崩れ去る前に

 ブランケットに身を包み、大森は震えていた。自らの周囲で立て続けに起こった異常な事件に、正気を保つのは難しかった。体ばかりは濡れていたが、その喉はひどく乾いている。しかし今の大森には、それを自覚して水を求める余裕すらなかった。


 3人が死に、1人が負傷し、1人が行方不明となり、自分がショック症状にさいなまれている。たしかに俊樹の言う通り、すでに事態は深刻な水準にあった。


「大森先生、お辛いでしょうが……」


 そう声をかけてきたのは教頭だった。大森と同じく一度帰宅したはずだったが、ここに来ることを選んだらしい。その隣から奥さんが水筒から白湯を差し出す。


「ありがとうございます……」


 水筒の蓋を使ったコップの底は黒く、白湯は黒かった。大森の手は震えた。


「先生、実はお連れの方の言うとおりかもしれないんです……」


 教頭は気まずそうにそう切り出した。先ほどの騒ぎで俊樹の印象が悪くなっていなければいいがと、大森は案じた。


「前田陸くんの叔父にあたる人です。田原俊樹さんです」

「なるほどそれで……実は、須藤先生と連絡がつかないんです」


 薄暗い照明の中で、周囲に聞かれぬように抑えた声だった。


「それで私もこちらに来ました。よく考えたら、ここにも来るはずの方が何人かいないんですよ……」


「それって……」

「たぶん私たちが気づいていないだけで、すでに10名近くが……」


 誰も次の言葉を見いだすことができなかった。雨音だけが避難所に集まった村人を嘲笑っている。


「教えてくれたら……」


 ブランケットの中で体を小さく丸める。


「すみません……確証がありませんでしたし、もう夜更けだったもので……」


 ずっと見つめていた白湯を床に置いた。感情の制御を失いかけた大森だったが、それが恐怖のなせる技だということは自覚していた。少なくともあのを見た後でなら、教頭がそれを教えてくれたら助かっていたと言うのも難しかった。教えられていたら、夜間の避難に気乗りしない幸恵に引き止められて、死んでいたのは自分だったかもしれない。


「陸くんがどこかに行ったんです。おばあちゃんが襲われるのを見て、どこかに逃げてしまって……」


「私の方は車がありますし、夜が明けたら探しましょう」

「あと先生、ボロですし洒落てもいませんけど、私のものでよければ……」


 教頭の横から、奥さんが服を一揃え差し出す。


「すみません……着替えを取ったら、すぐにお返しします」

「雨が止んでからでいいですよ」


 柔らかい微笑みだった。まだ大森に優しさを向ける人物が残っていたことに安堵を覚える。あのでさえ、いまだ村人の優しさを押しつぶしてはいなかった。大森の心を支える全てを破壊したわけではなかった。


「教頭、私は陸くんを見つけて、この村を出ます」

「でももう通行止めに……」

「俊樹さんがそう言う人じゃないんです」


「……その田原俊樹さんって先生の」


 教頭がそこまで口にすると、その横から奥さんが教頭の腕を強く叩いた。


「聞かないの」


 教頭はいつものようにバツの悪い笑いでごまかしながら、頭を掻いた。


「お気遣いなく。実は私もわからないんです。でも、一緒に逃げようって言ってくれましたから……」


 親族である前田陸はまだしも、本来ならただの親しい隣人に過ぎない大森を連れて逃げる理由はなかった。無自覚にせよ、俊樹が大森を連れて逃げることを選んだなら、少なからず親愛を抱いているに違いない。

 しかし、その俊樹が生きてここに戻る保証はなかった。今はまず、村が想像以上に危険な状態にあることを俊樹に知らせる必要があった。しかし、それを伝えるためのスマートフォンは、田原の寝室の前に落としたままだった。


「どうにかして、村に危険を知らせられませんか?」

「防災無線くらいでしょうけど、がなければ……」


 その返答は異常にすら思われた。大森はその目でを目撃し、人間が為す術なく軽々と粉砕される様を見ていた。それはもはや確証を超えた現実に他ならなかった。

 しかしあの戦慄すべき現実は、ここには存在できなかった。ただ俊樹を除いて、その話を信じる者などいるはずもなかったのだ。信じる者がいなければ、現実などおよそ妄言となんら変わることはない。


「私が見たものではダメでしょうか?」

「それは……たぶん、職員が確認に行ってからということになるでしょう」


 教頭は気まずそうに目を合わせなかった。住人一人の主張で、気象庁や県庁の定めた警報を超える警告を発するなど、行政組織には到底不可能なことだ。憎しみを抱くほどに常識的な判断が、いまは人々を危機に晒していた。


 薄暗い体育館の隅で、雨音が天井を叩いている。


「……一番安全なのは、米森巡査と一緒に調べることかもしれません」


「でも警察は……」


 事件をもみ消す側に動いている。ドラマの中でしか起きないような、警察の歪んだ対応はあからさまと言ってもいいほどだった。


「あちらも事件が起きないに越したことはないでしょうから……私から声をかけてみますよ。急いだ方がいいですか?」


「……わかりません」


 意外な返答に教頭は目を丸くする。


「田原さんや須藤先生の家にまだがいるんだったら、急ぐのは……」

、というのは? まさか本当にいたんですか? 堀越さんの言うが」


 大森は何も言わずにうなずいた。


「どういうこと?」


 奥さんの発した疑問に、教頭は手短に説明する。これまでの事件は明らかにの存在を示していたこと、それがおそらくは鉱山と関わっているだろうこと。


「それじゃあ大倉さんは何か知ってて……」

「いや、たぶん何も知らないだろう。廃坑36年目に勝手に生まれた怪物だよ」


 重く湿った空気が3人の間を支配した。現に頭を濡らしていた大森にとどまらず、教頭までもがその張り付くような湿度に首を拭っていた。


「堀越さんは……?」

「あちらで寝ていますよ。連日の疲れと雨に濡れて、少し体調を崩されたみたいです。かえって助かりました。あの声で騒がれたら……」


 この場に誰がいても、それには同意しただろう。いくら雨音がうなり続けているとはいえ、堀越が腹から出す声に目を覚まさない者はなさそうだった。


「……私、陸くんを探しに行きます」

「えっ!?」


 夫婦が揃って大きな声を出し、慌てて口を塞いで周囲を見た。


「無茶ですよ、車もなしにそんな」

「そうですよ、心配なのはわかりますけど、それであなたに何かあったら、彼が悲しみますよ」


 たった2日の間に起こった喪失の連鎖は、大森の精神に強迫観念を植え付けていた。少しでも躊躇ためらえば、そのわずかな時間で大切な人を救うことに失敗するだろうとばかり考えていたのである。


「……いえ。私のクラスの子です。服、お借りしますね」


 ブランケットの内側で袖に腕を通すと、まだ濡れたままの頭に通した。


「……そうですね、私の車を出しましょう。お前はここに残っていなさい」

「いやです」


 妻は夫の決断に反発した。真剣な表情のまま続けたのは平板な言葉だったが、を前にしてみれば、その言葉には別の含意があるのは明らかだった。


「一人でここにいるより、後ろに乗ってた方がマシだと思う」


 誰よりも先に立ち上がって、強い女性は微笑んだ。


「いいでしょ、勤務時間外だし」

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