悪人

 大倉は靴棚の脇で住民の壁に阻まれていた。住民の間からは口々に強い口調の疑問と罵声が発されている。


「いえ、ですから! 調査はしましたし、漏れはありませんでしたって!」


「ね、そうおっしゃってますから、ここは避難所ですし、市民が平等に使える場所なんです。どうかここは……」


 壁の中から教頭の無益な声が漏れ聞こえる。


 大多数の避難者が壁に吸い込まれた中でも、あの大森を見ていた老人だけは変わらず座っていた。しかしその脇に一人の若者が新たに座っていて、大きなヘッドフォンで興味なさげに音楽を聴いている。オレンジのTシャツに緑がかったカーキのダボついたパンツという服装がいかにも田舎の風情ふぜいだが、このあたりで見かける顔でもなかった。

 大森はその見慣れない二人組を横目に、堀越とともに人だかりの中へ向かう。


「たしかにここは市民の場でしょうな」


 堀越はいつにも増して威圧的な声を発した。声は反響して、舞台の上からもう一度発されたようでさえあった。もちろん人だかりは左右に割れて、堀越とその横に控える大森のための花道を作り出した。堀越にためらいはなかったが、大森はそこを歩む気にはとてもなれなかった。

 道の先に立っていた大倉雅敏まさとしの姿は、大森の予想とは違っていた。大森は恰幅かっぷくのよい、白髪混じりで高級時計なり指輪をつけている成金の姿を想像していた。しかし実際にそこに立っていたのは、少し腹の出た程度のありふれた中年男性だった。たとえ街ですれ違ったとしても、彼が資産家だとは気づかないだろう。


「堀越さん……ご存知でしょう。我々の家は鉱山の近くにありますから、崩れやすいんです」

「ええもちろん存じ上げておりますとも。しかしね、大倉さん。もとはといえばあなたの会社がそこをのではありませんか」


 堀越の左右から同意を示すヤジがあがった。


「それはそうかもしれませんが……しかし私たちも今は緑化に努めていますし……」

「なら大丈夫ではありませんか! 避難所など使わなくとも!」


 堀越は大げさに両手を上げて皮肉を言った。


「堀越さん! お気持ちはわかりますが」


 またしても教頭が間を取り持とうとする。しかし大森の目にも、それは到底不可能なことのように思われた。


「それに教頭先生。先ほど話した通り、私の妻や木原さんの死もまた、大倉鉱業がその原因の一つであるに違いありません。私たちの話を聞いて、まだ疑いますか?」


「それは……」


 教頭が言い淀んだことは、老人たちにとって決定打となった。堀越の背は再び壁に覆われ、無数の怒りの声が大倉に向けられた。


「ちょっと待ってください! どういうことですか!?」


「『どういうこと?』とはね。ご自身の胸に聞いてみたらいかがかね!」


 怒声飛び交う中に堀越の高らかな勝利宣言が響いた。


「こうしている間にも鉱毒が漏れております。それが環境に働きかけ、私たちを死に至らすを生み出しました。いやあるいは、それすら知って警察と密談をしていたのですかな?」


「何の話です!? たしかに警察がうちにきましたけど、何もそんな……!」


 人だかりの後ろに残された大森の目には、大倉の姿は見えなかった。だから大倉が本当に戸惑っていたのか、ただ図星を突かれて繕っていたのかを断じることはできない。


 その代わり、その無益な口論を止めに入った意外な人物の登場には、いち早く気づくことができた。


 大森の左脇にぬっと現れた長身の人物は、先ほどまでヘッドフォンをつけていた青年に違いなかった。彼はいつのまにかヘッドフォンを首にかけ、大森の左脇から人の壁に向かって粗暴な声を上げた。


「もういいよ。もういいっつってんだろ! うっせぇなぁ、じじいばばあが揃って!」


 当然、人の壁はいちどに反対を向いた。

 大森は立ち並んだ顔に驚いて右後ろに退いた。


「もういいよ。帰ろう、オヤジ。帰って死んだ方がマシだ」


 そう言うと、左手で手頃な老人一人を脇に押しやった。足を滑らせて倒れそうになったところを、慌ててその後ろが支える。


「爺ちゃんが勝手にやったんだから、そんなもん知らねぇんだよ。わざわざ会社潰さないで海外で事業やってあんたらに金払ってさ。父さんが責任感あるからここに住んでダムの管理までしてんだろ。それくらいわかれよ、脳ミソ腐ってんなクソじじい」


雅治まさはる!」


 大倉が叱責する。青年のそれまでの言葉で、彼が大倉の息子であることは明らかだった。しかし大倉の叱責もまた、遅きに失したと言ってよかった。


「なにを言うか、この小坊主……!」


 年甲斐にもなく、あるいは歳を重ねたからこそなのか、堀越が挑発に乗る。しかしいくら体躯も細くはない堀越とはいえ、18ほどに見えるこの長身の青年が本気でつかみかかれば到底勝てるわけもなかった。


「まだわかんないの? 今日俺たちが土に埋まって死んだら、あんたの孫の代まで金払ってってこと」


「あと俺の代になったら相続放棄してダムの管理も手放して放置するから。必要ならあんたらやれば? いくらかかるかも知らないでしょ? ま、自分らでやってた方がこんなときも自己責任になるしいいじゃん。オヤジ、俺車出すよ」


 ポケットから鍵を取り出して、青年は大きな傘を開いて豪雨に進み出た。その背には有無を言わさぬものがあった。


「私の教育ができておらず申し訳ありません」


 大倉は頭を下げた。先ほどまで人垣で見えなかったはずの大倉の姿だったが、青年の登場で人垣は見るからに緩んでいた。


「まったく。無責任にも程がある!」


 堀越の怒りの声は雨音に飲まれて虚しかった。


「あまりみなさんの和を乱してもあれですから、私は帰ります。街の方の事務所に避難することにしますよ。それと、奥様の件については改めて……」


「あなたたちに話すことなどない! 人を殺したという自覚もなく! 殺人者よりタチが悪い!」


 もはや堀越は聞く耳を持っていなかった。そう言って大倉を雨の中へ突き飛ばすと、教頭の制止も振り切ってきびすを返してしまった。壁の間から現れた堀越の顔は、怒りに歪んでいた。

 大森の目にはたしかに悪意が見えていた。しかしそれは大倉の側にも堀越の側にもあるわけではなく、むしろ傍観して好き勝手にヤジを飛ばす無責任な人々の間にあった。

 といって、前に進み出ることもできなかった大森が、いま誰かを責めることはできなかった。その一番後ろでただ立っていた大森は、自分がその無責任な声を大きく見せるための拡声器にすぎなかったことを自覚していた。それはともすれば、一層無責任な振る舞いかもしれなかった。


 だから大森は堀越をたしなめるほど恥知らずにはなれなかった。しかし内心では、大倉の息子の主張に共感するところがあった。言われてもみれば、大倉鉱業が鉱毒被害を産んでから100年も経っていて、その経営者は代替わりを重ねているはずだ。廃坑から30年以上経過していることを考えれば、現在の大倉鉱業の経営者は一度としてこの鉱山で採掘をしたことがないのかもしれない。


「大森先生も止めてくれれば……」


 肩を落とした教頭に、大森がただ弱々しく頭を下げるよりほかなかった。


「ごめんなさい。ここにいると頭が痛くなりそうで……今日は帰りますね」

「私もそうします。頭を冷やさないととても……」


 大森と教頭は散らばる人垣の一番最後に歩き出した。

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