闇は地底よりいでて、

早瀬 コウ

プロローグ 1975年6月12日

鉱山の最期

 人は人を評価することができる。絶え間ない評価の視線は、自分自身にさえ向けられる。豊かな人生を送っているのか、善人たれているのか、道を間違っていないのか。そうして人は、明けることのない闇の中に埋没してゆく。どこまでも深く続く闇の奥底へと、まるで何者かに誘われてでもいるかのように。


(……どうしていま、俺はそんなことを思ったのだろう)


 村田は破砕された鉱石の山にシャベルを突きさして、喉の奥でうなり声をあげた。その声は発動機とドリルの音にかき消され、誰の耳に届くこともない。


 少なくとも地下600mの坑道では、思索にふけることは許されてはいなかった。そこでは鉱石をコンベアに打ち上げる一個の労働機械としての肉体があれば十分で、そこに神経の発火が求められるとすれば、ただ銅鉱脈がどちらに折れているかを察知するときだけだ。


 坑道には複雑にトロッコレールが走り、このコンベアも最も近くのトロッコ駅まで繋がっている。すでに坑道の全長は1000kmを超え、この最深部にたどり着くまでに要する時間も、ついに2時間に達していた。


 ヘルメットの間にタオルを詰めていても、汗がしたたるのを止めることはできなかった。村田は腰に挟んでいたタオルを手にとって、まぶたの周りを拭う。汗に混じって、破砕された岩石のくずが泥のように顔にへばりついていた。


「地下水だ!」


 不意に、ドリルを握っていた河邉が大きく声を張り上げた。

 息を合わせたかのように、ランプが一度明滅する。


「一度上がれ! 様子を見る!」


 リーダーの酒井が指示すると、方々でうなっていたドリルの音が止んで、発動機の音だけが残された。


「水抜きがいるか!?」

「わかんねぇ!」

「まあいい、駅まで出るぞ、ついてこい!」


 地下水が出ること自体はそう珍しいことでもなかった。地底はるか深くまで複雑に張り巡らされた坑道が、同じく複雑を極める地下水脈に当たるのは日常の一つと言ってもよかった。

 村田はシャベルを放って、河邉のドリルの持ち手の片方を握って持ち上げた。シャベルならいくつ捨てても損はない。水の量もそう多くないなら、ドリルは持ち帰るべきだ。


「すまん村田!」

「ビール一杯だ」

「断る!」


発動機の音に負けない大声でそう会話すると、酒井に背中を叩かれた。


「水当てといてふざけてんじゃねぇよ!」


ランプの光が歯に反射して、その顔が笑みを浮かべているのがわかる。村田は笑い返して、ドリルを持つ手に力を入れ直す。その先を引きずると軸がゆがんでしまうのだ。


 しかし、村田は今日のドリルに妙な重さを感じた。体が疲れているのかもしれないと思案したが、ひとまず段差を越えるために持ち上げようとする。


 瞬間、ドリルが弾け、手元から消え去った。村田はそれを弾けたと認識したが、実際にはドリルは坑道の一番奥まで宙を舞って吹き飛ばされていた。ついさっきまで河邉が掘り進めていた岩盤に叩きつけられたドリルは、自分が鋼鉄製であることを忘れ、粉々に砕け散った。


 誰も声を上げるものはいなかった。その場にいた誰にも、何が起こったのかわからなかった。彼らにできるのは、ただ立ち尽くすことだけだった。


 発動機の音だけが響く闇の底で、もう一度ランプが明滅めいめつした。

 頭はまったく事態に追いついていなかったが、体だけは危機を直感していた。


 村田は何もいない坑道を見ながら、じりじりと二歩だけ下がった。衝撃で転倒していた河邉も、起き上がってあたりを警戒している。


「うっ」


 ランプがもう一度明滅めいめつすると、ただそれだけの声を残して、河邉が視界から消えた。石臼のようなゴリゴリいう音が続いたのを聞いたとき、村田は汗が頬を伝うのを感じていた。


 いつの間にか乾ききった口に唾液を絞り出して、ゆっくりと飲み下す。銅鉱石の破片が混じっていたのか、苦味が鼻の奥の方で不愉快に粘膜を刺激した。


 今度は足元が激しく揺れ、村田は思わず手をついた。落盤の二文字が頭をよぎったが、いま起きていることがそんな物理的な現象ではないことは村田にもよくわかっていた。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 後ろの方から悲鳴が上がった。激しい振動の中で、その声の主が誰なのかを確認することすらままならなかった。坑道のあちこちから小さな岩が崩れ、村田は無意味と知りながらヘルメットに右手をやって、それが自分の命を守ってくれるよう祈った。

 立て続けに、朽ちた鯨が金属パイプの喉を鳴らしたような、不愉快な音が坑道に響いた。その轟きにランプが破裂し、かろうじてヘルメットについたライトだけが筋状の光を描いた。視界にはまだ2つのヘルメットライトが残っていた。それが誰のものなのか、生きているのかもわからなかったが、少なくとも一つは、自分と同じようにまだ左右に揺れていた。


「逃げろ!! 逃げろ!!」


 その一人のために声をあげながら、激しい揺れの中で四つん這いになって進み始めた。しかし暗闇に包まれた坑道で重力さえおぼつかない揺れの中では、どちらが下でどちらが上なのかなど、村田には知りようがなかった。


 這い進む右足に生温い感触が巻き付いた。村田はとっさに手元の石を握り、足首から膝まで、幾重にも巻き付いた“それ”に向かって叩きつけた。


「あぁぁぁぁっ!」


 石は“それ”を貫通し、村田の右足に突き刺さった。あまりの激痛に、村田は悲鳴を上げた。それでも村田は石を引き抜き、もう一度振り上げた。


「逃げろ! 何かいる! 逃げろ!!」


もう一人のために必死に声を上げながら、石を振り下ろす。石は再び村田の足に刺さり激痛を走らせたが、村田は悲鳴を噛み殺した。


 その感触で、村田は足に巻き付いたものが何なのか、おぼろげながら理解した。それは生きた水だった。黒く深い闇によく似た水で、しかしそれは明らかに自らの意思を持って村田を攻撃していた。


 もう一度村田が石を持った手を振り上げると、村田の体は軽々と持ち上げられ、宙を舞った。暗闇の中で不意の岩石に叩きつけられ、這いつくばった銅鉱石の山の上で、村田は自分の右腕が動かなくなっているのを直感した。打ち付けられたとき背骨が砕けたのか、腰から下の感覚も失われていた。


 もはや首を動かすことすらままならなかった。村田は次の瞬間自分に訪れることになる死を思った。


 人は人を評価することができる。ならば、この人生にはいったいどのような評価が与えられるのか。


 いつの間にか口腔に侵入していた鉱石の破片を噛んで、村田は人生に対する屈辱を憎んだ。体から血液が抜けるのを感じ、村田は自身の生命力の喪失を感じていた。


 ヘルメットライトの照らす先は、ただ硬く青緑色の銅鉱床だった。しばらく続いた揺れのせいか、その岩盤にはヒビが入っている。このままでは坑道もろとも崩壊し、遺体も収容されることはないとはっきりわかった。村田は坑道が自分の墓となる未来を、少しでも想像しなかった昨日までの自分を呪った。


 再び奇怪な叫びがあたりを包んだ。朽ちた鯨が金属パイプの喉を鳴らしたような不愉快な音がけたたましく岩壁を引き裂き、眼前の岩盤が一つ剥がれ落ちた。


 その崩れ落ちた岩盤の向こうから、黄色く潤った奇妙な岩が姿を表した。その中央には黒い亀裂が走っている。


 まるで大きな瞳みたいだと、薄れゆく意識の中で村田は考えていた。

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