恐慌に抗う
サイレンからしばらくして、体育館には一層多くの人々が姿を現していた。そしてようやく安堵しながら体育館を覗き込んだ人々は、そこで手のつけられない激しい口論を目にして、隅にいる人に事情を聞くことになった。
「獣害って真っ黒な人食いの怪物らしいよ」
「大倉さんが隠してたんだと」
「車も壊すって言うから、ここにいてもダメかもしれん」
教頭は次から次に断片的な情報の真偽を問いただされていた。夫人はそれを
なによりひどいことには、避難中に土手に放り投げられていた車を見たという真偽不明の情報が現れ、ついに教頭はその妻とともに放送機材室に鍵をかけて籠城を決めた。それでも扉を叩いて喚く声に耐え続けなければならなかった。
この騒ぎを鎮めることができるのは一人を置いて他になかった。こうした問題で村を先導し続けてきた市民運動家、堀越悦司である。しかしその堀越はといえば、昨夜から続く原因不明の高熱にうなされ、怒声が響き渡る体育館の片隅で
役人の通報で駆けつけた米森巡査でさえも、事態に収拾をつけるのは難しかった。米森巡査はかえって窮地に立たされたのである。これまで間違った情報を発信し、大倉鉱業と口裏を合わせてきた警察組織のすべての責をたった一人で負わされた以上、無理もないことだった。
その剣幕に暴徒化を恐れた米森巡査は、この村での駐在経験で初めて腰の拳銃に手を伸ばしたほどだった。一人でその場を制圧するには、実際空砲を空に放つ以外の策はないように思われた。それでも巡査は距離を取るために壇上を選んでそこに立ち、市民全員を舞台から降りさせた。
パイプ椅子を一つ置いて腰を下ろしたとき、巡査はこれから2日の間は自分がここで市民の共通の敵となることで、小競り合いの起こるのを止めようと決意していた。ただパトカーの無線機ばかりが気がかりではあった。それは村人を守るための重要な情報源に違いなかった。
そうした緊張状況に一石を投じたのは、フルフェイスヘルメットを脱ぎ捨てて駆け込んだ田原俊樹だった。
その腕には、筋肉を硬直させ指を折ったまま硬くしている痩せた少年の姿があった。俊樹は前田陸を見つけ出したのである。
「低体温症だ! こごえきってる! だれか医者は!?」
「須藤先生も殺された!」
「死んだ!」
飛び交った声を無視して、俊樹はブランケットで少年を包んだ。
ガタガタと音を立てて、立て付けの悪い放送機材室の扉が開く。中から女性の声が叫んだ。
「待って! 温めたらダメ!」
「何言ってんだ、低体温症だぞ!」
看護師として最後に働いたのはすでに20年以上も前のことだった。それでも、俊樹の低体温症と医者を求める叫びに、症状の重さを感じ取ることはできた。遅れて現れた教頭は、真っ白になって体を固めている前田陸の姿に息を飲んだ。
「末端の血が急に戻ると、カリウムが濃すぎて不整脈に……指も動かさないで」
この場にいる最高の医学権威は彼女に違いなかった。我の強い俊樹でさえも、その吠えるような指示に圧倒されていた。
「今は一人を助けましょう。この村が人を殺すばかりじゃないって……みなさんも、それを見せましょうよ……!」
そう口に出しながら、素早く体温と筋肉の状態を確かめる。もはや医療機関での措置が必要であるには違いなかった。
「森で気を失ってたんだ。一晩中雨に打たれてたんだろう」
「……ここでできることはないかも。お父さん!」
覗き込むばかりだったとはいえ、大声で呼ぶまでもなく教頭はそこにいた。
「車を出して。須藤先生の病院に行きましょう。輸液があれば……」
「輸液?」
聞き慣れない言葉に俊樹が尋ねる。
「点滴。……何号がいいかまでは私じゃわからないけど……」
「待て、車はダメだ。フロントがやられててワイパーも片方だけだ」
鍵まで取り出した教頭は、そこで思い直した。
「そのくらい我慢してよ、命がかかってるんだから」
「いや、夜ならまだしも、昼じゃ道も見えない。急ぐならなおさらだめだ」
俊樹は若い役人の顔を見たが、役人は「軽なので」と弱々しく口にした。
「うるせぇ、濡れないだけじいさんたちの軽トラよりマシだ。回せ」
「でもここを離れるわけにも」
俊樹は激しく舌打ちする。
「玄関につけておきました、一番安全ですよ!」
靴を履いたまま濡れた帽子を振ったのは米森巡査だった。飛び込んできた少年の容態を見て、真っ先に舞台から駆け下り、彼女が指示するより先に搬送の用意をしたのである。
「助かります!」
俊樹が再び前田陸を抱えようとするよりさきに、その体は夫人の手によって抱え上げられ、小走りにパトカーへ運ばれた。俊樹もそれに続き、米森の指示でパトカーの助手席に乗り込む。
「教頭先生、私がいない間、こちらをお願いします。パトカーも広くないのです」
米森巡査は妻に続いて乗り込もうとした教頭を手で制した。
「そのようですね」
後部座席に寝かせられた前田陸の四肢を温めないように不自然な体制で座る妻を見て、教頭は同行を断念する。
「くれぐれも妻をお願いします。噂の通り、この村には怪物がいます」
「お任せください」
米森巡査は腰に下げた拳銃を軽く叩く。それは日本の社会の中で最も力を持った武器に違いなかった。しかし米森巡査の過信を前に、教頭はかえって不安を抱いた。
「撃っても効くかわかりません。いつでも逃げられるように」
その声は雨音と扉の音にかき消された。パトカーは泥水の正門を抜け、また雨の中に赤い回転灯の軌跡をわずかに残して消えていった。
教頭が振り返ると、人々の視線とともに、複雑な感情が押し寄せた。前田陸に対する心配が少数であるのは間違いなかった。大多数を占めるのは、怒りや恐怖、不安、そして哀願だった。
児童教育者として、その目には度々触れてきた。叱られた子供達の目だ。敬愛する大人からの叱責を受けたとき、子供達は自分の存在そのものが否定されたと誤解し、強い不安を抱く。不安の解消を求める哀願の瞳を前にすれば、教育者として取るべき態度はひとつだった。
「みなさん、大切なのは、私たちがいま生きているということで、この避難所は安全だということです。昨日堀越さんがおっしゃった通り、雨が過ぎるのを待ちましょう」
児童に言い聞かせるようにそう宣言した。それが姑息な取り繕いであることは自覚していた。実際には、避難所が安全である保証など何もない。今このときも、あの黒い水が彼の体を粉砕する可能性は残されていた。
しかし人々は安心に飢えたスポンジだった。ことの真偽を検証するより先に、開設より1日の間なんの被害もなく保たれていたうえ、避難所という免罪符を持ったこの施設に全幅の信頼を寄せることを選んだ。
そしてまた、彼らにはもう一つの問題があった。誰からともなく、同じ疑問が口をついたのである。
「……そういえば、堀越さんは?」
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