「ん! これならブラックが苦手な私でも飲みやすいです。苦みが少なくて、ちょっと酸味が効いてる……? 香りも豊かだし、やっぱり缶コーヒーとは全然違いますね」

「ふふ。そうでしょう。なんてったって野乃ちゃん用のブレンドだからね。ブレンドの楽しいところはさ、産地とか豆の焙煎の具合とか、どれをどう組み合わせるかっていうセンスと経験値もあるけど、一番は淹れてあげる人がどんな顔で笑ってくれるのかが想像できるところなんだよね。野乃ちゃんは苦いのがそんなに得意じゃないから、普段は仕入れない豆も仕入れてみたりしてね。その間、すごくウキウキして楽しかったよ」

「……う、なんだかお恥ずかしいです」

 赤面して俯く野乃に、渉はまだ若干涙の痕が残る目を細めて「はは」と笑った。

 どうやら、この二年の間で、ここでコーヒーを淹れることがすっかり渉の体に馴染みきってしまっているらしい。けれどそれも無理はない話だと渉はまた笑った。

 だって自分は、もうちゃんと恋し浜の人間になっている。知世が消えてしばらくは彼女の帰りを待っていた時期もあった。どれだけ泣き出してしまいたくても、逃げ出してしまいたくても、無理やり笑顔を張り付けて店に立っていたこともあった。地域の人たちはそんな渉に優しかった。けれどそれが、どうしようもなくつらくもあった。

 でも、ここで店をやっているからこそ出会えた人たちがいて、一人で店に立ち続ける渉に会いに来てくれる人たちがいた。全部が全部、つらかったわけじゃなかった。

 渉は、ストローを引っこ抜き、直接グラスに口をつけて薄いブレンドを飲み干す。

「――そっか。今まで来てくれたお客様の中には、知世の言葉に共感して、代わりに様子を見に来てくれた人がいるかもしれないってことだよね。そうやって来てくれた人の中には、それをSNSに上げる人もいる。それを見た人がまた店に来てくれて……そのうち、この店は〝失恋を美味しく淹れてくれる〟って評判が出るようになったのかもね」

 そうして声に出すと、程よい苦みと効いた酸味が相まって、すーっと心が軽くなっていくような心地がした。隣で同じようにして半分ほど飲んだ野乃も言う。

「知世さんもそれを望んでいたんじゃないでしょうか。きっと今もだと思います」

「うん、そうだね。知世もどこかでそれを読んでくれているといいんだけど。こればっかりは、そうあってほしいって願うしかないね。……ああ、もう。最後の最後まで知世に振り回れっぱなしの恋だったなぁ。次にするなら振り回す恋じゃないと、なんか俺的に納得がいかないよ……。でもまあ、振り回されるのは俺の性分なんだろうけどさ」

「じゃあ、どっちが先に恋人ができるか、勝負しません?」

 すると、たはは……と苦笑している渉に思わぬ挑戦状が叩きつけられた。目を瞬く渉に野乃は不敵に笑って「もしかして勝つ自信がないんですか?」と煽り立てる。

 お互い、新しい恋をしようと思えるようになったことは大進歩だ。

 でも。

「ちょっとそれは聞き捨てならないね。俺が本気出せはすぐだよ、すぐ」

 こんなに煽られて。しかもまだ十六歳の女子高生に胡乱な目を向けられて、大人しくしていられるわけがない。モテないこともないのだ、渉は。……狭い範囲でだけれど。

「本当ですか? なんか若年寄っぽいんですよね、渉さんって。本当にすぐできます?」

「……なっ!」

「ほーら。そうやってすぐに言い返せないところが気弱っぽいんですってば。汐崎君なんか、どんなにやり込められても、うーうー言いながら、それでも野乃、野乃って二言目には懐いてくるんです。渉さんも頑張らないと、汐崎君にも先越されちゃいますよ」

「やめてよ、それだけは本当に嫌なんだけど……」

「あははっ!」

 思わず頭を抱えると、野乃が声を上げて笑った。でもまあ、野乃に恋人ができるということは、同時に元樹君にも恋人ができるということ(野乃さえOKなら、そして渉は父親のように立ちはだかってやろうと思っている)なのだろうから。それをまだ知らない野乃には、今のうちにたっぷり笑っていてもらおうと思う。

 ――と、リンリン。

「ちょっとちょっとー……。なんなんだよ、野乃。一緒に帰ろうって言ったのに先に帰りやがってさー。めっちゃ自転車漕いだわ、めちゃくちゃ漕いだわ……」

 涼しげに鳴るドアベルの音とともに、制服のワイシャツの襟元にパタパタと空気を送り込みながら元樹君がやって来た。しばらくすると嘉納さんと三川さんもフーフーと赤い顔をしながら現れて、元樹君の姿を見つけるなり「漕ぐの早すぎだから!」「あんなの普通に追いつけないよ~……」と、ぶーぶー文句を言いはじめた。

「はい。二人にもオリジナルブレンドのアイスコーヒーね。急いで追いかけてきたんならなおさら喉が渇いたでしょう。今日はほんと、真夏みたいに暑い日だから」

 すかさず二人にも、野乃と同じコーヒーを出す。元樹君はすでに二杯目に口をつけていて、すっかり小さくなって中の氷に助けを求めていた。

 なんだか不憫な図である。もしかしたら元樹君も渉と似たタイプかもしれない。でも、たぶん男は総じて〝女性〟という生き物にあらゆる面で弱い。渉もよーく学習済みだ。

 それはともかく。

「一気に賑やかになりましたね。これじゃあ、ゆっくり感傷に浸る暇もありませんね」

「うーん。でもまあ、感傷なら二年間も浸ってたからねぇ。もうそろそろ飽きたよ。これからは、これくらい賑やかじゃないと。野乃ちゃんたちを見てると元気が出るし」

 カウンターに寄りかかって三人を眺める渉にコソコソ近づいてきた野乃と、そんなやり取りをする。……本当にそう思う。心から。

 野乃が来てくれたおかげで変わった、店の中の風景。雰囲気。渉の心。野乃の心。そのどれをとっても、この店にとって必要な変化だったのだと思う。

「それならよかったです!」

 言って、野乃が三人のもとへ駆けていく。

 その眩しい背中に、渉はいつものように眼鏡の奥の瞳をふっと緩めた。

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