台風の目

 大森がカーラジオをつけたのは、車を買って以来初めてのことだったかもしれない。しかしそこで読み上げられる市町村名の羅列られつと降水量の数値の大部分は、大森にとってこれといって関係のない情報だった。


『L県北部では激しい雷雨となり、24時間の雨量が600ミリを超える予報となっています。住民の方は不要の外出を控え、市町村が開設する避難所への自主避難を行なってください。避難勧告が出ている地域は以下の通りです……』


 そんな声を聞きながら、大森はわざわざその避難所から自宅に帰ろうとしていた。渦中にいない人にしてみれば、そんな愚かなことをする人間は災害に巻き込まれても仕方ないと考えるだろう。しかし渦中かちゅうの人間にしてみれば、この豪雨もまた、いずれ過ぎ行く日常の一幕に違いないのだ。


『また、冠水かんすいや土砂災害が予想されるため、通行規制が設けられた道路があります。県道12号のくだり、県道138号、県道……』


「えっ、ここに登ってくるのって何号だっけ?」


 徐行のハンドルを両手で握る大森は独り言ひとりごちた。ようやく着いた家に車を停めようと切り返す。そのときふと見遣みやった隣の田原幸恵の家の駐車場には、まだ幸恵の車しか停められてはいなかった。

 停車した車内で傘を取ろうと助手席へ手を伸ばす。そこには自分の傘の他に、朝に須藤医師に借りた傘が置いたままになっていた。

 ほんの瞬間的な思慮こそあったが、大森はあの避難所に戻りたくはなかった。たしかに堀越とはこの件で協力したいと考えていたが、そのためにああして誰かを攻撃するのも正しい振る舞いとは考えにくかった。あるいは、そうした優しさこそが大倉がつけこもうとしているものなのかもしれないが。


 大森は自分の傘だけを手にとった。女性もののその傘がこの豪雨をしのぐのにどれほどの役割を果たしうるかは、朝に嫌というほど思い知らされている。大森は精一杯肩をすくめながら、雨の底をぬって玄関にたどり着いた。


 すぐにテレビを点ける。幸いにして豪雨関連の情報が報道されていた。地方災害は時折無視されることがあると思えば、今回の豪雨が全国的に報じられる価値のあるものと見積もられたことになる。それはまさに真っ赤に表示された雨雲の直下にいる大森たちにとっては、歓迎するべき事態とは言えなかった。


 腕を拭くタオルを肩に乗せ、スマートフォンで地図を開く。山奥に位置するH村は、南北に貫くたった一本の県道に交通を依存していた。それも川沿いの谷を抜ける道で、道路の上であろうと下であろうと、崩れ去るのはそう不思議なこととも考えにくかった。


「だめじゃん」


 たどり着いたのは、まさしくその県道が報じられていた通行規制道路に該当するということだった。


「え、じゃあこれじゃないの?」


 ちょうどそのとき、スマートフォンが珍しく電話着信を知らせた。


「もしもし?」

「大丈夫? ちゃんと避難してるの?」


 受話器から聞こえた母親の声に、大森は内心大きな安堵あんどを覚える。


「お母さんこれあれだよ、孤立だよ孤立。私はじめてなった」

「大丈夫そうね」

「うん。私の家のあたりはちょっと丘になってるし、川も山もちょっと遠いから大丈夫って有名だし」

「水と食べ物とか、ちゃんと昨日のうちに買っといたんでしょうね?」

「あー、昨日ちょっといろいろあって病院で、でも2、3日なら……」

「病院って、なんかあったの?」

「んー……んや、疲れちゃっただけ。ほら、4月から震災の子が来たって話あったでしょ? あの子が先週精神的なので倒れちゃって、それからドタバタで」

「まだ学校やってるの? 雨ひどいんでしょ?」

「今日の午前で切り上げ。だから道路止まる前に村から出た子も何人かいたんだけど、私はまぁ無理だよね。ちょうど今帰り着いたとこだし」

「何かあったらどうするの! 無理言ってでも帰ればよかったのに」

「雨は大丈夫だと思うよ。ちょっと他の方が心配だけど……」

「他って何よ?」

「何って言えないんだよね。なんか変なこと続きで、一昨日おとといと昨日で……」


 そこまで口にして、大森は考えを改めた。始めから真理子が死んだことやそれを自分が救急に知らせたことは黙っておくつもりだったが、それらしい事件が起こっていることそれ自体を黙っておくことを選んだ。

 孤立してしまった以上、母親に過剰な心配をかけたくはなかった。


「雷で塀が壊れたりとか、真理子が運ばれたとかいろいろあって……雨が止んだら全部ちゃんと調べるんだって」

「真理子ちゃんは大丈夫だったの?」

「んー、わかんない。じゃあまた連絡するから。保護者から連絡あるかもしれないし、いつでも動けるようにしとかないと」

「はいはい。あ、先に水だけでも風呂桶に貯めときなさいね。あと電気落ちるかもしれないから……」

「わかってるって、子供じゃないんだから。じゃあね、その辺のことするから」


 耳から離しても、電話から母親の声がわずかに漏れていた。通話を切って、言われた通りに充電器に繋ぐ。大森は何か小骨が引っかかるような違和感を覚えていた。


「洗濯してお風呂入ろう」


 母親の電話があっても、大森の独り言は収まらない。浴槽に湯を張り始め、二日前から溜めてしまっていた食器を洗い始める。


「言わない方がいいよなぁ……心配するだろうし……」


 母親についた嘘に苦い思いをする。食器を二つ三つと洗い、乾燥台に並べたところで、大森の手ははたと止まった。


「ちょっと待って。おかしい」


 違和感の正体に気づいてみれば、なぜそれを誰もが見落としているのかが奇妙なほどだった。


「あの塀なんで壊れてたの?」


 真理子が生きていた間には、むしろ関心の中心にあったものごとが、いつのまにか二人の死という大きな事件に乗っ取られ、誰もの視野の外側に追いやられてしまっていた。

 そのことに気づいたとき、大森の胸の底で巻き起こった陰圧は、もはや不安より恐怖と呼ぶべきものだった。


「鉱毒じゃないよ。病気じゃない。でもない」


 自らの動揺を押しとどめようと、大森はコップを手にとって洗うことだけを考えた。


 これまでの全ての推測は、この一点においてすべて覆される定めにあった。それもすべての事件の最も始めに起こったことこそが、すべての反証だったのだ。


「熊もありえない。じゃあ何?」


 あの日洗い流した異臭漂う黒い液体は、どこか下水の先に流れ着いているはずだ。今となってみれば、あれこそがすべての解決のいとぐちになったかもしれない。


「じゃあ何? いったい何がの、真理子……?」


 排水溝に流れ落ちる水を見つめる大森の耳に、聞き慣れた湯沸しのベルが聞こえた。

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