黒い水
『きたかも』
車を停めて確かめたスマートフォンには、ただそれだけの通知が来ていた。木原真理子からのその短いメッセージに、大森は中空に放り出されたような目眩を覚えた。
シートベルトを外すより先にメッセージを入力し始め、すぐに手を止めて通話ボタンを押した。
アプリの安っぽい電子音が鳴る。
「出てよ……出なさいよ、いつも言ってるのはそっちでしょ……!」
電子音がいくら繰り返されても、応答はなかった。焦れた大森は、ハンドルを叩いて通話を切り、アプリから電話に切り替えた。押す番号は決まっていた。
スピーカーフォンに切り替えて助手席に放ると、サイドギアを下ろす。
「L県警110番です」
「H村で昨日と同じ匂いの事件! 真理子が死んじゃう!」
大森は絶叫していた。激しい雨で視界が通らなくても関係なかった。アクセルを力強く踏むと、大森の体は今までに経験したことのない加速度でシートに押し付けられた。
「落ち着いて住所をお教えいただけますか?」
「知らない! 木原真理子! 喫茶店やってる! 大倉鉱業に近い方、早く!」
フロントガラスに叩きつけられる大量の水で、大森はほとんど道路状況を把握できなかった。ただ水を蹴るタイヤの音で、それがただならぬ速度で進んでいることだけは把握していた。
「通報者さんはいま」
「運転中! 向かってるの! メッセージが来て、折り返したけど反応がない!」
勘違いかもしれないという冷静な考えが、このときようやく大森の頭によぎった。木原の店に珍しく客が来て、それで手を離せないだけかもしれない。紛らわしいものの『客がきたかも』という意味だったのかもしれない。
小気味よく左右するワイパーの間で、赤信号が雨水に滲んでいた。
「非常事態の信号無視って犯罪ですか!?」
「落ち着いてください、あなたも事故したら……」
「真理子が!」
精一杯ブレーキを踏むと、大森の体は今度は前方向に押し出された。シートベルトがようやくその体を支える。雨水に濡れた路面はタイヤをいくらかスリップさせ、車体はわずかに右を向いていた。
「大丈夫ですか?」
どこからか声がする。スマートフォンは助手席を飛び出してどこか見えないところに行ってしまったが、幸いにして通話は切れていないようだった。
「死ぬかもしれないのに、落ち着いてられるわけ……ええと……大丈夫、スマホどっか行っちゃったけど声は聞こえます」
車一台通らない交差点で、大森の車は横断歩道にまで飛び出していた。
「人も車もなし。待ってられないから出ます」
今度は加減してアクセルを踏む。今の一瞬で間に合わなかったら一生後悔するだろうと大森は奥歯を噛んだ。
木原真理子の家は住宅街とははずれたところにある。ツツジが植えられた私道に入って少し登ると、流行り始めたという古民家カフェになっている。その坂はいくらか急で、大森の馬力に劣る軽自動車では随分エンジンを唸らせなければ登ることができなかった。
助手席の下に飛んで行ったはずのスマートフォンはその傾斜でますます奥まったところに動いてしまっていた。車を止めた大森は車から出ないように指示するスマートフォンの声に逆らって、降りしきる雨の中に飛び出していた。
「真理子!?」
当然のことだが、店の扉は開いていた。しかしいまこの村で起こっていることを考えれば、それはあまりに不用心と言うほかない。
恐る恐る店内に足を踏み入れた大森は、すぐにあの異臭を感じた。巡査は木酢液と言っていたが、こんな焦げ臭いような化学薬品のような得体の知れない匂いを農民が好んで作物に振りまくとは考えられなかった。
大森は左手の袖を掴んで鼻と口に当てがう。
「真理子? いるんでしょ?」
数歩進み出ると、カウンター近くにあったはずの椅子が土間のフロアに倒れていた。それがあったはずのカウンター席にはスマートフォンが置かれている。
真理子がそこに座っていたに違いない。
大森はその椅子を起こそうとした。しかし指先に触れた冷たさに思わず手を引いた。緊張に震える指先には、黒ずんだ水がついている。大森の脳裏には、いやでもあの少年の声が蘇った。
——黒い水が来る
静まり返った店内を雷鳴が揺らす。
すでに大森の進み出る勇気も、引き下がる勇気も枯れ果てていた。脚はただ腰から土間に突き刺さった棒と化していた。口元にあてがっていた左腕も、胸のあたりで沸き起こる痙攣を抑えようとこわばるばかりだった。
「きゃぁぁっ!」
奥座敷から何かを叩きつけるような激しい音がして、大森は身を縮めて悲鳴をあげた。しかし物音には一度きりで、何も続かなかった。
奥座敷は真理子の居住用のスペースになっているはずだった。台所裏の扉から入ることができると大森は知っていた。丸まっていた体からようやく顔を上げ、視線の先に半開きになっている扉を見出した。
大森は瞬間的に自らの生命の危機と真理子の安否を天秤にかけていた。そして大森は進むことを選んだ。といってその歩みには勇ましい決意などなく、ただ四つん這いで音も立てずに、半開きのドアをめいいっぱい伸ばした右手の指先で弾いてみただけのことだった。
その扉がキュッと小さく鳴ったとき、大森はそれを知っていれば開けなかっただろうと後悔した。しかしこの音もそれきり何も続かないとわかって、ようやくもう少しだけ前へ進み、扉の先を覗き見る気になれた。
普通なら膝よりもよほど低い位置から覗き見た奥座敷には、倒れた人の頭が見えた。
「……真理子?」
すがるような声を出した後、大森は土間を蹴り上がって土足のまま座敷に飛び込んだ。
「真理子!」
真理子は目を開けたまま倒れていた。その体からは一層激しい例の異臭がしたが、今の大森は鼻を覆うことさえしなかった。真理子の体を軽く叩いて声をかけ、意識がないのを確認すると、研修で習った手順で脈をとる。
「嘘でしょ、ねぇ! 嘘でしょ! 真理子!」
大森は心臓マッサージのために胸元に手を重ねた。
「1! 2! 3! 4! 5!」
体重をかけたマッサージに合わせた掛け声は、祈りに似ていた。
木原真理子の体が跳ね上がるほど激しく痙攣したのは、大森が気道確保をしようとしたときだった。大森は真理子の体から飛び退いた。
「なに……?」
真理子の体が釣り上げられた魚のように激しく弾んだと思うと、次には動きを止めた。大森は恐る恐る手を伸ばし、親友の腕を取り、脈を確認する。
脈の感じられない腕がもう一度痙攣した。それを合図に、再び真理子の体は強く仰け反って暴れ始めた。大森はあまりに激しい全身の痙攣から真理子の体を守ろうと、真理子にのしかかった。
しばらく続いた無言の争いの末、真理子の体はようやく動きを止めた。
大森が肩を上下させながら体を起こすと、開かれていた真理子の瞳の全体が黒く染まっていた。さらには頬と首に黒い痣ができている。
「真理子……? ねぇ……」
救命措置を施す体力も失われた大森の声が、真理子に届いているようではなかった。
大森はすでに敗北を理解していた。すでに涙は溢れていたが、このとき胸の奥から嗚咽がこみ上げた。
「真理子……」
大森が頬に触れると、その体から血液が流れ出すように、真っ黒な水が流れ落ちた。しかし黒い水は床に滲むことなく、砂のようにさらさらと、痕を残さず流れ去った。
雨音を縫って、大森の耳にサイレンの音が届いた。
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