知らぬ間に起きたこと

 体育館の一角だけは、夜でも水銀燈が灯っていた。俊樹が大森を運び込むと、すぐに役所の若者が2人寄ってきた。


「俺もよくはわからなくて、家には戻りたくなくてこっちに避難しろと……とりあえずタオルと何か着替えがあれば助かります」


 すぐに渡されたタオルを大森の頭に乗せても、大森は腕を上げもしなかった。大森の頬をタオル越しに俊樹の両手が包み、前を向かせた。


「何があった?」


 何があった? その言葉は大森の頭の中で反響した。自分が何を見たのかも判然としなかった。それはあまりに現実離れしていたし、悪夢と表現した方がよほど頷ける光景だった。


「幸恵さんが、黒い水に……」

「母さんが死んだのか?」


 黒い塊の中に浮かび上がった頭蓋を思い出した。それが誰だと認識することは難しかったが、状況から言ってあれが田原幸恵以外の誰のものでありえただろうか。


 大森は目を下に向け、俊樹に答えなかった。


「次だ。黒い水ってなんだ」


 苦い顔をこそしたものの、俊樹は矢継ぎ早に次を尋ねた。大森は濡れそぼった体が凍えを発するのがわかった。


「寒い……」

「そうだな、寒いな。服は脱いで毛布にくるまろう。着替えは俺がとってくる」


 大森は首を振る。着替えなどというつまらないもののために、俊樹をあそこに行かせるわけにはいかなかった。


「ほら、被って。中で脱げば誰にも見えない」


 職員から受け取ったブランケットの一枚を背中からかけて、もう一枚を俊樹が両手で前から覆った。大森は震えながら寝間着をブランケットの外に放り、毛布を体に引き付けた。

 その体を、毛布の上から俊樹が強く抱いた。


「木原さんのことは母さんから聞いた。嫌な予感がしたから、通行止を抜けてきたんだ。だからバイクになったけど……来てよかった」


 背をさすられて、喉の詰まる苦しさがいくらか解れた。


「陸くんがどこかに……追いつけなくて……」

「陸は逃げたのか。あいつは大丈夫。しぶといからどこかで雨宿りしてる。朝には見つかるさ」


 気休めに過ぎなかったが、俊樹がそう言えば、たしかにそんな気がした。


「最後だ。寝る前にこれだけ教えてくれればいいから。……黒い水ってなんだ?」


「なんだろう……」


 床の上に丸く膨らんでいた奇妙な黒い穴。前田陸はあれのことをと呼んだに違いない。そして真理子が言いたかったことも、ということに違いなかった。


 そうだとしてもなお、大森はそのについて説明する言葉を持たなかった。それは大森がこれまでに積み上げてきたいかなる本にも書かれていない存在だった。

 暗く黒い水の塊には、それらしい体表面すら存在していない。その中に浮かんでいた幸恵の四肢を思えば、生物には必要不可欠なはずの骨格や筋肉、あるいは消化器官すら存在する様子はない。

 それにもかかわらず、はおよそ意志としか呼びようのない明確な殺意をもって行動を続けていた。脳神経もなしに殺意を抱き、筋肉もなしに動き回り、消化器官もなしに人間を圧壊させるもの……それがだった。


「ごめん……わからない。でも、生き物か何かだと思った方がいいかも」


「生き物? それに母さんがやられたのか?」


 大森は頷いた。頷きながら、という警察の発表を思い出していた。ほんの数時間前までは大嘘だと思っていたものが、案外的を射ていたことになる。


「玄関のドアがくの字に折れて通りまで飛ばされてた。幸恵さんは……」


 大森は砕かれた頭蓋の光景を思い出し、口元を覆った。


「いい、わかった。つまり馬鹿力の水にやられたんだな。わかった」


 大森の肩をもう一度抱いて、少し休めとだけ言うと、俊樹はすぐに立ち上がった。二人の様子を心配そうに見ていた若い役場職員は、突然立ち上がった俊樹に驚いて片足を後ろに下げたほど急な動きだった。


「木原真理子さんが亡くなった事件についてこの人から話を聞いている人って知りませんか?」


「それなら、夕方に堀越さんと教頭先生とで話し込んでましたよ。木原さんの前に堀越さんの奥様が亡くなられて……」


「二人も死んだのか!?」


 俊樹の突然の大声に、避難所の方々で人の動く音がした。


「は……はい……お二人とも須藤先生が診たらしいので、須藤先生もお詳しいかと思います」

「二人死んでて、今日で俺の母親が死んで3人ですよ!? そこに豪雨が来て、俺は通行止の看板を踏み倒して抜けて来ましたけど、もう崖が崩れるまでそう時間もなさそうでした。泥の滝みたいになってて」


 俊樹の声は一層大きくなっていた。役人は慌てて鼻に人差し指を当てて声を抑えるように促したが、俊樹がそれに従う様子はなかった。


「誰が決めたんですか? そんな状況で……一刻も早く全員が村の外に逃げるべきなのに! 逆に閉じ込めてしまおうなんて、誰が決めたんですか!」


「それは県の避難計画で……」


「ふざけるな!!」


 その怒声には、大森でさえも顔を上げた。温厚な俊樹からは考えにくい張り上げた声だった。大森の視界には、役人の胸ぐらを掴む俊樹の後ろ姿がうつっていた。


あんな災害3.11があったのに、わかってないのか!? 二人も死んでて、普通の避難計画に何の意味がある!? バスを手配して全員で村を捨てるべきだったんだ!」


「すみません、どうか落ち着いてください……それに、僕にそれを言っても……」


 俊樹が怒りというより失望を覚えていることは明らかだった。殴られることはないと見繕った役人は、同じ失望を抱いている人間として自分を演出していた。その姑息こそくな態度は、余計に俊樹を刺激した。


「……いいよ、わかった」


 俊樹は掴みかかっていた腕を離した。やつれきった大森の前に再び膝をつく。


「陸を探してくる。見つけたら逃げよう。崩れる前ならなんとかなる」


 大森が返事をするより先に、俊樹は立ち上がっていた。俊樹の機敏さは、今の大森には目が回るようでもあった。そして何よりも、いったいなぜこんなに不可解で要領を得ない大森の説明を俊樹が受け入れるのかが大森にはわからなかった。

 しかし大森がそれを尋ねるより先に、俊樹の背中は扉の向こうにあった。その背をもう二度と見られないかもしれないという不安が大森を襲い、その喉からかろうじて小さな言葉が漏れた。


 しかしその声を聞き取れた者はなく、俊樹は闇の中にエンジン音を鳴らして消えた。大森は再び訪れた孤独に震えるばかりだった。

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