大雨警報

 最後の子供を送り出すと、教頭はたった5人の職員会議を招集した。


「みなさんお疲れ様でした。まずは今日こういう措置をすることになった堀越さんのところでの事件について詳しいことがわかりましたので、お伝えします」


 教頭は警察側からファックスで送信された印字の潰れたような書類を配る。受け取った大森は、そこに記されたの概要に眉を顰めることになった。


——両名とも暴行を受けた痕跡があり、強盗あるいは獣害と推測されています。部屋に独特の臭気が残っていたことから、現在警察では獣害を想定して捜査中です。住民の皆様におかれましては、戸締りをしっかりとしたうえ不要の外出を控え、異臭を覚えた際には安全を確保して警察に通報願います。


「獣害って……」


 大森には受け入れ難かった。たしかに熊や猪なら老人二人を蹂躙じゅうりんするなど容易たやすいかもしれない。しかしあの石塀を動物が壊したとはとても考えにくい。


「……ということです。獣害となると解決までは当分期間を見る必要があると思いますので、学校側としては今日のような送り迎えの体制を続けようかと思っています」


 その言葉はもはや大森には届いていなかった。大森はといえば、石塀を体当たりで破壊する熊を思い描いていたのだ。

 それは歩くわけでもなく、明らかな破壊の意志を持って石塀に体をぶつけたはずだ。たとえ自動車であっても、大森の軽自動車がぶつかる程度ではあの光景には及ばない。人知を凌ぐ巨大熊が破壊の意志を持って石塀に衝突し、その衝撃に脳震盪のうしんとうにすら陥らずに堀越の家の庭に潜んでいたとでも警察は考えているのだろうか。


 それに巡査はと言っていた。獣害なら動物の体毛なり足跡ですぐにそれとわかるはずだ。それどころか、あのとき大森と真理子がその足跡に気づくことも考えられた。十中八九、獣害というのは方便に違いないと大森は確信した。


「……おかしい」


 誰にも聞かれないように口の中でつぶやいた。

 大森の中で疑念が膨れ上がり、楽観が押しつぶされる。

 確かなことは一つだけだった。


 この村で、が起きている。


「大森先生」

「はいっ!?」


 慌てて上ずった声で応答した大森に、教頭が苦笑いした。


「先生、お気持ちは察しますが、児童の安全に集中しましょう。もう一度言いますよ? 大雨警報が発令された場合、体育館が避難所に指定されています」


 バツの悪い大森は居住まいを正した。慌てて机の上に放ったコピー用紙の底には、くっきりと親指で握った折り目がついてしまっている。


「その場合の設営は役場の方々がなさると思いますが、私たちも勝手がわかりますし、今日のような見送りの体制をとっていた場合にはお手伝いをすることにしましょう。いいですかね?」


「はい、すみません、考え事をしていて……」


 教頭は謝罪を軽く受け入れるそぶりをしてから、土砂災害警戒情報について補足した。土砂災害の多いこの地域の事情をかんがみて、児童と保護者には自主避難を勧めるようにという趣旨だった。



「……教頭、事情聴取の件、席を外させていただいてありがとうございました」


 一連の話が終わって、大森は個人的に教頭に声をかけた。


「いえいえ。どうでした? カツ丼ってもらえました?」

「もらえるわけないじゃないですか」


 教頭のいつもの調子に、大森の緊張は少しほぐれる。


「あの……陸くんのことなんですが……」


「今日は登校してましたね。何かありましたか?」


「それが、変なにおいがして逃げ出す夢を見たって日記に書いているんです。警察の話とも一致していて……」


 教頭は口を開いたまま固まったかと思うと、今度はどこか左下の方を見ると腕組みして天井を見上げた。


「私も長いですけど、ここまでの子は見ませんね」


「信じたくはありませんけど、予知夢とかそういうものだったら……」


 そういうものだったら?


 言いながら、大森は自分でもどうしたいのかわからなかった。しかしそう口にして、自分が前田陸に対して抱いているのが恐怖の感情であることに気がついた。


 少年の予感が正しければ、きっと今週は豪雨の末に休校を余儀なくされ、土砂崩れが起こって川が氾濫し、低地は黒い水に浸かることになる。そして前田陸の『おばあちゃん』である田原幸恵は戸惑う少年に対して必死に声を上げる。


——逃げて!


 雷鳴が轟いた。


「ごめんなさい。昨日からいろいろ続いて疲れてしまって……早いですけど帰って休ませていただいていいですか?」


 大森の神経はめっきり衰弱していたが、それでも理性にしがみつくのをやめなかった。つい昨日までは不吉な子供の妄言と思っていたものが、予言にまでその地位を高めてしまっていた。真理子や俊樹なら、きっと大森を笑い飛ばすに違いない。大森自身もそういう風でありたかった。


「今日は帰ってよく休んでください。いろいろなことが次々に起こっていますからね。……でも、すぐにいつも通りになりますよ」


 教頭はそれ以外に言葉を持たなかった。何かを期待していたわけでもなかったが、大森は教頭の態度に肩を落とした。


 自覚こそしていなかったが、大森はただ自分と同じように感じる人が欲しかったのだ。この偶然の一致に恐怖し、明日起こるかもしれない崩壊の予感に震え、前田陸という霊能者を信じようとする誰かが。


 しかし大森はそのことに気づいてはいなかった。だから肩を落としながらも、大森は「そうですね」と微笑みを見せ、気休めの挨拶を受け取っていた。


 軽自動車に乗り込むと、ようやく真理子から返信が届いた。事件についての情報は大森がこれまでに得たものと同じだった。そしてまた、それら情報を得ての見解までも一致していた。


『おかしいと思うんだよね。あれ絶対動物じゃ無理だし』


『だよね。でもじゃあなんだろう』


『においマンだね』


『冗談はやめて。奥さん亡くなってるんだから』


『ごめんごめん。まぁそのうちわかるでしょ』


『そりゃそうだけど……』


 得体の知れない攻撃者ほど、人をすくませるものはない。警察が把握し損ねているがこの村でその凶暴なまでの攻撃力を発揮し、人間の命を奪った。そのが次に攻撃するのが自分ではない保証はない。


「はぁぁぁぁっ怖い!」


 誰にも聞かれていない車中で、大森は初めてその言葉を口にした。そう口にして初めて、そのたった3音の言葉が不思議と恐怖心を和らげてくれることに気づいた。


「こわいこわい」


 スマートフォンを閉じてエンジンをかける。家に帰ったら、真理子にも怖いと送ってみようと大森は考えていた。

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