子供達の時間

 電話対応に追われていた教頭も、結局のところ堀越の家で何が起こったのかは知らなかった。堀越夫婦の現在の安否ですら、情報が錯綜して判然とせずじまいだったのだ。


「まぁ今日の夕方までにはわかるでしょうし、今は子供達のことに集中しましょうか」


 教頭はいつもの締まらない調子でそう言って、朝礼を結んだ。履きなれないスリッパが落ちないように指先に力を入れてから、組んだ足を解いて大森は立ち上がる。慌てていたとはいえ、替えの靴下を持ってこなかったのはひどい失策だった。


 スマートフォンを取り出すと、真理子からメッセージが届いていた。


『奥さんが運ばれて、堀越さんもなんか怪我したんだって。何があったのかは全然わかんない。お客さんからほんとっぽい話聞けたら教えるね』

『ありがと。こっちも何かわかったら連絡する』


 こういうとき、子供達は異常をすぐに感じ取る。前田陸がそうであったように、繊細な感受性は大人にとって都合のいいように目を閉ざしてはくれないのだ。だからこそ、子供達に説明する言葉を用意しておかなければならない。彼ら彼女らが最も信用し、家庭以外の世界の全てを代表する存在と認識しているのが、教師なのだ。

 廊下にいても聞こえてくる児童たちの賑やかな声は、大森が教室に差し掛かるとすぐに収まった。窓越しに、前田陸が席について両手を椅子についている背中を確認する。


「おはようございます。みんなしっかりおやすみできましたか?」


 教室にはわずかに5人の生徒がいて、それぞれに元気の良い返事をする。前田陸の声はいつものように小さいが、大森にとってそれは特別気にするべきことではなかった。


「今日はぜんぶの授業が終わった後、みんなのお家の人にお迎えに来てもらいます。警察、お巡りさんからのお願いだから、みんな忘れないようにしてください。いいですか?」


「はぁい!」


 子供達はこれといって疑問を口にすることもなく、溌剌はつらつとした声で応じた。今度は前田陸だけは返事をしなかった。何か思うところがあるのだろう。もし必要を感じれば、彼は後で直接尋ねてくるはずだった。

 大森は今週の生活目標や給食当番の話をして、日直に挨拶を促す。毎日繰り返してきたそのやりとりも、大森を本当の意味で落ち着かせることはなかった。


 大森が抱いていたのは、何か悪いことが起ころうとしているという予感だった。黒板脇の教卓に座って授業の準備をする間にも、脳裏にあの人影が浮かんだ。眠気の中で見たあの人影は、果たして本当に堀越夫人のものだったのだろうか。それとも、あの家に入り込んだ悪意の第三者のものだったのだろうか。


「先生、『生活のきろく』です」


 教科書に手をかけて動きを止めていた大森に、日直の理央りおが5冊の日記帳を差し出した。大森はお礼を言ってそれを受け取る。休み時間にそのチェックをするのが大森の習慣だった。


理央りおちゃんは日記は何書いたの?」

「おうちでママとホットケーキ作った!」

「へー、ホットケーキか。おいしそう!」

「おいしかったよ! えっとね、おっきいのにね、たまごとね、牛乳をね……」


 一生懸命に自らの体験を語る様子を大森は微笑ましく見つめていた。しかし、強い光とともにあの唸るような轟音がして、理央は全身を強張らせて耳を塞いだ。


「雷だ。大雨になるみたいだからね」

「こわいーっ」

「大丈夫大丈夫、学校に落ちても大丈夫なようになってるんだよ」

「でもこわいもん」

「じゃ、授業始めようか」


 もう一度雷鳴が聞こえたが、大森はまったく動揺しなかった。たしかにその音は村全体を揺らすように轟いていたが、それでも大森の身やこの学校を脅かすことはありえなかった。それは一瞬輝いて、人々に恐怖を感じさせ、そして忘れ去られていくものに違いなかった。



◇◇◇◇◇



 2限目を終えて、大森は教卓に残していた『生活のきろく』を開いた。それは日記と学習帳が一体になった教育用の冊子で、漢字練習と計算練習と日記とが見開き1ページに綺麗に収まっている。

 大森はたった5冊しかない『生活のきろく』に毎日目を通し、綺麗なハナマルとコメントをプレゼントしてあげている。話に聞いた通り、理央りおの日記にはホットケーキの話が書かれていたし、別の児童の日記には兄弟と遊んだ話が書かれていた。低学年の日記はしばしば支離滅裂だが、それもまた微笑ましいものだった。


 しかしこの日、前田陸の日記には何も書かれていなかった。大森ははじめページを間違えたのかと思った。しかし漢字と計算だけはしっかり済まされている紙面からは、むしろ陸が意図的にそうしたようにも感じさせた。

 大森は手を止めて、顔を上げた。そこには前田陸がいるはずだった。しかし教卓から教室を見渡しても、彼の姿はどこにも見当たらなかった。視線を白紙の日記に落とした大森は、それでも大きなハナマルを描いた。陸は日記をうっかり忘れてしまうような生徒ではなかったし、この数日前に奇妙な幻覚を見て倒れたというのだから、日記が書きにくかったとしても不思議ではなかった。


 ハナマルを描いた大森は、ページに刻まれたわずかな凹凸に気がついた。白紙のページに刻まれたその凹凸は、何かの文字のようだった。何かを書きかけて消したのかもしれない。

 大森はもう一度教室を見渡して、陸がいないことを確かめたあと、薄い鉛筆を取り出して紙面を軽く撫でた。すぐに文字が浮かび上がり始めた。


『またこわいゆめを見ました。よる、おばあちゃんちでへんなにおいがして、おばあちゃんがにげてといったから、ぼくはくらい森ではしり』


 幼い字でそう書かれている。しかしそれで書くのをやめて消してしまったようだった。大森は薄い鉛筆の痕をもう一度消して、何気無いコメントを書くことにした。日曜日のお礼と元気に登校してくれたことへの感謝を書いて、冊子を閉じる。ちょうど3限目の始業のチャイムが鳴ったところだった。


「はい、じゃあみんな、図工です。絵の具の用意はできましたか?」


 立ち上がって手を打つと、すぐに生徒たちは着席する。すでに水を入れた小さなバケツとパレットを広げて目を輝かせていた。しかし前田陸の姿だけが見えなかった。


「陸くんは?」

「水道のところにいました」


 大森が廊下に出て水道を確かめると、前田陸は腰をかがめてじっと蛇口から流れ落ちる水を見つめていた。こういう振る舞いをする子をこれまで受け持ったことがなかった大森にとって、陸のこうした仕草のひとつひとつが奇妙でどきりとさせられるものだった。


「どうしたの?」

「先生、水は下に落ちるよね」


 前田陸は蛇口から流れ続ける水を見つめて尋ねた。IQの高い陸が万有引力の法則に気づいたのかもしれないなどという考えが頭をよぎったが、大森はひとまずそうだねと返事をして、続きを促した。

 しかし前田陸はじっと水を見つめたまま、口を開かなかった。しばらくすると、手を伸ばして蛇口をひねり、水を止めた。前田陸の小さな水入れには水がなみなみ入ってしまっていた。


「行こうか、みんなも待ってるよ」

「うん」


 慎重に水を流してもなお、陸にとってそれを運ぶのは難しいようだった。小さなバケツを両手で大切そうに抱えて、陸は慎重に歩き始めた。

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