逃走劇
村はずれの道路を丸ごと断ち切る錆びた門には、関係者以外立ち入り禁止という掲示が4つもつけられていた。その黒々とした文字の一つを睨み、大森は門の端に備え付けられたインターフォンを押した。
しかし期待された電子音は鳴らず、ただカタカタとボタンの浮き沈みする虚しい感覚が指先に伝わるばかりだった。濡れそぼった体に一つ息をついて、大森は傘をたたむと、門に足をかけ、両手をその上に伸ばす。
容赦のない雨は大森の体を瞬く間に水で覆った。ようやくその脚が門の上にかかり、反対側に身を返したときには、大森はもう傘をさすことがバカらしくなってしまった。門の反対側に立ててあるつぼめられた傘を見やり、そして歩き始める。
自分が何をしにここに来たのかも、大森にはわかっていなかった。その足は怒りと後悔で動き続け、雨に体温を失うはずの体にも熱が満ち、拳は固く握られている。
白い霞の中から現れた大倉の家は、家というより屋敷と呼んだ方がよいものだった。その平屋の前には立派なガレージがあって、見慣れないロゴのついた白い自動車が二台と黒いジープが一台停められている。
白々しい大粒の砂利で覆われた庭の先の玄関が見えたとき、大森は息を飲んだ。その玄関扉が失われていたのである。
「嘘でしょ……」
大森だけが、その光景を見覚えのあるものと言うことができた。雨に目を凝らせば、古風な引き戸の玄関扉の片方はくの字に折れて脇に転がっている。
雨の中に立つ気力が失われ、大森はその場に崩れ落ちた。
その状況を作れる存在が一つしかないのは明らかだった。そしていま、その襲撃からどれほどの時間が経過しているかはわからない。今もこの雨の白いカーテンの向こうで、それは大森を狙っているかもしれない。
しかし大森が感じていたのは、恐怖より虚しさだった。そしてまた、自分が何をしにここへ向かったのかをようやく理解していた。大森は復讐をしようとしていたのだった。大森から大切な人々を奪った怪物の存在を、大倉が30年も前から知っていたというなら、真理子や幸恵のために大森ができることは、その死の原因を作った大倉への復讐に他ならなかった。
破壊された玄関扉は、今やその復讐の相手さえも、真理子や幸恵と同じ被害者の側に加わったことを意味していた。
「勝手に死ぬなよ……真理子の分も、幸恵さんの分も……ちゃんと責任……」
ようやくその膝に力を取り戻し、立ち上がる。その手には偶然手に取った石が握られている。身体中から滴る雨水が玄関を濡らしたとき、なんども経験したあの匂いを感じた。しかしそれが大森の足を止めることはない。
土足のまま声もかけずに廊下にあがる。どこからかラジオの声が漏れ聞こえたと思うと、忌まわしい石臼のようなくぐもった
右手に力が入る。その原始的な武器は黒い水のために握ったものではなかった。もし息が残っていたときのために、最後の一打を加えようと握ったものだった。その相手に聞きたいことは山ほどある。しかし尋ねる時間を期待するまでもない。大森は開いたままの扉の脇に背をつけて、息を止めて中を覗き見た。
部屋の隅に、黒い大きなコブがあった。大きな壺か花瓶のようなシルエットをしたそれは、昼の明かりの中で見ればまぎれもない黒い水に違いなかった。その輪郭は壁に飛び散った血しぶきで際立ち、周囲には赤々とした腸と黄味がかったぶよぶよとした何かが潤って散らばっている。よく見れば、その体には破壊された人間の骨なのか、わずかに白い靄が穏やかに渦を巻いていた。
しかし大森はすぐにもう一つの存在に気が付いた。血しぶきと臭気が支配したリビングの奥の襖に、大森と同じように身を隠して顔を半分だけ見せている人間があった。その目は恐怖に見開かれていたが、今は大森を見つめていた。
その子供らしさをどこかに残した顔が恐怖にひきつるのを見たとき、大森の教師としての自覚が呼び覚まされた。
大森は顔を出し、声を出さずに口を動かした。
(生きてる?)
顔は震えながら、一つ頷いた。
(走れる?)
顔はもう一度、恐る恐る頷いた。
大森は腕を出して平手を見せると、次に親指を折った。その迷いのなさは、やはり大森が理性の
大森が中指を折り、最後に拳を一つ振ったとき、襖から飛び出したのは青年だった。彼は父親の腸を飛び越えると、高級そうなソファの上に足をついて、身軽にそれを飛び越え、大森の元まで駆け抜けた。
にわかに水が激しく泡立った。握っていた石を思い切り投げつけると、黒い水はその体を左右に引き裂いてそれをかわした。しかし石が床に落ちる音が鳴ったときには、すでに大森も青年も部屋の中など見てはいなかった。
廊下を走り抜けると、その背には部屋から流れ出た黒い水が、廊下ごと天井まで渦を巻くように迫っていた。その姿はもはや現実感を失っていた。ただならぬ水勢にも関わらず、その流れには妙に音がなかった。このとき大森は、それが幻覚に過ぎないのではないかとさえ思ったほどだった。
しかし二人が玄関へ折れて外へ飛び出したとき、それは紛れもない物理的な質量をもって、残された玄関扉を弾き飛ばした。
大森が足にうけた強い衝撃を知覚したのは、その体がバランスを崩して砂利の上に倒れた後だった。弾け飛んだ扉が大森の足をかすめたらしい。迷いなく立ち上がったが、転倒で打ち付けた体の痛みはその走力を奪っていた。
一足先に飛び出した青年は音に振り返ると、足元の石を手に取り投げつけた。唸りを上げる速度で大森のわずか左をかすめた石は、そのすぐ後ろで破裂音を立てた。黒い水は再びコブ状の形になり、その体から細長い鞭を振るって石を撃ち落としたのである。青年が見たのはゆうに2mを越えようかという体躯と、顔らしき器官を持たないただただ黒い水だけで構成された怪物の奇妙な姿だった。
「はぁっ!?」
青年は目を丸くしたが、大森がようやく走り出したのを見て、もう一つ石を取ると再び投げつけ、虚しい破裂音に弾かれた。大森がようやく追いついたところで青年も再び走り出す。
二人の視界を覆う白いカーテンの中に二人の人影が見えた。
「来ないで! 逃げて!」
大森が声を上げたにも関わらず、二人の人影はこちらに向かって走る。
「出たのか!? じゃあ先そっち頼みますよ、刑事さん」
霞の中から現れたのは、何かを思い切り振りかぶる米森巡査と俊樹だった。その背に逃げ込むとき、大森の視界には放り投げられた茶色の瓶が見えていた。黒い水はその体の左右から伸ばした鞭で軽々と瓶を叩き割ると、触手のような鞭は瞬く間に短くなってその体はもう一度渦を巻く波のように四人に迫った。
「じゃあこっちか」
俊樹はそう言って瓶を放り投げた。再び体の一部を硬化させて鞭を作り出した黒い水は、体ごとねじるように鞭を回して瓶を軽々と叩き割った。しかし飛び散った液体の仕業なのか、直後におびただしい量の白い煙があがった。
勢いを失った黒い水は、その体表面から鱗のように黒い石を吐き出してのたうち始めた。
「すげぇな、先生。よし、いちおう逃げるぞ」
大森の腕が引かれた。反対では、米森巡査が青年に怪我がないかを尋ねていた。
「何したの?」
「さあ。俺もわからん」
4人が門を乗り越えたとき、もはや黒い水が迫る気配はなかった。
闇は地底よりいでて、 早瀬 コウ @Kou_Hayase
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。闇は地底よりいでて、の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます