台風の目
大森がカーラジオをつけたのは、車を買って以来初めてのことだったかもしれない。しかしそこで読み上げられる市町村名の
『L県北部では激しい雷雨となり、24時間の雨量が600ミリを超える予報となっています。住民の方は不要の外出を控え、市町村が開設する避難所への自主避難を行なってください。避難勧告が出ている地域は以下の通りです……』
そんな声を聞きながら、大森はわざわざその避難所から自宅に帰ろうとしていた。渦中にいない人にしてみれば、そんな愚かなことをする人間は災害に巻き込まれても仕方ないと考えるだろう。しかし
『また、
「えっ、ここに登ってくるのって何号だっけ?」
徐行のハンドルを両手で握る大森は
停車した車内で傘を取ろうと助手席へ手を伸ばす。そこには自分の傘の他に、朝に須藤医師に借りた傘が置いたままになっていた。
ほんの瞬間的な思慮こそあったが、大森はあの避難所に戻りたくはなかった。たしかに堀越とはこの件で協力したいと考えていたが、そのためにああして誰かを攻撃するのも正しい振る舞いとは考えにくかった。あるいは、そうした優しさこそが大倉がつけこもうとしているものなのかもしれないが。
大森は自分の傘だけを手にとった。女性もののその傘がこの豪雨を
すぐにテレビを点ける。幸いにして豪雨関連の情報が報道されていた。地方災害は時折無視されることがあると思えば、今回の豪雨が全国的に報じられる価値のあるものと見積もられたことになる。それはまさに真っ赤に表示された雨雲の直下にいる大森たちにとっては、歓迎するべき事態とは言えなかった。
腕を拭くタオルを肩に乗せ、スマートフォンで地図を開く。山奥に位置するH村は、南北に貫くたった一本の県道に交通を依存していた。それも川沿いの谷を抜ける道で、道路の上であろうと下であろうと、崩れ去るのはそう不思議なこととも考えにくかった。
「だめじゃん」
たどり着いたのは、まさしくその県道が報じられていた通行規制道路に該当するということだった。
「え、じゃあこれあれじゃないの?」
ちょうどそのとき、スマートフォンが珍しく電話着信を知らせた。
「もしもし?」
「大丈夫? ちゃんと避難してるの?」
受話器から聞こえた母親の声に、大森は内心大きな
「お母さんこれあれだよ、孤立だよ孤立。私はじめてなった」
「大丈夫そうね」
「うん。私の家のあたりはちょっと丘になってるし、川も山もちょっと遠いから大丈夫って有名だし」
「水と食べ物とか、ちゃんと昨日のうちに買っといたんでしょうね?」
「あー、昨日ちょっといろいろあって病院で、でも2、3日なら……」
「病院って、なんかあったの?」
「んー……んや、疲れちゃっただけ。ほら、4月から震災の子が来たって話あったでしょ? あの子が先週精神的なので倒れちゃって、それからドタバタで」
「まだ学校やってるの? 雨ひどいんでしょ?」
「今日の午前で切り上げ。だから道路止まる前に村から出た子も何人かいたんだけど、私はまぁ無理だよね。ちょうど今帰り着いたとこだし」
「何かあったらどうするの! 無理言ってでも帰ればよかったのに」
「雨は大丈夫だと思うよ。ちょっと他の方が心配だけど……」
「他って何よ?」
「何って言えないんだよね。なんか変なこと続きで、
そこまで口にして、大森は考えを改めた。始めから真理子が死んだことやそれを自分が救急に知らせたことは黙っておくつもりだったが、それらしい事件が起こっていることそれ自体を黙っておくことを選んだ。
孤立してしまった以上、母親に過剰な心配をかけたくはなかった。
「雷で塀が壊れたりとか、真理子が運ばれたとかいろいろあって……雨が止んだら全部ちゃんと調べるんだって」
「真理子ちゃんは大丈夫だったの?」
「んー、わかんない。じゃあまた連絡するから。保護者から連絡あるかもしれないし、いつでも動けるようにしとかないと」
「はいはい。あ、先に水だけでも風呂桶に貯めときなさいね。あと電気落ちるかもしれないから……」
「わかってるって、子供じゃないんだから。じゃあね、その辺のことするから」
耳から離しても、電話から母親の声がわずかに漏れていた。通話を切って、言われた通りに充電器に繋ぐ。大森は何か小骨が引っかかるような違和感を覚えていた。
「洗濯してお風呂入ろう」
母親の電話があっても、大森の独り言は収まらない。浴槽に湯を張り始め、二日前から溜めてしまっていた食器を洗い始める。
「言わない方がいいよなぁ……心配するだろうし……」
母親についた嘘に苦い思いをする。食器を二つ三つと洗い、乾燥台に並べたところで、大森の手ははたと止まった。
「ちょっと待って。おかしい」
違和感の正体に気づいてみれば、なぜそれを誰もが見落としているのかが奇妙なほどだった。
「あの塀なんで壊れてたの?」
真理子が生きていた間には、むしろ関心の中心にあったものごとが、いつのまにか二人の死という大きな事件に乗っ取られ、誰もの視野の外側に追いやられてしまっていた。
そのことに気づいたとき、大森の胸の底で巻き起こった陰圧は、もはや不安より恐怖と呼ぶべきものだった。
「鉱毒じゃないよ。病気じゃない。寄生虫でもない」
自らの動揺を押しとどめようと、大森はコップを手にとって洗うことだけを考えた。
これまでの全ての推測は、この一点においてすべて覆される定めにあった。それもすべての事件の最も始めに起こったことこそが、すべての反証だったのだ。
「熊もありえない。じゃあ何?」
あの日洗い流した異臭漂う黒い液体は、どこか下水の先に流れ着いているはずだ。今となってみれば、あれこそがすべての解決の
「じゃあ何? いったい何がきたの、真理子……?」
排水溝に流れ落ちる水を見つめる大森の耳に、聞き慣れた湯沸しのベルが聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます