恐慌の予感
「先生!? 休んでもよかったのに……」
大森の出勤に教員は揃って驚いた。大森の親友が亡くなったという噂はすでに知られていて、大森がその第一発見者で通報者になったということも知られていた。
「雨ニモマケズ、ですよ」
大森の絞り出した笑顔は悲痛でさえあった。大森も親しい人々が揃って同情と心配の目を向けたことに、少なからず動揺していた。大森の強がりはそうした優しさをあえて遠ざけるためにあった。一晩でようやく作り出した心のか細い支柱では、
「昨晩から今朝がバタバタしていて遅れてしまったんですが、何か連絡事項がありますか?」
有無を言わさぬ態度でデスクに荷物を下ろすが、大森はなおも視線を感じていた。
「えっ、はい……中山理央ちゃんと、川崎奏太くんがしばらく欠席とのことです」
「しばらく?」
「はい。立て続けの獣害とこの雨で、村外避難とのことでした」
獣害。大森はその言葉を聞いて、村の人々が真実からひどく遠ざかったところに置き去りにされていたことをようやく思い出した。
「教頭。たぶんなんですけど、獣害じゃありません」
大森に集まっていた視線が、一つ前のめりになるのを感じた。
「動物の毛とかありませんでしたし、病気とか、発作とか……なにかそういう……」
「鉱毒だ」
大森が言い終わるより先に、同僚の一人が思わずそう口にした。その言葉は全くの思いつきに違いなかった。しかしそれより説得的な言葉を探すのは、大森を含む全員にとって難しかった。
教師たちの顔色は目に見えて青くなった。おもむろにカップを手にとって、給湯室に捨てに行く者もある。
「鉱毒かどうかはわかりません。ただ、噛まれてもいませんでしたし、動物ではなさそうで……」
「そのあたりにしておきましょう」
広がり始めた動揺に、教頭が歯止めをかける。
「推測でものを言うのは危険です。児童や保護者にもそのことは……」
「でも鉱毒だったら子供たちを助けられるのはいましかありませんよ! 水道水の飲用を止めさせるとか、警告を出すくらいはしてもいいじゃないですか!」
同僚の一人が立ち上がって声を荒らげた。大森はといえば、その怒気に驚いて腕を縮こめていた。
「いや、でもおかしいですよ」
別の同僚がペンを口元に当てながら言葉を挟む。
「鉱毒って、カドミウム中毒でしょう? 地震からたった3ヶ月で症状が出るほど農産物を口にしますかね? たしか暴露量の問題だったはずですし。それに初めの被害者はあの堀越さんの奥さんで、奥さんだけが亡くなってる」
大森も教師としてカドミウム中毒については知っていた。かつて公害問題が日本全国で紛糾した折、象徴的な事件として取り上げられた「イタイイタイ病」こそ、カドミウム中毒に他ならなかった。
100年前の鉱毒事件では科学調査は行われなかったものの、現在では概ね銅の精錬過程で発生したカドミウムが河川に流出し中毒症状が流域で発生したのが鉱毒の実態だったのではないかと推測されている。
「ね? ですから、この話はこの辺で。私たちが推測してもどうしようもありませんし……」
声を荒らげていた同僚は不満げに音を立てて座った。カドミウムを指摘した方は早速ノートPCを叩いて検索をはじめている。
「ともかく、避難所の開設がありますし、今日は児童もそこでの宿泊が増えると思います。児童を見守る意識を持っていただけたらと思います」
職員室に返事はなかった。大森だけがわかりましたと小声で応じて、教頭はバツが悪そうに頬を掻く。教頭は席につくこともなく廊下へ向かうと、大森に手招きした。落ち着かない空気に包まれた職員室でその動作に気づく者は、大森の他になかった。
「警察が大倉さんのところに出入りしているみたいなんですよ」
談話室に大森を招き入れた教頭は、目も合わせずにそうこぼした。
「じゃあやっぱり鉱毒なんでしょうか……」
二人の沈黙を雨音が塗りつぶす。
「先の訴訟でも行政側は大倉さんの肩を持って、結局刑事責任は問えなかったと聞きます。実はもう鉱毒漏れの調査も済んでいるのかもしれません」
大森には思い当たることが複数あった。明らかに事件であるにも関わらず、一向に刑事が派遣されることもなく、現場検証もろくに行われていない。証拠品の回収もなければ、科学調査も行われない。須藤が遺体の扱いで何かもめていたのも耳にしている。そうした状況証拠は、明らかに大倉工業と警察の
真理子の家の戸締りをしたのは米森巡査だったと聞いたが、証拠品の抹消が行われていない保証はなさそうだ。そのことに気づいて、大森は頭を抱えた。
「だったらなおさら、児童だけにでも水道水の飲用をやめさせた方が……」
「少なくとも今日と明日は大丈夫そうです。避難所に寝泊まりする子についてだけですけどね」
教頭はそう言うと、手持ち無沙汰にペン立ての位置を微妙に直してみる。それまで大森と目を合わせなかった教頭が顔を上げる。
「それでなんですが、大森先生。私も鉱毒は疑っていますが、くれぐれも鉱毒のことを避難所で口にしないようにお願いします。子供達にとっては雨の不安もあるでしょうから、あまり不安を重ねさせてもいけません」
「……わかりました。子供達のためなら、そうですね」
大森は内心同意しかねていた。一時的な不安を避けるためだけに、あんな死に方の危険性を知らずに過ごし続けるなど、自分にはとても堪え難かった。むしろ大森は、この村の全員が村から街の病院に移住するべきだとさえ考えていた。
「でも教頭。実は、鉱毒でもないかもしれないとも思っているんです」
「そうなんですか?」
「ちょっと現実離れしてますし、鉱毒じゃなかったら自分に影響はないって信じたいから、そう思ってるだけかもしれませんけどね」
教頭は大森の言葉が続くと思ったようだが、大森はそれ以上あの常識はずれの推測について話すつもりはなかった。大森が言葉を続けないと分かって、教頭は頭を掻いて話題を変えた。
「ここのペン、失くなってますね」
「ああそれ、米森巡査が持って行っちゃいました」
「なるほど。警察が泥棒を」
二人はそんな冗談で、湿り切った部屋に乾いた笑いをこぼしあった。
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