう。どんな猛毒も私と一緒に味わって来てくれた仲間だ。随分昔にかまどに夾竹桃を入れられた事すらあるのを、一番最初に嗅ぎつけたのも私だった。
既に毒の煙にやられていた女房達を助け出し、水を掛けて事なきを得た。暫く竈は使えず私も少しは怒られたが、死人が出なかったのは良かったと褒められたものだ。
「自分もこんな事になるとは思っていなかったのです。ただ、清涼殿に向かう途中の廊下で、いずれかの公達に呼び止められまして、『羹に砂糖を少し混ぜると美味い』と聞き、渡されたものをそのまま帝の食事に――」
と。
雨戸に何かがぶつかる音が響いた。
何発も、何発も。やがて戸板がずれ、ばたんと落ちる。
どうやら重い弓を使ってこちらを狙っているらしい。
男を狙った一発は――
青が飛び掛かり、齧って折った。
強襲が終わって、ほ、と息を吐く男に、私は青が齧り取った矢を眺める。長弓のそれは掠っただけでも痛そうなつくりをしていた。
試しにスン、と匂いを嗅いでみると、毒の香りがする。ぺろりと舐めて確認してから、また柄杓で水を取り盥で口を漱いだ。唾液も込めて、くちゃくちゃとしてから、吐き出す。手足の痺れは変わりない。あなたは、と男は呆れたように息を吐いた。
「どうして危ないと解っている物に口を付けるのですか」
「生憎と毒には気を付けたい身分なのでな。一番良いのは舌で覚える事だが、今日は少し鈍っていたようだから、舌先しか漬けていない。ところで、この清涼殿に夜討ちして来るような物騒な友人がいるのは困りものだぞ。学生」
くっくっくと笑うと、仕方なさそうに男は眼を閉じて、
――す、と座り直す。
「恐らくあなたの考える通り、自分は身分を隠していました。自分は現在の東宮である、
「そんな所でしょうな。あまり直垂も着慣れていない。そう、あなたは朝に私が毒に当たった時もここにいましたね。几帳の隙間から見えていましたよ」
「騒ぎになっていたのでどうしたのかと――まさかあんな毒が仕込まれていただなんて」
「さてあなたに『砂糖』を持たせたのは誰なのか。自分が飲んだのは羹だった。鬼食いのしきたりを知らなかった事から殿上人ではないと知れる」
「あなたは今にも殺されそうになったと言うのに、冷静ですね」
「毒で逆に頭が冴えているのだろう。そう、そして毒に敏感に出来ている鬼食いの娘がいるとは知らなかった。ここをよく出入りする御大尽方とは立場が違ったのでしょう。だが貴族ではある。これは帝を暗殺し第一皇位継承者に罪を擦り漬ける陰謀が動いていると考えて良いでしょう。……ところで、夕餉の毒味は誰が?」
「私が行いました。私が羹に毒を入れるのを見ていた女房達もいましたので、彼女達の誤解――とも言えませんが、不信感を晴らすために」
「あなたは馬鹿者か。死んで良いのは鬼食いの私だけで十分だ。どうせ身内もない身、悲しまれはしないだろう。とにかく、第二皇位継承者が問題だな、こうなると」
「それは――その、実は」
「何だ?」
「……本来典薬寮の学生である、従兄なのです」
「ほう? なるほど、薬に詳しそうな、いかにもな肩書の者がおったな」
「はい」
「そこから調べて行くと良い。私も今日はもう疲れた。あなたも梨壺へ戻れ。白、黒、護衛を頼む」
「はいさ」
「ほいさ」
「私は今日はもう疲れた――」
ばたんっと布団に倒れ込み、単衣を被って私は目を閉じた。
眠っているのか息が止まっているのか、解らないほど深く沈む夢を見た。
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