知る者

 空が白んだ。街を包んでいた暗闇は去り、代わりに雨水のカーテンが下された。光源の少ない夜の方が、かえって見通しが良かったような気さえする。


 大森たち3人は、通学路を進むことを諦め、大倉鉱業のある西側の通りを抜けて避難所に戻っていた。避難所は昨晩そこを出た時に比べても妙に薄暗かった。それが停電によるものだということは、説明されて初めてわかった。

 青白い顔をした3人に囲まれて、オセロのように若い役人の顔色も変わった。教頭がなんとか事情を理解してもらおうとしたが、役人はそれを上司に報告するそぶりを見せなかった。


「もし見込み違いだった場合の責任を取りたくないんでしょう。実際私もこの目で見るまでとても信じられませんでしたし、彼を責めるわけにもいきません」


 教頭は肩を落とした。このまま報告を無視して大ごとになれば、それこそ責任問題なのだが、およそそういった考えには至らないらしい。今はただ、ようやくこの村にも届いている3G回線だけが彼の頼りだった。しきりに操作する様を横目にして、自分のスマートフォンがまだ田原幸恵の寝室の前に転がっていることを思い出した。


「明るくなって俊樹さんが来たら、一度家に連れていってもらいます」


 が犠牲者を求めて徘徊しているなら、今や無人になった田原と大森の家は最も用のない場所に違いなかった。これも自分や身の回りの人を殺す楽観なのかもしれないと、大森の頭はキリキリと痛んだ。


「しかしがいたら……」


ウゥゥゥーーー


 教頭の言葉は、朝ぼらけの村に響いたサイレンにさえぎられた。避難所の中にはまだ寝ていた者もいたが、その音に煩わしそうに頭を上げては声を掛け合っている。


『こちらは防災、H村役場です。本日5時ごろ、県道○号線において、大規模な土砂崩れが発生しました。水・食料の備蓄のない方は、H小学校の体育館に、避難を行ってください……』


「あの音ですね……」

「じゃあもう……」


 3人は顔を見合わせた。


——もう逃げられない。


 しかしその言葉を口にする者はない。大森はこの放送をどこかで俊樹と陸が聞いていることを願った。焦燥や恐怖を忘れた二人がそれぞれにこの体育館を目指してくれれば、大切な人をこれ以上失わずに済むはずだ。


「のう、先生方。さっきとか言いよらんかったか?」


 突然かけられた声は、昨日大森をじっと見ていた老人のものだった。左手に杖をついていて、体勢は少し傾いていた。


「いえ、なんでもないんです」


 パニックを招くことを恐れたのか教頭はそう繕ったが、老人は大森ばかりを見て続けた。


「いんね。あれやろ? やろ? 黒ぅて目も鼻も口もねか」


「……知ってるんですか?」


 恐る恐る返した大森に、老人は初めて笑顔を見せた。


「おう! ようけ知っとる! そか! やっと出たか!」


 老人は痰の絡んだ喉で空気を擦らせるような音を鳴らしながら笑うと、今度はすぐに咳き込んだ。その息には寝起きの口臭と加齢臭が混じる。大森は顔を歪めないように目頭のあたりを指の関節で強く押し込んだ。


はな、穴の底におったんや。ワ号坑道の一番先で、河邉かわべや村田が当てよった。どうせ村田やろと思うけんな」


「ちょっと待ってください、どういうことですか?」


 要領を得ない話に教頭が口を挟むが、相手の説明は変わらなかった。


「やから坑道の底におったのよ。ほんでこう穴をドーンとやって、閉じ込めた。みんな仏さんは中に置いたままよ」


「えっ、ちょっと待ってください……」


 次に口を挟んだのは大森だった。この老人が知っているが大森たちの知ると同じなら、大森たちはこれまでということになる。


「やから」

「ちょっと待ってください!」


 珍しく声を荒らげた大森に、教頭までもが驚きに身を引いた。


「まさかとは思いますけど、30年も前のことを言ってますか?」

「俺が50近かったし、そやね、今年何年目や? 山閉じてから」


「36年目です。じゃあおじいさん、……は人を簡単に……」


 口ごもった大森のあとを、老人が引き受けた。


「殺すな。足を掴んで放り投げるし、頭を丸ごと食いもした」


「それを……大倉さんは……?」


「社長が閉じ込めたんや。前のな。若社長はどうやろ。聞いとるやろか」


 腕の震えは恐怖からのものではなかった。瞳の中に涙がこみ上げてくるのがわかった。


「……けるな」

「なんて?」


「ふざけるな!! 真理子も幸恵さんも! あんたみたいな奴が殺したんだ!」


 突き飛ばされた老人は激しい音を立てて倒れた。


「先生! やめなさい!」


 教頭は激しく大森の肩を引いた。大森が勢いを失ったうちに、倒れた老人との間に入ってかばう。老人は緩慢な動きで受け身をとった右腕の痛みを訴えている。


「私たちみんながに殺されるんですよ! 骨も残らない! いいじゃないですか、腕くらい折れたって! 幸恵さんは何も……全部……」


「先生!」


「教頭も見たじゃないですか! あのは簡単に車のガラスだって割るんです! 私たちの頭だって簡単に砕くんです! そんなものを黙って隠して……! 36年も……!」


 そのとき大森は、彼女に集まっていた視線にさえ気づかなかった。たったいま外界から孤立したと耳にした避難者たちは、次には堀越の言うの実在を叫ぶ声を聞いていた。恐怖が瞬く間に伝播するのを教頭は感じ取っていた。


「わたし、大倉さんのところに行きます。もし知ってたっていうなら……」


「先生落ち着いて……!」


 教頭と夫人は揃ってすがるような声を出したが、大森が返したのは青ざめた顔の只中で涙に赤く腫れながらも、輝きを失った暗い眼光だけだった。有無を言わせず歩き出した大森の背後で、老人がようやく杖を片手に上体を起こす。


「俺はを撃つために生きてきた。仇を討つためや」


 背中にかけられたその言葉を聞いてもなお、大森は歩みを緩めなかった。不安げな視線で見送る役人を尻目に、大森は傘を開いた。大森の姿は、白い雨のカーテンの中に消えた。

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