狂闇の侵襲

「堀越さんと同じですね」


 病室のベッドに寝かされるのは、大森にとって初めての経験だった。本来入院病棟を持たない須藤内科にあって、診察室の一つが仮設の病室になっていた。とはいっても、そこは病院でしか見かけないあの白い幕の衝立で区切られているばかりで、だからこそ、鼻にアルコールの匂いが刺さってとても落ち着けたものではなかった。


「貴子さんも同じような症状だったと聞いています。ですが、その前に一度ひどく暴れたとも聞きますね。堀越さんはこの辺りに怪我を」


 須藤医師は左目の上を中指で軽く撫でた。


 立て続けに奇怪な事件で死者が出たというのに、警察の反応は冷淡だった。サイレンに駆けつけたのはあの頼りない米森巡査で、それに続いて現れたのも救急車ではなく、須藤医師だった。


 須藤医師に肩を支えられて戻った車では、すでに通話が切られていた。病院に同行すると言った手前エンジンをかけなければならなかったが、もはや大森にはその気力も残されていなかった。


 看護師とともに真理子を運び終えた須藤医師がそのことに気づき、こうして病室まで運んでもらっていた。


「街の病院や警察はなんでこないんですか?」


「難しい事情があります。鉱毒関連ではないかという疑いがでているんです。警察や消防が動けば大倉鉱業に不利になりますから……」


 100年も前の事件でと声を張る力は、大森には残されていなかった。大森はその理不尽な事情をただ目をつむって怒りとともに受け止めた。親友の真理子がそうした不条理の前に死亡した今、大森は堀越と同じように生涯をかけて争うことになるのかもしれないと予感していた。


「あの黒い水ってなんなんですか?」


「大森さん、医者にもわからないことはあります。体内で急に毒が回ったのか……」


 須藤医師はいくつかの考えを述べたが、大森にはその全てが間違っているように思われた。流れ去った黒い水は血液のような粘性もないどころか、滲みてもいなかった。


「『きたかも』って……」


 医学用語を含めた解説を遮って、大森は真理子からの最後のメッセージを反芻した。須藤医師のいう体内の毒素が原因だとすれば、その言葉には違和感があった。

 真理子の省略した言葉はきっとこうだ。『あの匂いがきたかもしれない』。それは意志を持って迫り来るに違いない。


「どうかしましたか?」


「真理子が最後に送ってきたんです。『きたかも』って」


 何かを見落としている気がした。大森は真理子に毒を注入したの正体が、もうあと数歩のところまで見えていると直感していた。しかし目をつむって考えようとしてみても、大森の瞼の裏には苦しんでのたうちまわる真理子の黒ずんだ顔しか浮かばなかった。


「先生は獣害だと思いますか?」


 目をつむったまま、真理子は尋ねた。昨晩と同じように、頭を下にして釣りさ上げられているような目眩めまいを覚えていた。


「いえ、まったく」


 その返事はむしろ大森を安心させた。真理子を失って、自分だけが警察に疑問を抱く人間になってしまったと思っていた。


「巡査は病死って言ってましたけど、先生はどう思います?」


 大森は瞼だけを開いて、白地に黒の線がところどころに入った不可解なデザインの天井を見つめて口にする。


「遺体の状態だけを見れば、むしろ寄生虫か何かが体内で暴れまわったあとと言った方が良さそうです」


「寄生虫……?」


 大森はその言葉にようやく体を起こした。それでも、後頭部を引き倒されるような重さを感じていた。


「はい。内臓の損傷がひどいんです。筋肉も……おそらくそれが痙攣の原因だと思いますが……」


「じゃあ真理子は、何かに食べられたっていうんですか!?」


 そう言ってはじめて、大森は自分の中にまだこんな声をあげる気力が残されていたのかと驚いた。


「しかし体には何も残っていなくて……出ていったのか、自死するタイプの生物なのか、あるいはただの化学物質なのか……」


 しかし大森が目にしたのは身体中から流れ出した黒い水だけだった。粘性もなく、浸透することもないあのさらさらとした奇妙な冷たい水だけだった。


——黒い水が来る


 前田陸の言葉には、間違いなく真理子と同じ動詞が使われていた。


「黒い水が……!」


 大森はかけられていたブランケットを払いのけて、今度は足をベッドから下ろして須藤医師に相対した。


「先生、ですよ。もし!」


 大森はどこから説明したら良いのかわからなかったが、自分が気づいた真相こそが、この事件の本当の姿だと確信していた。


「黒い水が自分で動いているんだったら、あの黒い水そのものが毒で、生きているんだったら!」


 しかし目の前の須藤医師の表情は想像したものとは全く違っていた。困ったような、哀れむような表情で大森を見つめ、少しの逡巡の後、大森の両肩に手をおいた。


「大森さん、そう考えればたしかに合点がいきます。私の方でも調べておきますよ。ただ、大森さんは少し休んだ方がいい。ここじゃ匂いがするかもしれませんが、少し我慢してください。人目のあるところで休んだ方がいいと思います」


 その言葉には力強さがなかった。大森の方では同意に喜びを感じていたが、むしろ須藤の方では大森に錯乱を見ていた。だから大森の意見に同意したというよりは、その錯乱を医者として治療するための言葉に過ぎなかった。


 須藤がそう判断したのも無理のないことだった。大森を落ち着けて再びベッドに寝させたあと、調剤室で待っていた看護師に対して、須藤は率直な驚きを口にした。


「あの少年と同じことを言ったよ」

「水が自分で動くって話ですか?」

「ああ。巡査にも伝えておかないとな。鉱毒よりパニックの方が怖い」


 須藤は今回の事件も鉱毒に関わっていると考えていた。この村で開業して長い須藤には、この村で鉱毒の二文字が持つ意味は嫌という程わかっていた。

 その得体の知れない恐怖が初めに牙をむいたのが、よりにもよって急進派の堀越の家だった。そして次には鉱山の近くに住む若い女性が犠牲になった。この無差別的で突発的な死を生み出す病の原因を巡って、村民たちがあらぬ推測を立てるのは目に見えている。


 少なくとも、黒い水が意志を持って動いているなどという空想めいた話で、村人たちが恐慌におちいれば、証拠などなくとも大倉鉱業が矢面に立たされる。そうなったときに起こることは、もはや医師としての須藤の手には負えるはずもなかった。


 そうした恐慌の引き金を握っていたのは、ほかならぬ大森であった。今はただベッドの上で眠れるわけもなく瞼を見開いたまま、去来する様々のイメージに吐き気を催すほどの酔いを覚えていた。


「黒い水だったんだよ、真理子……」


 大森はあのとき指先についた冷たい黒ずんだ水を思い出し、ベッドの上でその指先を見つめながら、静かにこすり合わせていた。

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