50年と2日の戦い

 世代の違いがあるとはいえ、堀越の妻に対する愛情の形は、大森にはに思われた。親友を亡くしたばかりの大森でさえ、こうして真っ当な大人として振る舞うには己の意思を奮い立たせる必要があった。大森は多少なりその無理が周囲に伝わっていることは自覚していたし、実際には大森の想像以上にその姿は痛ましかった。

 しかし堀越はといえば、およそ心痛らしきものは感じられなかった。むしろつい二日前よりも村人の耳目を集められたことで活力を増したようにさえ思われた。

 その堀越の姿は、大森の決意をいくらか鈍らせはした。意思を貫き戦おうとする人物が他人からどう見えていたのかを思い出したのだ。大森はを自分が受けることになろうとは、このときまで思いもよらなかった。


「だいたいのところ同じですな」


 埃臭かったはずの談話室は、このところすっかり換気が行き届きはじめていた。


というのは?」


「妻は倒れていませんでしたし、私に向かって襲いかかってきました」


 堀越は頭に当てられたガーゼを抑えた。


「黒い痣がある状態でですか?」


「ええ。顔中に血管のように、こう……網状にですな。私が帰るとカーテンも閉めずに窓のところに立っていたんですよ。背を向けて」


 一昨日おとといの人影を思い出す。真理子の車の助手席で疲労にまどろみながら、大森はその人影に得体のしれない不気味さを見た。そのときこそ不気味さを意識から追い払おうとしていたが、そうした正常への執着を取り払ってみれば、およそ不気味と言うほかない光景に違いなかった。

 だから大森は、あの不気味さをああも軽んじてしまったことまでも、内心では真理子の身に不幸をもたらした遠因えんいんに数えていた。


「それで揉み合いになったものだから、警察の方では私が暴行の末に殺したのではないかと疑いましてな。いずれ鉱毒をもみ消そうとしたんでしょう」


「私も警察には通報していたんですが、対応がどうにも淡白で……真理子の家は規制線すらなくて……」


 大森は昨日の朝に堀越の家の前で迂回路の指示を受けていた。同じ事件であるにも関わらず、真理子の件では警察の対応があまりに異なる。


「獣害と見切りをつけるつもりでしょうな」


 堀越が断言し、大森はももの上で拳を強く握った。


「ちょっと待ってくださいよ。それじゃあカドミウムでもなんでもないじゃありませんか」


 それまで横でじっと聞いていた教頭が口を挟んだ。大森は現実離れした事件の姿について、それを目にしていない人が信じられるとは思っていなかった。だから教頭の同席を断ったのだが、堀越が賛同したのである。


「カドミウムでも金属中毒でもありませんな。何か別の毒です。それに、川が生きとります」


「川が?」


「草木が枯れておらんのですよ。川に金属が流出したとして微量でしょうな。3ヶ月で中毒で人が死ぬ濃度には及ばんでしょう」


 意外にも堀越は冷静だった。教頭が眼鏡を外してしきりに眉間を指でつまんでいるのに対し、堀越は腕を組んだままソファにどかりと座った姿勢を乱していない。


「須藤先生も鉱毒だと?」


 教頭は両方のまぶたの上を覆って左右にでるようにいた。誰か正常な見解を述べうる人物を求めたのだろう。


「断言はしていなかったと思いますけど……たしか寄生虫か何かと」


 大森の記憶する限り、須藤医師は少なくとも獣害ではないことに同意していた。その代わりに用いたという言葉は、神経衰弱にあった大森をずいぶん混乱させた。


「体の中がかなりやられてたらしくて……」


 自分で口にしたものの、大森は真理子がのたうち回った光景を思い出して口元を抑えた。あのとき真理子の体の中で、何かが真理子を食っていたとでも言うのだろうか。

 教頭が眼鏡をかけ直し、両手で自分の両腕をさすった。


「じゃあなんですか、何かの神経毒だか何かが人を暴れさせたうえ、内臓をズタズタに破壊して、それで真っ黒の血になって流れ出て、なんの証拠も残らないっていうんですか?」


 大森も堀越も、教頭の疑問に答えなかった。ただ一つの雷鳴だけが沈黙の間に轟いた。


「そんな非科学的な……」

「でも、私と堀越さんが見た限りでは、そういことが本当に起こっているとしか……」


「金属の流出で何か微生物に突然変異が起きたということも考えられます。常識はずれの病気が、世界の他のどこでもなくこの村で出たのだったら、必ず鉱山と関係がある」


 堀越の語気は根拠のない自信によるものだったが、二人を説得するには十分な威勢でもあった。


 大森はいよいよ決心した。


「堀越さん。失礼は承知ですが、私はつい先日まで、100年も前の鉱毒のことで訴訟を続けるなんて、いくらなんでも横暴だと思ってました」


 意外にも堀越はその言葉に表情を変えなかった。堀越の方でもそう思われていることは百も承知だったのかもしれない。


「でも真理子のことがあって、もしこれが鉱毒なら、私も真理子のために力を尽くしたいと思ったんです。100年も前のことじゃなくて、今も本当は続いてて、事件はテレビの向こう側でしか起きないんじゃなくて、で続いているんだって……わかったんです」


 決心を固めていた大森だったが、その長い言葉を口にする間も堀越の目を見るほど気が強くなったわけでもなかった。膝の上に重ねた自分の目を見、次には堀越の組んだ腕を、そしてその左腕に乗せられた右の手の甲を見ていた。年老いた骨ばった皮膚に、白んだ薄い体毛と、いくつかのシミが目につく。


「真理子のためにも、真実が知りたいんです。真実を知って、真理子が……死んだことの責任を……」


 大森には言葉が続かなかった。自分が真理子の死を受け入れられていなかったことを大森は痛感した。胸に力を込めて、肩が小刻みに震えて涙を押し上げるのを押さえ込んだ。


「お気持ち察します。しかしまずはこの豪雨の去るのを待ちましょう」


 そんな余裕があるようには思われなかった。一昨日おとといと昨日で1人ずつが死んでいる。雨が去るのを待てば、それだけで7人の命が失われてしまうかもしれない。大森は子供たちや親しい人たちを思い浮かべた。雨が止むまでの間、その全員を危険にさらすことになる。

 しかし堀越の経験してきた長い戦いを思えば、この2日に続いた二つの死は、鉱山閉鎖以降三十数年間の最後の二日で生じたことに過ぎなかった。今日も事件は続くかもしれなかったが、あと何年もなりを潜めるかもしれなかった。

 大森は再び堀越の歳を重ねた表情を見た。大倉鉱業は今だに鉱毒の事実関係を認めていない。50年以上の戦いがその皺に刻まれている。大森は自分にその覚悟があるだろうかと問うていた。


「しかしあと2日は降るそうですよ……それまでに私たち全員がそのに食われるなんてことは……?」


 教頭が頬を引きつらせた。大森が抱いたのと同じ悪い予測について検討する前に、何やらパタパタと騒がしいスリッパの音が鳴って、息を切らした若い役人がノックもせずに談話室の扉を開けた。


「教頭先生、ご助力を……いただけませんか……体育館で騒動が……」

「騒動?」


 教頭はすぐに大森と堀越に頭を下げ、役人の背を押して廊下へ出る。しかし後ろ手に扉を閉めながら漏れ聞こえた言葉は、今の堀越と大森が無視できるものではなかった。


「大倉さんがいらして、言い争いが……」


 大森と堀越は、ほとんど同時に立ち上がっていた。

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