100年前と同じこと
玄関扉を閉めたとき、大森は
大森にとって、あのときあのテーブルを越えて二人の肩に手を置くことは、この世界で最も難しい行動の一つだった。大森に共感性が欠けているとか、優しさが足りないとかいうわけではない。むしろ原因はその逆かもしれなかった。
たった12歩の間に濡れそぼった傘に妬ましさを覚えながら、大森はスマートフォンを取り出し、チャットアプリを起動する。通知の数ばかりは増えていたが、そのどれも、いまは読みたいとは思えなかった。
ベッドにスマートフォンを放り投げると同時に、それが洗練された振動で着信を知らせた。大森はわずかな期待を胸にそれを手に取ったが、そこに表示されていた名前を見てもう一度ため息をついた。
「また読んでなかったんじゃない? そろそろ着くけど、家庭訪問終わってる?」
スピーカー越しの真理子は、大森の応答を確認するより先に一方的にそう言った。雨に引きずられるような疲労感に頭を抑えられていた大森には、その問いかけにすぐに応答することは難しかった。
「えっと……」
そう言い淀んだ大森に、真理子は続けた。
「鉱山のアレの懇親会。そっち終わったら付き合ってって送ってたでしょ? 私はサボる理由がなかったんだけど、遅れる理由に使わせてもらったわけ」
そう聞いて、大森にもようやく状況がわかってきた。
欠席すると伝えていたはずの懇親会に、真理子の不必要な計らいで遅れて出席することになっていたようだ。真理子を悪い人とは思わなかったが、こうやって大森にいらない苦労を持ち込むのはこれでもう何度目かのことだった。
「休ませてよ。ああいう子に接するのってすごく疲れるんだから」
「大丈夫大丈夫、ちょっと行って帰るだけだし。ほら、出てきた出てきた」
電話の向こうで催促する声に合わせて、家の外でクラクションが小さく鳴らされた。幸恵の家にも音が聞こえただろうと思うと、大森は頭を抱えた。
大森は腰掛けていたベッドの柔らかさに名残惜しさを覚えながら、一つ大きく息を吐いて、勢いをつけて立ち上がった。化粧さえ落としていれば断る気にもなれたのにと歯噛みしながら、セカンドバッグを肩にかけて部屋を後にする。
ギラギラするほど赤い真理子の車に乗るのは、あまり気乗りのすることではなかった。妙に気取っていたし、自分の安っぽい軽自動車の方がいくらか落ち着くのは事実だった。
「乗りなよ。雨の中でもこっちのなら走るよ」
「軽自動車も走るから」
「ま、いいじゃん、ほら、乗った乗った」
この村に知り合いが住んでいたことを、去年の大森は喜んだものだった。しかし今では、むしろ真理子がいたことで引っ張り出される厄介ごとの方が多く感じていた。
車種もメーカーも知らなかったが、大森は格好をつけたその車に八つ当たりをしようと、心持ち強く扉を叩き閉めた。
「で? どうだった、家庭訪問」
「村じゅうに注目されてかわいそうだった」
大森が不機嫌にそう返答しても、真理子には皮肉は通じないようだった。雨で不明瞭な視界に注意しながら、真理子は車を走らせ続けている。
「まぁしょうがないよ。どこも震災関連の話題で持ちきりだし、それが村にも届いたって言うんだから、みんな同情的な顔くらいしたいわけ」
「それが他人事だって……」
そうやって口々に噂して、一つの悲劇に同情的な顔をしたいだけの人々を想像するのはあまりに容易だった。大森もつい今年までは、その一人だったのかもしれない。全国津々浦々、テレビの前では同情的な顔が満ちているのだろう。
しかし本当に苦境に立たされた人々を前にしたとき、同じ顔で彼女たちを慰めるのは、大森にとって罪悪感すら覚える行為だった。
「でもほら、今から向かう先には当事者さんがいっぱいいるわけで……」
「100年も昔のことと一緒にしないでよ」
この村で起こったという鉱毒も、震災と同じように大きな被害をもたらしたという。鉱毒の大部分は人災に他ならなかったものの、それによって家族を失った人々もいたらしい。もちろん、今となってはそんな事件は過去のことだった。まだしも30年前の落盤事故の方が現実感があるかもしれない。
そう考えて、大森は石碑に刻まれていた名前を思い出そうとした。あの中には、家族がいた人もいたのだろう。ちょうど前田陸と同じくらいの歳の子供を遺して亡くなった人もいたかもしれない。その家庭では、今日眼前で繰り広げられたような悲しみの光景があったのだろうか。
「あれ?」
大森が考え込んでいると、真理子がそう言って車の速度を緩めた。
顔を上げて前を見てみると、田舎の狭苦しい道路に石垣が崩れ、道路に飛んだブロックが道を塞いでいた。
「どかしてもらえる?」
「えぇ……イヤ」
真理子に頼まれても、この雨の中で重たそうなブロックを運ぶ気にはなれなかった。それは真理子も同じだったのだろう。それでも、ハンドルに手を置いてしばらく逡巡すると、サイドブレーキを引いてシートベルトを外した。
「手伝う手伝う」
真理子の思いの外早い決断に、大森もしぶしぶシートベルトを外すことにする。
「来たときは壊れてなかったから、なんか雷でも落ちたのかな?」
傘を広げるなり、真理子は疑問を口にした。壊れたのはどうやらすぐ道路脇の家の石垣のようだった。大森の記憶では、この家は鉱毒訴訟の代表を務める堀越の家に違いなかった。
「えっ、それ危なくない?」
傘を肩と首に挟んで、ブロックを一つ持ち上げる。もう一つのブロックは真理子が同じようにして持ち上げた。数歩路肩に寄って、草の生えた畔にブロックを放る。がたついた石の突起が押し込まれて、手はいくらかじんと痺れていた。
「この辺に避けとけばいいかな? 堀越さんなら向こうにいるでしょ」
「これも賠償金で直すんじゃない?」
真理子がそう口にして、大森は慌てて堀越の家の中を見た。リビングの明かりがつけたままになっていたが、人の気配があるわけではなかった。
「……あんまりそういうこと言わない方がいいよ」
「いいじゃん、ちゃんと顔だしてあげるんだし、これくらいさ」
真理子は不満げにいいながら、泥を落とそうと雨に手をかざしていた。子供達みたいな真理子の振る舞いに呆れながら、大森はハンドタオルを取り出して泥を拭う。真理子がジーンズに手を打って拭こうとしたのを見かねて、大森はタオルを使うかと尋ねたが、真理子はそれに答えるより先に、腿を数回叩いて車の扉に手をかけていた。
「でも、大切なことだと思う」
今度は扉を丁寧に閉めて、大森はそう口を開いた。
「鉱毒って結局、今でいうと原発問題みたいなものだったわけでしょ? 発展のために犠牲を強いるか、発展を捨てて貧しさを取るか……」
「発展を捨てて賠償金を取るんじゃなくて?」
「それは結果であって、目的じゃないんだと思う。好意的に見ればって話だけどさ」
一時はこの村も下流域も、農耕ができない土地になり、土地を捨てるか賠償をもらうかの決断を迫られたのだという。結局、訴訟を経ても鉱山は閉山にならず、鉱毒の流出を防止する
発展を捨てずに賠償金も受け取り、さらに犠牲を強いることすらしなかった。それが現実に起こったことだった。その一連の話を勉強して、大森は人類も捨てたものではないと思ったものだ。それでもこの村に来て、いまだに鉱毒の後遺症や農地被害を訴える人々を知って、現実の複雑さに頭を抱えた。
「100年前と一緒なのかもね。案外」
大森がこぼした言葉の意味は、真理子には到底理解できなかった。
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