不調和の会合

 すでに“できあがって”いる会場に遅れて参加するのは、想像以上に難しいことだった。


 座敷の宴会場と化した公民館では、数十人の声で空気が揺れ続け、疲れ切った大森にはその振動だけでめまいがするようだった。折り畳みテーブルに等間隔に並んでいた仕出しの料理たちは、すでに半分ほどが失われている。

 世間では自粛と騒がれていたが、テレビカメラの目もSNSの目も届かない片田舎で、老人たちは酒宴に興じていた。ただ居並ぶ老人たちの服装が慰霊祭のための落ち着いたものばかりであることに気づいて、大森はもう一度着替えてこなかった自分を悔いた。


 大森と同じく明るい服を着ていたはずの真理子は、しかし躊躇ちゅうちょなくテーブルの列の間に入って、社交辞令じみた挨拶あいさつをはじめていた。そうした“図太さ”をもたない大森には、次の一歩を踏み出すことは苦痛に思われた。


 それでも大森には堀越に塀の話を伝えるという仕事があった。それを伝えようと伝えまいと、堀越が帰宅すればそれを知ることになる。それでも、遅れて参加した大森たちが塀の倒壊を知っておいて何も言わずにこの場にとどまれば、明らかに角が立ってしまう。

 真理子にとっては思い付きで伝えるだけの事実かもしれなかったが、大森にとっては保身だった。その事件を見知っておいて、腹でわらいながら堀越に挨拶した性悪ではないと伝えるためだけに、それを報告する必要があった。


「先生、こっちで呑んだら?」


 入り口からまだ一歩も動いていなかった大森に声をかけたのは、村の女性たちだった。彼女たちは片隅のテーブルにほとんどが集まって、その中央に菓子と仕出しが広げていた。そして酒の代わりにペットボトルのお茶が置かれている。

 にわかに差し向けられた多くの視線に大森はたじろいだが、すぐに婦人たちの中に堀越夫人を求めた。こういう人間関係に関わることは女性の世界だけで処理するのが田舎村の風習だった。それはばかげた前世紀的な男尊女卑だったが、この村で数年を過ごす予定の大森にとっては法も同然だった。


「あの、堀越さんの奥さんは……?」


 ついに見当たらない堀越夫人を求めて尋ねると、婦人たちからは意外な返答が寄せられた。


「いんね、今日はおらんよ、うちでおやすみやって。なんか用事ね?」


「ここに来る途中に堀越さんのお宅を通ったんですけど、塀が壊れてたみたいで、お伝えしようかと……そしたら堀越さんに伝えてきますね」


 実際には、これだけで村の女性たちに対する保身は終えていた。


「家におりんさったやろーに気づかんかったかね」

「寝てはったんやろ」


 大森の足取りは真理子のものほど鋭くなかった。不揃いに放られたままになっている古い座布団と姿勢の悪い参加者たちの間をなんとか歩きながら堀越を探していると、音圧のある声が大森の耳に押し付けられた。


「今度調査しますから。今はね、便利なんですよ。カメラ付きのヘリコプターがあるんです」


 腹の底から四方の壁に向かって投げつけられたようなその声の主の場所を見つけるのはそう難しいことではなかった。酒のためなのか興奮のためなのか、いくらか顔を赤くした白髪の老人は、大森の接近に気づくとすぐに居住まいを正して挨拶あいさつした。


「先生、どうもどうも。いまこちらにね、ドローンの話をしていたんですよ。先生ならご存知でしょう」


 堀越は目の前にいる大森に向かっても変わらぬ調子で大きな声を発した。大森はいつもこの声に気圧けおされてしまっていた。教師として威圧的な発声法をしないよう常に心掛けていた大森にとって、堀越のこの声は意図的な脅迫のようにさえ思われた。


「ドローン、ですか?」


 聞きなれない単語に大森は困惑した。その言葉はハリウッドのSF映画から出てきたようで、少なくとも田舎村の白髪の老人の口から出るものではないように思われた。

 ましてや堀越の隣で耳を傾ける高齢の村議会議員に至っては、その横文字をあと10秒は記憶するのも難しいように思われた。しかし老齢で瞼が重たく垂れていてずっと瞳を閉じているようなその顔からは、およそ表情を読み取ることができなかった。


「ははは、昨年フランスで発表されたものですからね。ラジコンのヘリコプターみたいなもので、それにカメラを積めるんです」


 堀越は熱弁を続けた。その登場したばかりの機械を使って、大倉工業がひた隠しにしている鉱滓ダムまで空から接近するという作戦を考えているそうだ。

 鉱滓ダムが建設された付近の4つの山は、すべて大倉鉱業の私有地となっていた。すべての道路には鉄条網付きの門扉が設置されていて、監視塔に監視カメラが設置されているということは、大森もすでに聞き及んでいた。

 その鉱滓ダムに強制的に侵入するための手立てとして、この老人は最先端の技術に目を付けたのだった。この世界で起こるすべての物事を大倉鉱業との訴訟に結びつけようとするその態度に、大森は舌を巻いた。


「堀越さん、お話し中失礼しますが、ここに来る途中、塀が崩れているのを見まして、一応お伝えしておこうかと思いまして」


 あまり訴訟の話に深入りしたくなかった大森は要件を急ぐことにした。堀越の表情には一瞬不快の色が浮かんだが、内容が自身の家のこととわかって態度を軟化させた。


「それは大変だ。地震でもろくなっていたんでしょうかね。伝えてくださりありがとうございます」


 大森の気苦労も知らずに堀越は通り一遍の謝辞を述べると、またドローンの話に戻った。全く口を開かなかった議員にも少し会釈をして、用を済ませた大森はその場を去ろうとそれとなく身を引いた。


「先生。学校はもう設備が古くはありませんか」


 不意にしわがれた穏やかな声が大森を引き留めた。はじめ誰のものかと戸惑ったが、議会議員の老人以外にそれらしい人物はいなかった。


「はい。一番残念なのは遊具ですかね。生徒が少なくて遊ばれない時期があったのか、錆がひどくて触るのを禁止しているものもあります」


 相変わらず瞳の見えない議員の表情はまったく読めなかった。それでも、この老議員の顔が全く赤らんでいないことだけはわかった。それでも手元に杯を持っており、決して素面しらふというわけではなさそうだった。


「そうですか。体育館は大丈夫ですか?」


「体育館は大丈夫ですよ。いろいろ使うので、ときどきワックスもかけますからね」


 去年の卒業式にはこの議員も来賓で出席していたはずだった。司会として読み上げたその名前を思い出そうとしたが、どうにも思い出すことができなかった。


「今回の震災で、県のほうから避難計画の見直しが指示されましてね。この地域は鉱毒で土砂崩れが起きやすいでしょう。使えそうな避難所が学校だけだという話で、それなら補助も出るかもとね」


 老議員の話はどうにも間が抜け落ちていたが、大森にはその意味は十分伝わった。

 この村では鉱毒のために山肌がいまだに禿げ上がっているところが多く、土砂崩れの不安が常に指摘されていた。想定外の地震によって大被害を生み出してしまった震災の教訓をもとに、おそらくは被害想定をより甚大なものに置き換える操作が行われているのだろう。そして学校の教育予算としてではなく、避難所確保のための災害対策予算として、学校の修繕費を賄おうという計画があるに違いない。


「そうなんですね。新しくなれば子供たちも喜ぶと思います」


鉱滓こうさいダムの件で村を出て行ってしまった家庭もいますからね、村としては、悪評は払拭ふっしょくしたいものですよ」


 老議員はそう言うと咳とも笑いともつかない音を出しながら体を揺らした。その鉱滓こうさいダムについて騒ぎ立てた当人の横でこんなことを言える人物は、この老議員しかいないだろう。この発言も、大森に向けられたものなのか、堀越に向けられたものなのかは判然としなかった。

 大森はただ戸惑いを含んだ愛想笑いで堀越を見た後、一言断ってその政治的な駆け引きの現場を後にした。

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