遺体は語る
須藤内科の窓を叩き割って鍵を開くと、アルコールの匂いに混じって、あの異臭が漂っていた。3人はほとんど同時に鼻を覆ったが、米森だけは左腕を口元にあてがい、右手は腰に伸ばしていた。
「これまで遺体が発見された現場と同じ匂いです。私が中をたしかめます。戻らないときは」
指先に冷たくのしかかる重みに、米森巡査の手はわずかに震える。
「急いでください、脳に影響が出るかも」
「急かさんでくださいよ……」
引きつった笑みの視線の先で、リボルバーの弾倉を一つ回す。本庁に出向いての射撃訓練からはもう8ヶ月は経っていた。その手順のひとつひとつが、現場では不確かなものに思われた。
米森は須藤内科の構造を熟知しているわけでもなかった。もし本庁に連絡を取れば、増援を待てと言われる局面かもしれない。しかし増援はあと2、3日は期待できない。そしてパトカーには死に瀕している少年がいた。
「須藤先生! いるならお返事を!」
声の後には雨音だけが残された。左手を診察室のスライドドアに伸ばし、勢いよく開いて銃を構える。
そこには動物が暴れまわったみたいに荒れた診察室が残っていた。腰までの高さの台が倒れ、名前も知らない診察器具が散乱している。椅子が入り口にまで放り投げられていて、ベッドの横にあったはずの点滴用の柱は壁際に倒れて窓ガラスにはヒビが入っていた。
須藤医師の姿はついたての向こうの処置室の床の上にあった。その体からは一層得体のしれない焦げ臭い異臭が漂っている。その匂いがなんであるにせよ、すでに手遅れであることは明らかだった。米森は念のためその首に手を当て、失われた温度を確認し拳銃を腰にしまう。
「お二人とも! 大丈夫です! もう終わったあとのようです!」
その声に俊樹たちはためらいなく動き始めた。もう終わったあとだから大丈夫などという異常な言葉が発されても、疑念を抱くことはなかった。そこに須藤医師の遺体があることも、場合によっては黒い水がいることさえ、ふたりは想像していたのだから。
「とりあえず3号にするけど、温めるのは……ぬるま湯って作れる?」
「それくらいなら」
「給湯室もあるでしょうから、探しましょう。お伴します」
ふたりが扉を出ると同時に、その背に短い悲鳴があがった。ガラスにぶつかっていたアルミの支柱が再び倒れ、ガシャンと音を立てる。女性は慌てて右の掌を払った。何か影のようなものが床に飛ぶ。
「水っ!」
指差した先には、ほんの数滴の黒い水の雫が落ちていた。しかし動くこともないそれは、ただ3つに分かれた楕円形の黒いスミにすぎなかった。
「落ち着きましょう。現場には残るんですよ、そういうものが」
「は、はい……」
措置の用意はそれから間も無く整えられた。わずかに温められた点滴は女性の手で注入され、その輸液はなおもぬるま湯につけられている。
「本当は温めて還流したり、腸内を温水で洗浄したほうがいいんですけど、この状況では……」
措置を終えた女性は横たわる須藤医師の遺体を見やる。
「陸は大丈夫なのか?」
「わかりません。私も医師ではありませんし……」
そう会話しながら、俊樹の手は須藤医師の遺体に伸びていた。横を向いて硬直した体を仰向けに返すと、首のあたりに黒ずんだ痕が残っていた。
「おい、焦げ臭いと思ったら、これ焼けてないか?」
残るふたりも遺体を覗き込む。その体は硬直したままで、脚は床を離れている。
「いや、服が焼けてないし……」
遺体を前に逡巡するふたりをよそに、俊樹は須藤の着ていたポロシャツのボタンを外し、胸のあたりの炭化を確かめる。左の鎖骨のあたりを中心に、周囲が炭のように黒くかたまっている。
「いっ」
そのあたりを触ったとき、何かが指先に痛んだ。目をこらすと、細い針が炭化の中心に刺さっている。
「おい、刑事さん、こりゃ自殺だぞ」
「……田原さん、私は巡査です」
「そりゃ失礼……しかし……」
注射器は遺体の脇に転がっていた。俊樹はそれに手を伸ばしたが、触れるのをためらう。もしそれが須藤医師を殺したものであれば、およそ劇薬に違いなかった。結局触れることなく、膝を打って立ち上がることを選んだ。
「でもどうして自殺なんて……?」
米森がこぼしたが、俊樹は応じなかった。ただ目の前の台に並べられたいくつかの医薬品を一つ一つつまんではラベルを前にして並べる。
「刑事さん、俺はこういうのは得意なんですよ。事件っていうのは状況が語る……これか、これですね」
二つの薬品には、明らかにそれとわかる警告表示がされている。むろん俊樹には、そこに書かれている化学式の意味も、そのカタカナの用語の意味も全くわからなかった。何より、田舎村の医者がなぜそんな劇薬を保存していたのかも。
「これ、わかります?」
看護師としての経験を持つ女性に問いかけても、その見慣れぬ薬品に首を振るばかりだった。
「あと、刑事さん。この匂い、あの黒い雫……つまりその黒い水が来たのは間違いないんですね?」
「……はい、おそらく」
俊樹は異臭も忘れて、顎に手をやる。
「俺が大森から聞いたのは、それが馬鹿力の水だってことだけです。他にどういう状況がありました?」
「ええと……堀越さんの奥さんは暴れたらしく、木原さんはひどく痙攣して体から黒い水が……」
「体から?」
「はい、大森さんはそう」
「なら体の中のそいつごと死ぬのを選んだんだ」
ほとんど考える時間もなく、俊樹は断言した。米森はいくつかの言葉でそれを否定したが、すでに俊樹は聞く耳を持たなかった。俊樹は自分の言葉に熱中し、その脚は診察室の扉に向かった。
「黒い水はここから現れた。どういう形かはわからないが、今回は扉を吹き飛ばす必要はなかった。それに驚いて先生は椅子を投げつけつける」
その手振りの先には、転がった椅子が残されている。
「先生は武器を探したはずだ。相手は馬鹿力の怪物だ。距離をとって賢く戦う以外に人間に勝ち目はない。だから手に取ったんだ」
須藤の座っていただろう場所から左右を見ながら後退ると、その左手が何かを掴む動作をし、槍を回すように身構える。
「だが相手は怪力だ。腰の引けたひと突きなんて……」
両手を大げさに上げながら俊樹は仰け反りながら座ると、振り返って一点を示す。ガラスにヒビが入っていた。
「万事休すだな。だが先生は冷静さを失っていなかった。あるいは、今までの被害者たちの様子から何かを知っていたのか……で、いいんですよね? 今までの被害者を診てた?」
「はい……」
米森の返事に満足げに頷き、俊樹は藁にすがるような身振りでようやく立ち上がろうとする。そこには診察器具を載せていた台が倒れている。もう一度よろめきながら立ち上がろうとしたとき、動きを止める。
「たぶんここでしょうね」
「……なにがです?」
「体に入られたんですよ。黒い水が尻からきたのか、口から来たのか鼻から来たのかはわかりませんし、ひょっとしたらその全部かもしれませんけど……いや、尻だな」
聞いているふたりは苦い顔をした。これまでにこの村に死をもたらしてきた存在が、よりにもよって尻から体に入ってくるというのは、想像したくもない状態だった。
「それでたぶん脳がやられるまで時間があった……まぁそういうものだったとしてですけど……それで先生は頭の中にあった仮説を自分の体で試すことにした」
「じゃあ……黒い水を殺したってことですか?」
「さあどうでしょう。自分だけ死んで、同じように流れ出たのかも」
俊樹は二つの劇薬を見比べながら、自分たちの生き残る手立てを考えていた。今や土砂崩れが道路を寸断したことは聞き及んでいる。このまま陸が体力を取り戻せば、あとは雨の止むまで黒い水から逃げ続け、そして救助に来たヘリコプターなりなんなりに助け出されればいい。それまでに1度か2度の襲撃を切り抜ける手段があれば、生存確率は格段に変わる。
そこまで考えたとき、俊樹はようやくもう一人の助けるべき人間の不在に思い至った。
「……陸で忘れてた! 大森は!? 避難所にいましたか!?」
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