暗闇の瞳
それから3時間は、大森の神経は妙に昂ぶっていた。ベッドに寝ていても目を見開いては指先をすり合わせ、先生先生と須藤を呼ぶと、黒い水が動くのだと白衣にすがった。
しかし須藤医師がそれを取り合うことはなかった。須藤医師が何か真理子の死亡診断書と遺体の引取先について議論する声は大森の耳にも入っていた。だから取り合わないのも仕方のないことと納得させようとしたが、なおも不満を抱いていた。
大森がその3時間に考えていたことといえば、すぐに病院を出て、この危機を人々に知らせるべきだということだった。しかし大森が起き上がれば、すぐに看護師か須藤のどちらかが両肩を抑え、ベッドに寝かされた。
つまり、今の大森には理性の輝きの多くが失われていたのだ。
だから心身共に疲労しきった大森の体が睡眠を命じたことは、彼女にとって幸いだったと言える。
大森が目覚めたとき、彼女はしばらくぶりに雨の音を意識した。
薄ぼんやりした街灯の明かりが
「……水が動くわけない」
大森はベッドを降りた。口が乾ききってしまっている。
夜になったとはいえ、大森を寝かせている都合、どこかに須藤医師がいるはずだ。大森は声を出してみるが、須藤の応答はなかった。
やむなく自分の知る待合室のウォーターサーバーへ足を伸ばす。6月とはいえ、病院のリノリウムの床は冷たい。扉を開けると、廊下は一層薄暗かった。
大森はコップを一つつまんで、ウォーターサーバーから水を受ける。
コップに溜まったのは、澄み切った透明の水だった。
大森には、喉が乾くということが、ひどく自分勝手なことのように思われた。
親友の死という事態を前にして、他にもっとするべきことや取るべき態度があるはずだという声が大森の胸のあたりで広がって、キリキリと痛みを発する。
——もしあのとき信号で止まらなかったら? もし怯えずにもう少し早く奥まで走っていけたら? もしあとほんの5分だけメッセージのやり取りを続けていたら?
大森にとって、事件が鉱毒や黒い水の仕業であるはずがなかった。
むしろその真ん中には、危機意識が低く臆病で決断力のない愚かな自分が醜い姿で立ち尽くしていた。
生の渇望に任せて水を口に含むことは、大森にとってその愚かさを受け入れることに他ならなかったのだ。
大森は一度大きな息をついて、思い切りコップの水を飲んだ。水の冷たさが食道を抜け、熱を持った神経が冷まされるのを感じた。
「真理子……私頑張るから」
暗闇の中でそうこぼすと、紙コップをくずかごに放る。
目をあげると、ウォーターサーバーの水が沸き立つように泡を発していた。
「うそ……」
大森は胸を押さえながら後退る。
沸き立つ水は瞬く間に黒く染まった。
大森の脚は力を失った。待合室の椅子に背が当たって、ようやく大森はそれを支えに立ち上がった。黒い液体は水かさを増し、サーバーの蓋を押しのけて待合室に溢れ始める。
大森は声を上げて叫ぼうとした。しかし喉の奥で何かが喉を圧迫している。かろうじて擦るような息を上げながら、ようやく受付にあったベルを叩く。
しかしベルは大森の思うような音をあげなかった。ただそれは拳に握りしめた鈴のようにカタカタと震えるような音を鳴らすばかりだった。
今や黒い水は大森の足首を飲み込んでいる。黒い水に押さえつけられた脚は、もはや動かすこともできなかった。なんとか受付によじ登ろうとすると、その先の扉が開き、強い光が大森を照らした。
大森は机を叩いて助けを乞うた。しかし大森が扉と思ったものは、決して扉などではなかった。
輝く壁面は
大森の目には、それはまるで大きな猫の目のようにも映っていた。
肩を何かに激しく叩かれた。
大森の体はベッドの上にあった。
「大丈夫ですか?」
そう言って覗き込む須藤医師の背後に、天井灯が眩しかった。夢で見た猫の目の正体がすぐに知れた。
「ごめんなさい、ひどい夢を……」
「よかった、なにかの発作かと思いましたよ」
須藤は息をついて丸椅子にどさりと身を落とした。
「そんなにうなされてましたか?」
「ええ、息苦しそうでした。……しかし大森さん、少し落ち着いたようですね」
須藤は大森のたった一言で、精神状況の変化を
「みたいです。さっきはすみません、動転していて……」
自分の錯乱をようやく理解して、大森は恥ずかしさに顔を手で覆った。大森は自分がひどく考えすぎる性格をしているとは自覚していたが、ここまで取り乱したのは初めてだった。
「いま何時ですか?」
「もう12時を回ったところですかね。警報も発令されたようですし、今夜は……」
言った先から窓が光り、ほとんど間をおかずに爆発的な雷鳴が窓を揺らした。
「出ない方がいいと思いますよ」
須藤もあまりの雷鳴に苦笑いする。
「幸いここなら水も電気も大丈夫です。まあウォーターサーバーの中の分しかありませんけどね。……飲みますか?」
大森は頷いた。水を取りに行く須藤の背中に、大森は洗面所の場所を尋ねた。何よりも、崩れきったに違いない化粧を落としてしまいたかった。
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