冥闇の彷徨 2011年6月15日
さまよう暗闇
竹が割れたような音のあと、金属の軋む音がした。激しい雨音のなかでも際立って異常な二つの音は、大森を立ち上がらせた。大森はベッドの横で耳をすませていた。少なくとも例の臭気だけは漂っていない。
カッカッと短く金属の軋む音が続いたかと思うと、次には金属同士の激しい衝撃音が聞こえた。枕元の充電の済んだスマートフォンだけを手に取り、大森はカーテンを静かに動かして外の様子を伺う。
たった一つの街灯が照らす範囲では、ただ激しい雨のありふれた光景だった。物音は止み、ただ薄暗い雨音だけが不断のピンクノイズを生み出しているばかりだ。
聞き間違いと自分を納得させることもできたかもしれない。しかしこの2日間に、そうした楽観がもたらしてきた悲劇はあまりに多かった。
大森は照明をつけることもなく、忍び足で玄関へ向かった。生ぬるい雨の空気が重たく、玄関扉はさながら鋼鉄の金庫扉のようにも思われた。しかし手を伸ばして僅かに力を加えるだけで、その扉は軽々と雨音を招き入れた。
誰かに電話するべきかもしれなかった。しかし大森がその頭を扉の間からそっと出したとき、大森の鼻をついたあの匂いが、それを
暖かい風が一つ吹いて、サンダルの足に雨が散った。大森はあの臭気の恐怖に打ち勝とうとしていた。いまや玄関の内側に残されていたのは、内側の取っ手にかけた左手だけだ。
「ワァァァァァァァァッ!!」
静寂を切り裂く高い悲鳴が響いた。
「逃げて!」
それに続く女性の声。
大森はその声で発されるその言葉を想像したことがあった。
「陸くん!」
大森は雨の中に駆け出した。駐車場を抜けたとき、ほんの12歩先の門の横に、ひしゃげた板が転がっていた。その横から小さな人影が門を飛び越える。
「陸くん!」
しかし声が届かないのか、あるいは錯乱しているのか、叫びながら走り去る前田陸が大森を振り返ることはない。大森はサンダルのまま前田陸を追って駆け出す。
しかし街灯のない裏通りまで駆け抜けたとき、すでに前田陸の姿はそこにはなかった。警察に通報しようとして、右手に握ったスマートフォンの電源を入れると、画面が瞬く間に水に覆われる。
「壊れないでよ……」
逃げ出した前田陸を追う手立てがないとわかると、受話音を聞きながら反対に走り出す。路上に転がっていたひしゃげた板にもう一度近づけば、それが玄関扉が折れたものだとすぐにわかった。大森は暗く口を開けた田原家の玄関を左手に見出した。
「真理子のときよりは早いはず……」
川に飛び込んだように濡れていたが、大森はためらいもせずにサンダルを脱ぎ捨てて田原の家に飛び込んだ。
「こちら110番です」
「またあの臭いの事件です。住所は……」
「H村ですか? 交通が……」
「ちょっと静かにして……何か音がする」
乾いた破裂音がして、次には何か硬いものを押し付け合うゴリゴリ言う音が聞こえた。大森は幸恵の寝室へ向かっていた。その足の裏に、刺すような冷たさを感じた。
「田原さん……?」
扉は半開きになっている。
「現場にいるならすぐに安全なところに移動してください」
スマートフォンはすでに耳元から離されていた。その声はくぐもって微かに聞き取れる程度だ。
静かに中を覗き込む。
部屋の中央に穴が空いていた。床にではない。空間に穴が空いていた。それは一抱えの箱よりもわずかに大きい黒い穴で、川辺の岩のように角のない歪んだ丸みを帯びていた。少なくとも大森にはそうとしか見えなかった。
しかしその穴の内側から人の腕が現れたとき、大森の知覚は裏返った。それは空間に開けられた穴ではなく、黒い塊に違いなかった。それを認識するのと同時に、その腕先に幸恵の指輪を見た。もはやその指に生命を看取することはできなかった。
黒い塊から黒い触腕が伸び、田原の腕に巻きついた。大森が息を飲む暇もなく、いくつかの破裂音が重なった。その一瞬の出来事で、大森の知っている人間の腕の造形は失われた。
それは黒い塊に吸い込まれると、ひき潰すような音となって消えた。
脚は床に打ち付けられたように動かなかった。それどころか、目を逸らせる首の動きさえも、今の大森には難しかった。眼前の現実離れした光景に、大森はほとんど意識を喪失しかけていたのだ。
黒い塊がにわかに波打つと、中にまた別の白いものが浮かび上がった。上の方には白い小さな骨が並んでいて、下の方には黒い穴がひとつと、虚ろな眼球が残されていた。
顎を破壊された頭蓋は黒い塊の中を揺蕩ったかと思うと、にわかに鈍い音を残して圧壊し、黒の中に僅かに白んだ濁りを残した。
バンッ!
大森の手からスマートフォンが滑り落ちた。
「もしもし!? 聞こえますか!?」
大森は自分にも脚があったことを思い出した。
——逃げて!
大森の脳裏に、幸恵の祈るような悲鳴が聞こえた気がした。
大森は叫び声もあげずに走り出した。玄関の段差で脚が空を切り、体は砂利に打ち付けられた。それでも大森は止まることなく立ち上がり疾走した。自分が靴も履いていないことも、今が歴史的な豪雨の只中であることも、あるいは前田陸がどこかへ消えてしまったことも忘れて、大森は夜の闇を駆けた。
あの家から一歩でも遠くに離れることが、大森の命を救うはずだった。自分がどこにいるのかも、どこに向かっているのかも、大森は一顧だにしなかった。ただそこには雨の中を走る、一個の生命があった。
だから大森が闇を裂くエンジン音に気づかなかったとしても無理はなかった。大森が不用意に飛び出してそのヘッドライトを浴びたとき、大森は文字通り闇の中に光明を見出す心地だった。それが誰のバイクが発する光かなど考えることもなく、大森はそれに駆け寄った。
飛び出した大森の前でタイヤを横に擦らせて、バイクはかろうじて止まった。
「助けて……学校に……」
崩れ落ちた大森は、ようやくその二言だけを絞り出した。
「危なかった……どうしたんです?」
ヘルメットの中からかけられた男の声に、大森は顔を上げた。
「俊樹……?」
「えっ?」
男は大森の両肩に手を置いて、バイザーを上げた。その顔に、限界を迎えていた大森の緊張の
「どうした? なにがあった?」
俊樹はレインウェアを脱いで大森の肩に掛けようとした。しかし袖を抜くより前に、大森がすがりつくように両腕を腰に回し、その胸で声をあげて泣き出した。
俊樹がようやくレインウェアを肩にかけても、大森の悲痛な
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