目眩

 日はすでに沈んでいた。ヘッドライトで照らされた夜道には、変わらず雨の雫が白い光をチラつかせている。大森は気だるげに動くワイパーの動きに合わせて心で数を数えていた。


「あ、ほんとだ、いるじゃん奥さん」


 堀越の家の前を通るとき、真理子はそう口にした。雨水に歪むフロントガラスの先に、カーテンを閉めていない窓際に蛍光灯を背にした人影が立っているのが見えた。その姿はすぐ車の後ろに流れ去ってしまう。

 大森は何も答えずに瞼を下ろして、眩暈に身を委ねていた。心労に低気圧と奇妙な匂いが重なって、大森はただ眠りたいということしか考えられなくなっていた。明日からまた子供達と学校生活を過ごさなければならない。それは大森にとって楽しい時間でもあったが、体力が必要なことに変わりはなかった。


「付き合わせてごめんね。まぁでも、これで体面も保てたと思えばさ」


 真理子のよくわからない言い訳に生返事をしながら、大森は明日の授業スケジュールに頭を巡らせていた。算数・国語・図画工作・図画工作、午後には上級生の理科がある。少人数ゆえ学年をまたいだ合同クラスの大森の教室では、かけ算と割り算を一緒に教えなければならなかった。


「はい、お疲れ様。また何かあったら付き合ってよ」


 減速の慣性力を感じて、大森はまどろみかけていた目を開いた。


「今度はちゃんと前もって連絡してよ」

「今日もしてた」

「じゃあ返事がなかったらノーってことで」

「否定疑問文で送るね」


 大森は肩をすくめて、息を一つ吐いてみせる。傘をとって留め金を外し、扉を開くと、雨水が手の甲に冷たく滴った。


「じゃ、おやすみ」



 ◇◇◇◇



『L県中部に激しい雨雲が形成されており、1時間に100ミリを超える激しい雨が……』


 テレビに映し出された雨雲レーダーが、コマ送りでH村近辺に真っ赤なモザイクを作り出した。天気予報士は指示棒で画面を何度か叩くと、気の抜けたアニメーションの傘をL県に貼り付けて、真面目な顔で注意を促して一礼する。


 大森はテレビを消して、念願のベッドの柔らかさに倒れこんだ。目を閉じると、ただ雨の音がざわざわとあたりを包んでいる。


「途中ですごい雨が降るから、おやすみになるよ」


 前田陸の純朴な瞳と、その口から発された他愛もない予言が想起された。大森はまどろむ頭で1週間の計画を巡らせた。

 もし2日や3日も激しい雨が降り続けば、実際児童は自宅待機としたほうがいいかもしれない。学校で1日電話番をして過ごすとき、時間を潰せる本があっただろうか。体育館での体育はまたマット運動だと不満がでるだろうか……


 ふと、光を背にした人影を思い出した。


 窓の内側で両手を垂らして、その影は大森を見つめている。右前にあった人影は、ゆっくりと右手に流れ、そして後ろへと消えていく。それは帰り道で見た堀越夫人の姿に違いなかった。大森はいつか読んだホラー小説だかミステリー小説の一場面みたいだと小さく笑った。

 ミステリー小説ならば、人影がわざわざ姿を見せたのは、「お前を見ているぞ」というメッセージを伝えるために違いなかった。逆光ならば真犯人の顔を描かずに、真犯人の存在を物理的な人間として描写できる。


「でも外が暗いときの窓って、自分が映るでしょ」


 大森は疲れたときにこの声を思い出してしまう自分が恥ずかしくなって、誰が見ているわけでもないのに枕に顔半分を隠して笑った。笑いながら、それが幸恵の家でミステリーのドラマスペシャルを見ていたときだったと大森は思い出した。

 斜向かいのソファに座って缶ビールを煽った俊樹は、演出のためのその描写にいちいちケチをつけた。


「別にいいでしょ、怖いから」


 大森がそう言うと、俊樹は画面から目を離し、大森に目を向けた。


「見ているぞ! ってやるなら、こうやって光を切らないと」


 言いながら、俊樹は両手で眉のあたりを覆ってみせた。


 それは、震災以前にあった穏やかな日常の一幕だった。俊樹は今、彼の姉の遺体を探すために東北に向かい、まだ帰っていない。そのままボランティアに参加しているのか、それともまだ遺体が見つかっていないのか。すっかり様子の変わってしまった幸恵の家では、それを口に出して尋ねることも難しかった。


「黒い水が来る」


 前田陸の怯えた声が全てを物語っていた。テレビ越しに何度となく映し出された恐ろしい津波の映像。その一つを自分の目で見た前田陸がどれほどの衝撃を受けたのかは、もはや想像を絶していた。ともすれば、それは彼の友達を目の前で飲み込んだのかもしれなかった。あるいは、両親を。

 豪雨がこの街で続けば、鉱毒で禿げ上がった山が土砂崩れを引き起こすかもしれない。もしそれが川を堰き止めれば、この村にも黒い水がなだれ込む危険性は十分にある。前田陸の“おかしな”言葉が予言とはとても思えなかったが、彼がいわゆる“霊感”めいた何かの持ち主であるとは、大森も信じつつあった。


 大森は一つ息をついた。どれほど不安に思いを巡らせても、自分にはその一つも解消することはできなかった。あの名前も忘れてしまった老議員や、消防団や自衛隊がすべてに対処するに違いない。いま自分がするべきことは、明日からの授業に向けて眠ることだけだった。


 大森は様々な雑念を頭から払いのけて、もう一度雨音に耳をすませた。雨が屋根と大地を打ち、さらさらと音を立てている。体が沈むような目眩の中で、大森はしだいにその意識を眠りの中に沈めていくのだった。


 もはやその耳には、雨音に混じって唸った救急車のサイレンは届いていなかった。

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