闇の侵襲 2011年6月13日

滲出

 スマートフォンから自然音が不自然な音量で鳴って、大森は画面も見ずに親指を走らせてその耳障りな音を止めた。それからもう一度耳障りな音が鳴って、5分が経ったという事実を大森に殴りつけた。


 それでようやく大森は肘をついてその画面を覗き込んだ。SNSには毒にも薬にもならない雑然とした会話が溜まっていて、少し目を走らせるだけで嫌になってホームボタンに手が伸びた。翻ってニュースフィードを見れば、これまでの3ヶ月となんら変わることなく、原発と電力の文字が居座っていた。


 昨日から降り続いている雨のおかげか、どちらかといえば肌寒いほどだった。大森は二日前に買っていた食パンを袋から取り出して、オーブンレンジに放る。カーテンを開け、テレビの電源を入れて、沈黙していた部屋に朝を流し込んだ。


 ヘアバンドをつけて洗面所で顔を洗い、化粧水と乳液で整える。台所でオーブンレンジが文句を言って、休む暇もなくトーストを取り出しに向かう。しかしレンジの扉だけ開けておいて、先に冷蔵庫からバターと牛乳を取り出して、肘でその扉を小突いて閉める。平らな丸皿を取り出して、トーストの端を恐る恐る持って移し替えると、すぐにテーブルにそれを置く。最後にコップを1つと3本はあるバターナイフのうち食器棚に戻っていた最後の1本を取り出して、テーブルに座った。


『……次々と課題が明らかになっているのですが、一方で首相は退陣を表明していて、この災害への対応を次の代表にゆずるという……』

『前代未聞の大災害ですからね。対応できる人などいないでしょう。ただ……』


 テレビの解説員もまた、この3ヶ月同じ話題について語り続けていた。この間に取り上げられた他のニュースで記憶に残っているものなど、テロリストの射殺と数億円の強盗事件くらいのものだ。その他の話題を扱っていた記者やコメンテイターの仕事はすっかりなくなってしまったのではなかろうか。それとも、うまく震災と結びつけて仕事を確保しているのだろうか。


 トーストの品のいい歯ざわりとバターの風味は、そうした一瞬の雑念を払うには十分だった。大森はおいしいと独り言をこぼして、牛乳を一口飲む。レースカーテンの向こうで雨音がひっそりと存在を主張していた。


 またスマートフォンが洗練された振動でメッセージの受信を知らせた。視線だけをテーブルの隅に向けると、その画面には真理子の文字とメッセージの冒頭が表示されていた。


『おきた? 昨日の夜堀越さんの奥さんが救急車で』


 そこまで読んだところで、画面が暗くなる。大森もこの書き出しにはさすがにメッセージを読む気になり、左手にトーストを持ち替えてもう一度スマートフォンを起動させる。


『おきた? 昨日の夜堀越さんの奥さんが救急車で運ばれたっぽくて、警察も来てたっぽい。帰りに見たって件とかは私から警察に伝えとくけどそっちにも聞きに来るかもだから』


 大森は眉を顰めた。壊れていた石塀に奇妙な匂いのする泥、そして窓際に立っていた逆光の人影、そして救急車から警察……。頭を誰かに引っ張られるような目眩に頭を抱えた後、大森は自分の想像するようなことは何も起こっていないと言い聞かせた。


 ようやくアナウンサーが淡々とニュース原稿を読み上げる声がもう一度耳に入り、大森は電源ボタンの放つ赤外線をリモコンを突き出して叩きつけた。雨音に混じって、冷蔵庫が唸るかすかな音が耳に侵入する。いつの間にか、トーストは丸皿の上に置かれ、大森の両手がスマートフォンにメッセージを打ち込んでいた。


『堀越さんの奥さんに何かあったの?』


 それだけを入力して送信ボタンを押し、画面に吹き出しを一つポップアップさせる。早朝から車を運転して仕入れに向かう都合、真理子がすぐにそれを読むとは考えにくい。それでも、大森は牛乳を口に運んでは画面を確認し、トーストをぼんやりと噛んでは画面を確認した。

 それでも真理子の応答がないとわかったとき、大森はやっておくべきことに思い至った。慌ててスマートフォンを取って電話帳を操作すると、教頭に電話を入れた。コール音が2回鳴っただけで、教頭は応答した。


「先生、ちょうどよかった」


 電話を取るなり教頭はそう言った。大森は自分の判断が間違っていなかったことを確信した。


「友人から堀越さんのお宅に警察が行った件を聞きまして……」


 そう切り出した大森が言い終わるより先に、教頭が言葉を続けた。


「警察側から先ほど念のため注意をという連絡が来ましたので、保護者に送り迎えをお願いしようと思います。遠い子はもう出ちゃうかもしれませんので、すぐに連絡お願いできますか?」


「わかりました。出勤も急いで正門前に出ますね」

「お願いします」


 大森は最後のひと切れになっていたトーストを放り投げると、牛乳を流し込んで無理矢理に吞み下す。咀嚼しきっていないトーストの硬い生地が食道に鈍く異物感を与えた。

 登校時間が早い子を考え、順に電話をかける。用件を伝えるとすぐに断って通話を落とし、次の保護者に連絡を入れた。メーリングリストを使うべきかもしれなかったが、朝の忙しさに見落とされたとき、もしものことがあっては取り返しがつかなかった。


「もしもし? 昨晩警察が扱う事件があったようで、児童の登校には念のため注意をとの指示がありましたので、送り迎えをお願いできますか?」


 そうした慌ただしい電話の最後は、すぐ隣の幸恵の家だった。この事態を受けても、幸恵は変わらぬ落ち着いた調子で応じた。


「ええ、そうしようかと思っていたところでした。帰りは何時頃になりますか?」


「2時には終わりますけど、働いていらっしゃる保護者のために夕方まではこちらで預かろうかと思います」


 本来なら許された業務ではなかったが、こういうときだけは田舎村の柔軟さを活用するより他になかった。集団で下校させるにはこの村の校区は広大で、山あいの地区に住む児童の家はあまりに散らばっている。教員が引率するにも、とても少人数でそれを実行できるとは思われなかった。


「わかりました。2時には伺おうと思います」

「よろしくお願いします」


 それだけの短い挨拶をかわして、大森はようやくその慌ただしい作業を終えた。スマートフォンの発熱に電池切れを予感して、大森はベッドから充電器を取ってカバンの上に放っておいた。

 クローゼットに掛けておいたブラウスに着替えて、洗面所で歯ブラシと歯磨きのチューブを小さなポーチに入れ、ゴムで髪を適当に一つに束ねる。手に当たったシュシュを手首につけながら、化粧ポーチをカバンに移す。

 部屋を出ようとして振り返ると、食器がテーブルに放ったままになっている。一度それを無視して体を玄関に向けたものの、思い直して急ぎ足で洗い場に運び、適当に水に浸して家を出た。


 ハンドルを握った大森は、こうした慌ただしさが決して今日に限ったことではないと考えていた。ちょうど震災の日はこれ以上の慌ただしさが昼過ぎに突然襲ってきたし、そうでなくとも以前の赴任地で不審者騒ぎは経験していた。

 それでも、堀越の家の前を通るとき、赤い棒を持った警察官に車を止められてみると、大森はハンドルの持ち方にさえ違和感を抱くほど動揺した。迂回路を指示されて、大森はほとんど無意識にギアを切り替えて車を反転させる。視界の隅では、メジャーを持った濃紺の雨合羽が3人で、崩れた石塀の破片の間の距離を測って何かを話している。


 バックミラーの中央で、雨水のモザイクに消えていくそれらの景色に、大森は昨夜あの家の窓際に立っていた、黒い人影を思い出していた。

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