崩落のはじまり 2011年6月14日
雨は我が物顔で人々を濡らす
ようやく空が薄ぼんやりと白んでも、滝のような雨音は続いていた。
大森がその日帰らなかったのには、もうひとつの事情があった。大森の車は真理子の店の前に停めたままだったのだ。もし須藤の手を煩わせることなく帰れたなら、大森は帰宅していただろう。豪雨の深夜0時に他人を乗せて、街灯もない田舎道を走るなど、神経をひどく消耗するのは目に見えていた。
「土砂災害の何かがでたらしいですよ」
隣り合う自宅から屋根伝いに現れたにも関わらず、そう言う須藤の肩は濡れていた。
「警戒情報ですね。すみませんが、車までお願いしていいですか?」
すでに大森が仮設ベッドを片付けていたことに、須藤は少なからず驚きの表情を見せていた。
「まさか出勤するんですか? 昨日の今日で」
「はい。こういうときに私がしっかりしていないと、子供たちが不安がります」
大森の空元気は須藤には見え透いていた。須藤は指に通していた鍵束を一度くるりと回すと、自動車の鍵を選ぶ。
「医者としては、心の健康のためにきちんと休養をとる姿勢を見せるのも教育だとは思いますけどね……行きましょうか」
「お手数おかけします」
診療所の外は雨の底だった。ほんの数十メートル先の景色が雨の白に吸われて消え去っている。
「なんですかこれ」
「ひどいもんですよ。私も一式を持って体育館に詰めておくかもしれません」
須藤の差し出したビニール傘はあまりに頼りなかった。身をかがめて雨を抜け、傘をすぼめて助手席に乗り込むだけで、大森は頭から水を浴びせられたみたいに濡れてしまった。
「……お急ぎでしょうが、徐行でいきますね」
「はい、そうしてください」
フロントガラスはさながら水たまりの下から外を覗いたようなモザイクのスクリーンと化していた。ワイパーが左右に激しく走って、途切れ途切れの白んだ狭い景色が現れては
そうした途切れ途切れの景色の中、水量を増した濁った川がうねりをあげて駆け下る光景が大森の目に入った。
「川が……」
「増えてますか」
「溢れるほどはありませんけど、勢いが……」
「この辺りでは氾濫しませんよ。上流域なので、水が集まる下流域の方が危ないんです。14年くらい前だったかな、あの豪雨でも……」
須藤は過去の豪雨の話を始めた。そのときも山が崩れて家3軒が巻き込まれる被害がでたらしい。それでも川は氾濫しなかった。むしろ下流域の市街地が水に浸かったという。
そのとき中学生になっていた大森は、その映像を記憶していた。自分の家からほんの数キロの街が濁った黄土色の水に包まれた映像は、子供心に強い衝撃を受けたものだ。
しかしその映像に比べれば、同時に報道されていたはずの土砂災害の記憶は曖昧だった。台風のたびに報じられる日本のどこかの田舎で起こる土砂崩れの映像と重ねられてしまい、その中からたった一つの映像を探り出すのは難しかった。
アクセルが強く踏まれ、エンジン音が車内で苦しそうな声をあげた。真理子の家の前の坂は、大森の軽自動車だけではなく、多くの車を泣かせるものらしい。
「着きました。戸締りは米森さんがしてくださったそうですよ」
大森は真理子の家を見つめていた。古い作りのその家は、どことなく静けさを湛えていた。大森の胸のあたりに空虚な痛みが広がった。
「ありがとうございました」
バッグから鍵を取り出して、助手席に座ったまま頭を下げる。
「傘は今度……あ、体育館で返してください」
「そうですね、そうします」
大森は意を決して扉を開いた。大地を打ち鳴らす雨音に傘を突き出す。水でひたひたになった砂利の上に足をつくと、すかさず雨水が風に乗じて足首を濡らした。
大森は素早く助手席を降り、また身をかがめて運転席へ向かう。大森が両手でつかんだビニール傘を横目に、雨は我が物顔で大森にその身をぶつけてくる。
「シャワー浴びたい」
エンジンをかけながら自動車の時計を見て、大森はその余裕がないことはわかっていた。
大森は両手をハンドルにおいた。目をつむって一つ息を吸うと、力強く吐き出す。ワイパースイッチを弾き、確かめるように指を一本ずつ畳み、目を開いた。
「私も調べる。あれは普通じゃない。そうでしょ、真理子」
雨水に滲んだフロントガラスの向こうで沈黙する真理子の家へ、大森はそう決意を
警察や消防がどういうわけか大倉鉱業をかばおうと動かない今、大森にできることは自らの手で事件の真相を解き明かすことに他ならなかった。
「どうやってとか聞かないでよ」
聞こえた気がした真理子の声に応じながら、車は雨に包まれた村へ走り出した。
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