ハンドタオル

 婦人たちの席に戻った大森は、菓子をつまみながら適当に愛想笑いを続けていた。テレビで見知った健康食品の知識とか、地域パンフレットの投書欄に載っただとか、そういう閉ざされた話題が続いて、大森は早くも帰り時を探していた。

 視界の隅の方では、真理子がまた別の誰かに挨拶に向かっていた。もし自分の車で来ていれば、もう帰ることもできたかもしれない。しかしそうしていれば、これもまた明らかに角が立ってしまっただろう。


「だよねえ、先生」


 不意をつかれた大森は、向けられた視線にまごつき、そうですねと取り繕うように相槌を打った。しかし大森のその態度は、明らかに婦人たちの注意を集めてしまっていた。


「どうやね先生、やっぱり田原さんとこのあん子は大変かね?」


 婦人たちの目が大森に集められた。どの顔にも良識と同情のスタンプが押されていて、大森は思わず手元にあった菓子の包装紙に視線を落とした。賑やかなフォントで印字されたその商品名は、開かれたとき縦に二つに裂かれてしまっている。


「あまり、生徒のことは私からは……」


 大森はそれだけを言って、あとは質問を控えてもらうよう、上目遣いにはにかんだ。その表情を見て、ひときわ声の大きい婦人の一人が話を引き受けた。


「えーて、えーて、先生もやりにくいやろ? なんかあったら相談しやー、えか? あれよ、『子供は地域で育てる』やろ」

「田原さんも大変やったしなぁ」

「そろそろ元気になってもらわんと」


 婦人たちは口々にこぼして、大森はすぐに蚊帳の外に立ち位置を戻した。小さく断りを入れて席を立ち、真理子の様子を探りながら廊下へ出た。扉を閉じたとき、大森は雨の匂いとかすかな埃の匂いに安堵した。


「あれ? 先生、来ないんじゃなかったんですか」


 廊下に出た大森に声をかけたのは教頭だった。その顔は赤く、すでに随分アルコールが回っているようだ。


「いいんですか教頭。お酒は控えめにしないとまた検査で引っかかりますよ」


 教頭は5月の健康診断で肝臓の数値で精密検査を指示されていた。その後どうなったのか、大森は聞いていなかったが、この様子だと重大な問題も改善意欲も生じなかったらしい。


「今日はちょっとしか飲んでませんし、一週間禁酒してたんですよ。こういうときは付き合いもあるから飲まないと」


 教頭は子供のようにバツが悪そうに笑って言い訳を並べた。

 田舎村の学校で教員は少なかったが、いずれもトラブルの少ない温厚な教師ばかりだったことは大森にとって幸いだった。教頭は前田陸が倒れたときにも、大森より早く救急車を呼んで、救急隊員にも対応してくれた。


「飲みすぎて寝ないようにしてくださいね。今日は私の車じゃないのでお送りできませんよ」

「大丈夫大丈夫、妻が来ますから」


 教頭は白髪混じりの頭を掻きながら、賑やかな声のする扉を開いてあの空間に分け入ってしまった。もう一度扉が閉まって、廊下で一人になった大森は眉間のあたりを強張らせてこめかみを指で抑えた。頭痛があるわけでも、めまいがするわけでもなかった。

 古びた女性用トイレの洗面台に立ったとき、大森は鏡に映った自分の顔を見て暗い気持ちになった。幸恵の家に赴く前には気にならなかったのに、今や隠しきれない隈がでていたし心なしか頬もやつれているようだった。何より、肌の血色があまりよくないように感じる。


 大森にとって、いち早く家に帰って寝ることだけが望みだった。しかし真理子の用事が終わるまでは、もう少しだけ愛想を振りまかなければならない。蛇口をひねって指を水にくぐらせる。心地よい冷たさが4本の指に絡んで、大森はその心地よさを広げようと手首までを水ですすいだ。


 大森はポーチからハンドタオルを取り出す。ハンドタオルには石を運んだときの砂混じりの黒い跡が付いていた。それが内側になるように丸めて、タオルの先に冷たい水を吸わせる。

 後ろに留めていた髪を左手で持って、濡れたタオルを襟首にあてがった。期待したほどではなかったが、大森の脳にあと1時間の努力をさせるための言い訳めいた対処療法にはなるかもしれなかった。


 目を閉じていた大森は、不意に異臭を感じた。


 焦げ臭いような、あるいは刺激の強い化学薬品のような鼻を突く匂い。とっさに目を開き、左右を確かめた大森の目にはしかし、異臭の原因と思われるものは何も映らなかった。


 大森の脳裏に鉱毒の2文字が浮かんだ。水道水を手で掬い、鼻を寄せた。それらしい匂いは何一つ感じられない。鉱毒が流出したとしても、水道水が汚染されるのは最終的な段階であって、はじめに川の汚染からはじまるはずだった。

 大森は次には匂いの原因に思い至った。右手に持っていたハンドタオルを恐る恐る広げると、内側には黒い砂の痕が残っていた。いま水を染み込ませて、その痕はかすかに滲んでいる。

 恐る恐るハンドタオルを鼻に近づけると、大森の嗅覚をこれまでに経験したことのない刺激臭が貫いた。大森は反射的に腕を伸ばして距離をとった。

 それはアンモニアや硫黄といった経験のある匂いのいずれとも異なっていた。思わず顔にシワを寄せてしまうような不愉快な匂いは、大森の想像する限りどこかの化学実験室で作られたものとしか考えようがなかった。


「あれ? ここにいたの?」


 大森は突然の声に体を強張らせてしまった。つい引きつけてしまった腕の先で、広げたままのハンドタオルから例の異臭が鼻先にかすかに漂った。

 振り返って真理子の姿を確認して、大森はもう一度腕を伸ばす。


「どうしたのそれ?」


 大森の奇妙な姿勢を笑いながら尋ねた真理子に、大森は事情を説明した。塀の石を動かしたときに手を拭いたタオルから妙な匂いがするという話は、しかし真理子にとってはどちらかといえば笑い話だった。実際に匂いを嗅いでみても、真理子はわざとらしく苦しむふりをしてから、ひとしきり笑った。


「雷っぽかったし、なんか焼けて変なのができてたんじゃない?」

「そのジーンズ、たぶん同じ匂いするよ」


 大森の言葉を聞いて、真理子はようやく自分の身にも同じ異臭トラブルが生じていることに気がついた。真理子は慌てて片膝をあげて上体を曲げて腿のあたりの匂いを確かめようとして、よろけて洗面台に手をついた。

 それからもう一度同じことを試みて顔を上げた真理子の口は綺麗なへの字を描いて、眉間には皺が寄り放題寄っていた。まだ肩腿を上げたままそれをもう片方の手で支えていた真理子の渾身の表情に、大森はようやくこのトラブルを笑う気になった。


「これ水で落ちないの? っていうか洗剤で洗っていい物質なの?」


 真理子がそう尋ねるのも不思議ではなかった。明らかに日常生活で出会わない奇妙な匂いは、毒物とか有害物質という呼び名があまりにふさわしかった。

 大森はハンドタオルをもう一度見て、水で汚れがにじんでいたことを思い出した。すっかり出しっぱなしにしてしまっていた水道水にハンドタオルをもう一度当て、汚れの滲みを軽く揉んだ。何度かそうしているうちに、透明だった流水に一瞬だけ黒い汚れが落ちて、流し台に沿って排水口に流れ去った。

 ハンドタオルを広げると、砂の薄茶色の汚れがわずかに残っている他は、黒い汚れは見当たらなかった。おそるおそる自分の鼻を寄せようとして、大森は不意にそのタオルを真理子の顔に押しやった。


「わっ!」


 真理子は大きく顔をのけぞらせたが、何かに気づいたのか恐る恐るハンドタオルに顔を近づけ、鼻を何度かひくつかせた。


「なくなってるなくなってる」


 真理子の言葉に嘘はなさそうだった。大森は自分でもハンドタオルの匂いを確かめたが、もはやあの刺激臭は感じられなかった。


「じゃあ水で落ちるみたい。よく水洗いしてからなら洗濯も問題ないんじゃない?」


 大森のその言葉に、真理子は全く別のことを言った。


「そろそろ帰ろっか。一応用事は済んだし言い訳もしといたよ。あと、私もこれ洗わないといけないし」

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