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「あれ、でも、どうしてエスプレッソに砂糖なんですか?」
向かい合って揚げたてのカツを頬張っていると、ふいに野乃が尋ねた。先ほどは納得したが、どうもそのことが気になり、ふと思い出したようだった。
渉は、口に入っているカツを飲み込み、味噌汁で喉を湿らせてから、
「エスプレッソはイタリア生まれなんだけどね。イタリアでは、コーヒースプーンに山盛り一杯の砂糖を入れて、あまり混ぜすぎずに早めに飲むのがエスプレッソの楽しみ方として広く普及しているんだ。残った砂糖はスプーンで掬って食べるのがイタリア流で、日本ではたぶんそんなに知られていないと思うんだけど、本格的なエスプレッソマシンを買うくらいエスプレッソが好きだった弘人さんなら、知っていてもおかしくないと思うんだよね。だから、俺に向けてのちょっとしたメッセージだったんじゃないかって」
「メッセージ……?」
「うん。完全に俺の願望だけど、ありがとうっていう」
眼鏡の奥の瞳を細め、ちょこんと首を傾げて聞き返す野乃に笑った。
「苦いエスプレッソに、山盛り一杯の砂糖……溶け残ったそれを食べたら、ほろ苦くもあるんでしょうね。弘人さんも、そんなふうにエスプレッソを飲んでいたんでしょうか」
「どうだろうね。知っていた可能性は高いとは思うけど、そうだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。俺たちには想像することしかできないよ」
「そうですよね。でも、誰が悪いとか、誰が正しいとか、そういうのがない恋もあるんですよね。過去はどんなに頑張っても消しようがありません。生きてる限り、私たちは過去と未来の間を進んでいくしかないんです。大きな失恋は、それだけその人の時間を止めてしまうように思うけど、そんな中でも、ちゃんと進んでいるんですよね」
「うん。だからこそ、立ち止まる時間も必要かもしれないね。変えようがない過去を見つめる時間と、それでも進んでいってしまう時間とのジレンマを抱えながら、いつかまた、ちゃんと前を向いて歩いて行けるようになるまで。例えば、コーヒーを飲んだり、こうして他愛ない話をしながらご飯を食べたり。時間はかかっても、思い出にするために」
「はい」
こくりと頷く野乃に、渉はまた、眼鏡の奥の目を細める。それを潮に食事を再開した野乃は、ソースをたっぷりかけたロースカツを頬張り、続けてご飯も口に入れた。ハムスターさながらにパンパンに膨れた頬は、もぐもぐと口を動かすたび、十代らしくツルツル、ピカピカと蛍光灯の光に反射して血色良く光っていた。
そういえば、ここへ来てから野乃はずいぶん日に焼けたなと思う。春から完璧に日焼け対策をしているけれど、陶器のように真っ白だった頬や腕は、十年ぶりに再会した日と比べても、かなり健康的な色を取り戻しているように見受けられる。
そりゃもちろん、日焼け止めなんて塗らない元樹君と並べば、ゴボウと大根ほどに違いは歴然としているけれど。この通りよく食べるし、元樹君ともよく微笑ましい口ゲンカをしているし、普通の高校生らしさがずいぶん垣間見えるようになった。
「……野乃ちゃん、さ」
「はい」
「どうしてここへ来ようと思ったの?」
「え……」
「いや、変な意味じゃないんだ。俺のことを覚えていて、頼ってくれたのは嬉しい。もちろん野乃ちゃんがこのままここにいたいって言うなら、俺は手放しで大歓迎だよ。でも、どうにもならない恋があったのも、事実なんでしょう……? ここは『恋し浜珈琲店』。そして、俺のところには失くした恋を抱えた人が来る。話しておきたいことはない? 俺は野乃ちゃんに心から美味しいって思ってもらえるようなコーヒーを淹れたいんだ。再会したときから、ずっとそう思ってるよ。だから――」
だからこそ、野乃にはもっと笑顔になってほしいと思う。妙に堂に入ったような、達観したことなんて言わないで、もっともっと自由に、わがままになってほしい。見ていて苦しくなるほど失くした恋を抱えた人たちに寄り添い、そっと手を貸すだけじゃなくて。
自分でも元樹君でもいい。誰かに手を伸ばして、その手を取ってくれた人の手を何も考えずに借りてほしいと、今、切実にそう思う。
野乃は人一倍、人の心の機微や痛みに敏感な子だから。
それはときに、彼女のほうこそ苦しくなってしまうこともあるはずだから。
なんとかしてその背中を押してやりたいと思う。そしてそれは、失恋した人を呼び寄せてしまう不思議な引力を持っている渉だからこそできることでもあると思う。
――ここは野乃のための宿り木だ。すっかり根を下ろしてしまい、もう自分では動きようのない渉の代わりに。彼女にはどうしても、羽ばたいてもらう必要がある。
「あ、あの……あの、私……」
野乃の表情がみるみる硬直し、蒼白になっていくのは見ていてつらかった。喉に異物が詰まったように息苦しく言葉を紡ごうとしている彼女を見ていて、胸が抉られる。なにもこんなときに言わなくてもいいだろう、まだ若干十六歳の野乃に自分の願望を重ねるなんてどうかしている、と頭の中でもう一人の自分が激しく自分に憤っていた。
でも。
「――前の学校で何があったか、俺は聞きたいよ」
これを聞かないわけにはいかなかった。聞いてしまったら終わりだと思ってきたが、いつまでも誰も触れないというわけには、どうしてもいかないことだ。大切だと思うからこそ、見守るだけじゃいけないことも、世の中にはたくさんある。
「俺だって野乃ちゃんみたいに、野乃ちゃんの背中を押してあげたい。もっと頼って。俺のこと。こんなにひょろひょろじゃ、どうにも頼りないかもしれないけど、コーヒーを淹れるのだけは上手いんだ。野乃ちゃんは、笑った顔が一番可愛い」
けれど。
「渉さんは聞かないでいてくれる人だと思ってたのに……!」
当然、野乃は激しく感情をあらわにした。ダンっ、とテーブルに手を付くと、食べかけのカツが皿の中で踊り、味噌汁が椀の中で大きく波打った。勢いよく椅子をなぎ倒すと、
「渉さんのほうこそ、私に隠しごとがあるんじゃないんですか⁉ まるで僧侶みたいにストイックに店を切り盛りしてますけど、父も母も、渉さんがどうしてここでコーヒー店をやっているか、本当のところは知らなかった! それは、どうしても人には言いたくないことだからです! それを聞いて、私と同じだって思いました。だから安心しました。それなのに私には話せって……そんなの、ずるいですよっ!」
「あっ、野乃ちゃ――」
「ごちそうさまでしたっ。残りはくるんでおいてください、あとで食べますからっ」
嵐のような勢いで店内を突っ切ると、階段を上がって部屋に行ってしまった。
「はぁ……」
野乃が消えた先を見つめて、なんとも言えないため息が漏れた。額に手をやりゴリゴリと頭を振ると、眼鏡がずり落ちて視界がぼやける。
「ずるい、か……」
改めて自分でも声に出して、本当にそうだな、と渉は思った。自分のことは言わないで野乃の話だけを聞かせてくれというのは、あまりにも一方的すぎる。
でも、不思議なことが起こった、こんな日なら。もしかしたら野乃も話す気になってくれるかもしれないと思ったのも本当だった。もう会えなくなってしまった珠希さんと弘人さんの切なすぎる境遇に感化されたというわけではないけれど、あるいは、もしかしたら、と。そんな淡い期待を抱いてしまったのもまた、事実だった。
「……どうしたらいいんだろう」
渉なら聞かないでいてくれると安心してここに身を寄せてくれていたのに。やっとお互いにいい距離感ができてきたのに。あんなに怒らせて、失望させて。
「全部、台無しにした……」
両手で頭を抱えて、今さらな後悔をする。でもあのときは確かに、今しか聞くタイミングはないと思った。それはまるで、何かに突き動かされるようで……。
はっとして、店の中をきょろきょろと見回す。
まだ近くに弘人さんがいて、珠希さんや拓真君をなんとか明日へ向かわせるついでに、抱えたものをお互いに胸の中にしまい込んでいるままの自分たちに何かきっかけを与えてくれようとしたんじゃないか――なんて。幻想みたいなことをふと思ってしまった。
「……」
けれど当然、そんな気配は一つもない。それ以前に、渉には霊感なんてない。
すっかり冷めきってしまったカツをモソモソと食みながら、野乃が決死の形相で言っていた台詞が頭の中をぐるぐると駆け巡った。
渉のほうこそ隠しごとがあるんじゃないか、僧侶のようにストイック、誰にも本当のところはわからないまま、どうしてここでコーヒー店を営んでいるのか、それは誰にも言いたくないことだからなんじゃないのか。
傷つけたかったわけじゃない。追い出したいわけじゃない。だって、こんなにも食事が味気ない。ただ、野乃には笑った顔が一番似合うから。笑ってほしいから、そのためには胸の奥底に深く深く刺さった棘をちゃんと抜いてやらなきゃいけないと思った。
「何をやってるんだ、俺は……」
ふと気づくと、外から微かに雨音が店内に入り込んできていた。夕方だけは晴れたけれど、どうやら今日は恋し浜は雨に降られる日らしい。
それから三日三晩、雨はしとしとと降り続いた。野乃はすっかり渉とは目を合わさなくなり、それでも一緒に摂る食事の席では、沈黙が怖いのか、よく学校の話をするようになった。
ちぐはぐなその態度に渉は何度も口を開きかけた。でも、どう声をかけても野乃を傷つけてしまう気がして、他愛ないその話題に相づちを打つだけだった。
四日目の朝。
「――この前は取り乱したりしてすみませんでした。お互い、あのことは忘れませんか?」
制服に着替えて朝食の席に下りてきた野乃は、困ったように笑って渉に言った。汐崎君が渉さんと何かあったのかってしつこく聞いてくるから、もう嫌になっちゃって……。そう付け足した野乃に、渉は「……そうだね」と答える以外の選択肢は持ち合わせていなかった。元樹君にまで心配をかけてしまっては、大人としてどうかと思う。
その日は、計四日間の雨が嘘のように朝から綺麗に晴れていて、朝食を食べ終わり流し台に食器を下げた野乃が「いってきます」とドアベルを鳴らして登校していったときの顔は、ちょうど逆光になっていて少しも見えなかった。
どんな顔で言ったんだろう。どんな気持ちでここにいるんだろう。考えるけれど、十年前の幼い野乃がこぼした屈託のない笑顔も、このときの渉は思い出せなかった。
「いってらっしゃい」
笑って言ったつもりだったけれど、上手く笑えていたか、自信がない。でも、野乃には笑っていてほしいのに、それを奪った渉には、笑顔で送り出す資格などあるはずもない。
やがて上辺だけの会話をするようになってから一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。
邦陽高校では六月中旬に体育祭があるとかで、部活に入っていない人の中から決められたという体育祭実行委員になった野乃は、自分が出る競技の練習や委員の仕事で帰宅時間が今までよりぐんと遅くなる日々が続いている。元樹君もまた、実行委員に決まったそうで、いつも律義に野乃を送ってくれ、渉は有難いやら申し訳ないやらといった心境だ。
「……野乃、気の強い女子に無理やり委員にさせられたんですよ。早く学校やクラスに馴染んでもらいたいから、なんてもっともらしいことを言って野乃を推薦してましたけど、あれ、完全にやっかみです。野乃と何があったのかは聞きませんけど、つらそうにしてると思ったら、ちゃんと声かけてやってください。あいつきっと、渉さんから声をかけてもらうのを待ってます。淡々としてるように見えて、いっぱいいっぱいなんです」
「でも、どう声をかけたらいいのか……」
早々に二階へ上がった野乃を気遣うようにそちらに視線を投げた元樹君にそう言われても、渉は困るばかりだ。委員に決まったから体育祭が終わるまでは帰りが遅くなる、と言われたとき、そうじゃないかとは思った。野乃があまり楽しそうではなかったからだ。
「何言ってるんですか、ここでの保護者は渉さんでしょう」
「そうなんだけど……一度、声のかけ方を間違えると、次が怖いんだよ」
「……」
むっとした顔で元樹君が黙る。「……そんなの、渉さんらしくもない」
「ごめんね、今日も送ってくれてありがとう」
言って、あからさまに追い出そうとしたら。
「最近の渉さんのコーヒー、正直、美味しくないっす」
元樹君は悲しそうに微笑して、ドアベルの向こうに消えていった。
「……それは俺も自覚してるよ」
ズバズバ言うなぁ……と苦笑しながらも、渉もその通りだと認めるしかなかった。
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