夜雨の遭遇
暗闇と雨。どれだけヘッドライトが切り裂こうとも、その先に見出されるのはその二つだけだった。大森の目には、その全てが黒い水であるような気さえしていた。車が黒い水に覆われ、プレス機で潰されるように無残に圧壊するイメージが脳裏をかすめるたび、それを頭から振り払う。
この
大量の雨水にさらされた時間は短かったが、それでも大森の体はかなりの体温を失った。避難所に着いて真っ先に体を温めることを考えたほどだ。子供の体では低体温症に陥るまでそう時間は残されていないかもしれない。
「声とか音を聞いたか尋ねて回るしかなさそうですね」
大森が窓に懐中電灯を押し当てて暗闇に目をこらす横で、教頭はため息交じりにそう言った。もちろん明かりひとつ灯っていない村の家々に証言など期待できないことは、教頭自身わかっているのだろう。
ましてや大森の脳裏にはより絶望的な推測があった。そうした暗い家も、すでにあの黒い水によって無人の家と化しているかもしれないという恐怖である。喉の詰まる心地がして、大森は懐中電灯を窓から離して両腕を抱く。
「……ついでに避難を呼びかけてもいいかもしれませんね」
その声は震えていた。咳払いをして、ただの喉詰まりと誤魔化す。
「先生、そういえばその悪魔っていのは、どうやって陸くんの家に入ったんですか? やっぱり壁も通り抜けるものですか?」
「いえ、扉を……えっ?」
大森は言いかけて動作を止めた。教頭がブレーキを踏む。
「何か見つけましたか?」
「いえ、扉が壊れてたんです。たぶん壊したんだと思うんですけど……真理子の家は戸締りができてて……」
堀越の家では門が破壊されていた。心の中でそう続ける。しかし堀越夫人の様子は真理子と似通っていて、田原幸恵の死に様だけはあまりに破滅的だった。三つの事件には共通点と相違点が混在している。
「教頭、ひとまず走らせてください。黒い水が近くにいるなら、車を止めたらみんな死にます」
「いったいなんなんですか、その黒い水って……」
困惑しながらも、車は再び前進を始める。大森はもう一度窓に懐中電灯を押し当てる。その光は窓を覆った雨水に歪められ、深い闇に対してあまりにも無力だった。
「水なら入れたんじゃないですか? 木原さんのお店が開いてて」
後部座席で同じように外に目をやる奥さんの推測はおそらく正しかった。というよりは、それが正しい推測であることを大森は願っていた。しかしそういう楽観がこれまでにこの村で何人の命を奪ったか知れない。
徐行する車の正面と左右に発された光は、向きこそ違えど同じものを照らしていた。ただただあたりの路面を覆い、土手から流れ落ちる泥水である。これほどの水量が常に流れているなら、小学生の足跡など容易に押し流してしまうだろう。
懐中電灯を窓から離して、教頭に向き直って大森は声をあげた。
「教頭! 陸くん日記に『森まで逃げて』って書いてました」
「日記に?」
なぜすぐにそこに思い至らなかったのか、あるいは低体温で脳の働きが低下していたのかもしれない。この状況になってみれば、それは予知夢というほかない記述だった。そうだとすれば、前田陸のいる場所を推測できる。
「予知夢ですよ! 黒い水に襲われて森まで逃げるって!」
教頭は眉をひそめたが、それでも気味よくギアを操作して車を切り返した。
「そこまで信じていいものですかね……」
「わかりません……けど……」
「それ以外にあてもない、ですか」
ワイパーがリズムよく相槌をうつ。視界は良好とは言い難かった。
川沿いにあたる西の山は鉱毒のために森を失っていた。だからこの村で森といえば東側の一帯を意味している。
「学校に戻りましょう。陸くんも森に逃げるなら勝手がわかる学校の方に行くかもしれません。学校の周辺から探した方が私たちも安全です」
変わらぬ徐行でも、路面に溜まった水はタイヤにはねられて車体の底を打つ。通学路に戻るとようやく3つの街灯が曖昧に存在を主張していた。その先の体育館の明かりは、この距離ではわからなかった。
大森は今一度窓に懐中電灯を押し当てた。その光の先に前田陸を求めたが、ただガードレールと錆びた看板ばかりが流れてゆく。どれほど目を凝らしても、森の木々の間など見えるはずもない。懐中電灯はただちらちらと落ちる雨粒を際立たせるだけだった。
車が減速する。
「大森先生」
「はい?」
光は土手の一角に止まった。少し動かしてみても、茂った草と雨粒の他に見えるものはない。教頭が慌ただしくギアを操作する。
「先生、捕まって!」
慣性にシートベルトが抗って、大森の体に食い込んだ。懐中電灯がダッシュボードに当たってガツンと音を立てる。大森はようやく踏ん張り、左手でシートベルトを掴んで体勢を戻す。
バンッ!!
「キャァァッ!」
衝撃音に両手で頭を抱えた大森だったが、車はなおも後進を続けていた。顔を上げると、フロントガラスの中央にまるで石でも当たったようにクモの巣状の亀裂が残されている。
「なんですか!?」
「こっちが聞きたいですよ!」
「後ろ見えてないでしょ!」
二人とも懐中電灯を消したが、それでも後部ガラスの向こうには何も見えなかった。バックライトは豪雨の中をこの早さで後進するためには設計されていないらしい。
「どこかで切り返して!」
妻の出した大声にも、教頭は応じなかった。ほとんど何も見えない暗闇へ向かってバックで車を走らせ続ける。その集中を少しでも乱すべきではなかった。
「ライトで照らせない穴があったんですよ! 人より大きいくらいの!」
ハンドルを慌ただしく回したとき、教頭はようやく説明した。ギアを操作して踏み込むと、タイヤは今度は激しく水を蹴り上げた。
「空間に穴が空いたみたいなやつですか?」
「はい! 気づくのが遅かったらぶつかってました」
視界に入った瞬間に理解できる異常。空間に空いた穴。その二つの条件を満たす存在は、この世に二つとなかった。
「黒い水です」
顔から血の気が引くのがわかった。黒い水が次の犠牲者を求めて徘徊しているという事実は、ますます前田陸の生存、いや田原俊樹や自分たちの生存をも困難にしている。不安は苛烈なまでに大森の胸を満たし、呼吸の仕方を忘れた胸骨が激しく痛んだ。
「そのガラスが割れたとき見てたけど……」
後部座席からの声はそこで唾を飲む。興奮気味に呼吸して、大きく息を吐く。
「何か細い影が横に走ったよ。こう、バンッって」
「あ、ワイパーひとつやられてる。そっちでよかった」
視界に感じていた異常の原因がわかっても、大森の胸は休まらなかった。耳鳴りがするほどの動機を収めようと息を何度吸ってみても、体は硬直するばかりだ。こわばった右手から懐中電灯が落ちる。両足が言うことをきかないことにようやく気づく。
「先生息を吐いて! フーーーッ!」
後部座席から手が伸びて、大森の背を温めた。
「わかってきましたよ、あれは悪魔だ。間違いありません。ここを逃げ出さないと」
そのとき、天地を揺るがすような激しい雷鳴が村を引き裂いた。かと思えば、雷鳴は地鳴りとなって反響する。経験したことのない長い雷鳴に、大森は肘まで固まった筋肉を懸命に動かして、両耳を覆い悲鳴を上げる。
「やめて!! もういいでしょ!!」
大森たちには知る由もなかったが、その音は雷鳴ではなかった。県道沿いで崩落が起こったのである。
6月15日午前4時24分のことだった。
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