喪失の生み出した隔たり

 扉が開かれたとき、大森はそれがひとりでに動き出したのではないかと錯覚した。しかし、すぐに表れた青白い少年の顔を見て、ただ話し声に気づいた前田陸が姿を現したに過ぎなかったのだとわかった。


「こんにちは」


 無意識に生徒の前で見せる明るく柔らかい調子でそう声をかけると、少年のほうでも子供らしい無邪気さで返事をした。いくら妙なことを口走る少年とはいえ、その行動のほとんどは他の児童となんら変わりはなかった。そういう姿を見るとき、大森は安堵あんどを覚えずにはいられなかった。


「なんでおばあちゃん家に先生がいるの?」


 少年の素朴な言葉遣いは、彼の身に起きた喪失を思い起こさせた。少年にとっての自分の家は、まだあの口をつぐみたくなるがれきの山の中にあるのかもしれない。


「このあいだ陸くんが倒れちゃったでしょ? 心配だったから、お見舞いにきました」

「ふうん」


 その様子は、倒れる以前と何ら変わりはなかった。大森はあのとき何を見たのかと問いたい衝動を今日は抑えることに決めていた。本当に何かを見たとは到底考えられなかったし、それを思い出させることでもう一度ショック症状に見舞われれば教師として責任問題に発展するのは避けられない。


「座ってお話ししようか……いいですか?」

「ええ、もちろん。陸のぶんのお茶も持ってきますね」

「ボク水がいい」

「はいはい」


 少年は幸恵の席の隣に、大森とははす向かいに席をとる。座ってみると、このテーブルは少年には高すぎるような気がした。当人も居心地悪そうに椅子の上で足をぶらぶらと振っている。


「陸くんが来る前はね、ほら、先生お隣りだから、ときどきお邪魔してたんだよ」

「そうなの?」

「うん。だからおばあちゃんと先生はお友達なの。ときどきお菓子とお茶でお話ししてたんだ」


 さすがに保護者と教師の関係になってみると、ただお茶を飲んで話をするためだけに上がり込むわけにもいかなくなった。それでも、1年の間に積み上げられた親しさは、前田陸という苦難の中にある少年と向き合うために十分な役割を果たしていると大森は感じていた。


「おじさんは? 会ったことある?」


 少年がそう問いかけたとき、大森はどきりとした。表情を崩さないようにお茶をとって口元に運びながら、話を元に戻す。


「あるよ。だから陸くんのことも前から話には聞いて知ってたんだよ」

「へぇー」


 いったい自分は小学生の子供を相手に何をしているのかと、大森は動揺した自分の滑稽さを笑った。幸いにして、少年が大森の動揺を見抜く前に、幸恵が水の入ったグラスを持って帰ってきた。


「学校で友達ができたかって聞いても、あまり教えてくれないんですよ」


 判で押したような保護者と教師の話題に、大森はすっかり平静を取り戻す。

 大森の見立てでは、前田少年は人並外れて内向的な児童だった。もとより児童の少ない学校にもかかわらず、ほかの子と遊ぶのを見るのはまれで、たいていは校庭の隅で一人で草花を見たり、摘んだりして時間をつぶしているようだった。体を動かすことに無上の価値を見出す子供たちの中で、彼だけは明らかに性質の異なる児童に違いなかった。

 そうした振る舞いが、震災以降に突然身についたのか、それ以前からそういう子だったのかは、大森には知る由もなかった。幸恵から聞いていたのは、おとなしくて利発な子だという、孫に対するありがちな評価だけだった。実際のところ、そのあたりは幸恵もよくわかっていないのだろう。


 会話は家庭訪問のリプレイのように同じ筋をたどった。変わったことといえば、それから1か月の間に、彼の性格を表す参照事例が更新されたという程度のことだ。そしてその話を照れ臭そうに聞いている少年の様子も、やはり以前と何ら変わりはないように思われた。


 結局はすべてが気のせいだったのかもしれない。


 大森はそう考えることで、この難解な少年の問題から目をそらすことにした。複雑な言葉を話したというのも、そう聞こえただけであって、実際には支離滅裂しりめつれつな音を発していただけなのかもしれない。よしんば文字通りあの言葉を述べたのだとしても、彼の父親が妻の両親にあたる幸恵に自らの趣味を伝えていなかっただけかもしれない。そう考えれば、この少年のあまりに子供らしい純朴な姿との矛盾はすべて解消される。

 他愛のない会話を通じて、幸恵もそう感じたのだろう。玄関先で話したときに比べれば、表情は明らかに柔和になっていた。娘を亡くして突然に孫を育てることになった幸恵にとって、少年の不可思議な、あるいは包み隠さずに言えば“不気味な”態度は、二重の意味でのストレスになっているには違いない。教師として、また友人として、こうして不安を和らげることは、大森のこれから数年の仕事に違いなかった。


「……でも、陸くんが元気そうで安心しました。これなら今週から学校にはこられそうですね」

「はい。行くよね?」

「うん……でも……」


 ようやく話に区切りをつけて席を立とうかというときになって、少年は急に言葉に詰まった。うつむいて自分の脚を蹴り、両手を座面の両端にまっすぐについて肘を伸ばした様子は、明らかに彼が心理的なストレスを感じていることを現していた。


「どうかしたの?」

「うん……えっと……」


 またこれだ、と大森は上顎の奥の方に沸き起こる苦い感覚に眉をひそめた。少年はまた“何かおかしなこと”を口にするに違いなかった。この少年は、自分でもそれがおかしなことだとはわかっている。しかし、わかったうえで、それを口にせずにはいられないのだ。

 大森は何を言っても受け入れてみようと考えた。たとえ虚言癖であろうと、妄想癖であろうと、この少年の言うことを当然のこととして受け入れ、それを口にすることが大きなことではなく、ごく当然のことなのだと感じさせてあげれば、少なくとも心理的ストレスだけは取り除けるかもしれない。


「途中ですごい雨が降るから、おやすみになるよ」


 身構えていた大森は胸をなでおろした。今週の天気くらいなら、テレビで誰でも知ることができる。昨日の夕方に見た週間天気をそのまま口にしただけに違いない。

 6月の日本は、ほとんどの地域で雨が続く予報だった。ともすれば、どこかの地域で休校がでたというニュースがあったのかもしれない。それを見て、ここでも休校になると考えたのだろう。


「どうかなぁ、そこまでは降らないと思うけど」


 大森がそう言って笑いながら荷物を持ち席を立つと、少年は強く否定した。


「ううん。すっごいたくさん降るよ。それに、黒い水が来る」


 大森はその言葉に身動きを止めた。全身の筋肉がこわばった。この少年にとって“黒い水”という言葉が持つ意味は一つしかなかった。たくさんの雨が降るという話に、まだ津波のメカニズムを理解していない少年は、あの恐怖を思い出したに違いない。

 大森が動くより先に、幸恵が少年の頭を抱いていた。両親を失った子供と、娘を失った母親を前にして、何も失わなかった大森はかける言葉を見つけることができなかった。踏み出して少年の肩を抱くことも、大森には許されていないように思われた。

 喪失が生み出した隔たりに怯える大森を、幸恵の腕の中から二つの無垢な瞳が見つめている。笑いかけることも、同情の涙を流すことも、その瞳の前には誤りだった。少年から目をそらして、大丈夫と言ってなだめる幸恵の姿をただ見ているよりほかに、大森にできることは何もなかった。

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