6
*
それから一週間ほどして、いよいよ夏休みが近づいてきた頃。
「やっとわかりました!」
息せききって学校から帰ってきた野乃が〝おかえり〟の〝お〟さえ言わせない勢いと迫力で渉に迫った。ちょうど客足が途切れ、洗い物も済んだので、さてコーヒーでも飲みながら読書しましょうかねと思った矢先、野乃が転がり込むようにして帰ってきたのだ。
かなり自転車を飛ばしてきたのだろう。連日の暑さのせいだけではなく顔は紅潮していて、薄っすらと汗もかいている。ドアベルのほうを覗いても元樹君が入ってくる気配がないところを見ると、今日は珍しく野乃は一人で帰ってきたらしい。いや、野乃のことだから、もしかしたら置いてきたのかもしれないけれど。それはともかく。
「ちょ、ちょっと待って野乃ちゃん。何がやっとわかったの? 何か調べてたっけ?」
興奮冷めやらぬ様子の野乃とは打って変わって、渉は宥めるようにドードーと手のひらを野乃に向けて、とりあえず落ち着こうとジェスチャーした。
だって、ざっと思い返してみても、これといって心当たりはないのだ。何やら渉に関係することのような口振りだが、当の渉は野乃のあまりの勢いに若干、負けてしまい、多少なりとも笑顔が引きつってしまう。一体全体、何がわかったというのだろうか。野乃に調べものを頼んでいた覚えはないのだけれど……。
「忘れたんですか? 渉さんが知世さんの話をしてくれたときに、私、少し調べたいことがあるって言ったじゃないですか。私だってあれからずっと気になっていたんです。どうして渉さんに何も言わずに行ってしまったのか。渉さんがそれでいいなら、調べたりはしないつもりだったんですけど……やっぱり引っかかったままですよね?」
「え、わかったの?」
目を見開く渉に、野乃が控えめに頷く。さっきまでの威勢の良さはどこへいってしまったのだろうか、上目遣いにコクリと頷いた野乃は、とてもしおらしい。でも、野乃のその気持ちもわからなくはない。調べて、わかって、興奮したまま帰ってきたけれど、いざ渉の顔を目の前にしたらどちらが正解なのかわからなくなってしまったのだ。
そんな野乃にふっと笑うと、
「じゃあ、そろそろオリジナルブレンドの出番かな?」
渉は思い詰めた顔をしている野乃に軽くウィンクするなりコーヒー豆に手を伸ばした。渉もそれは常々気になっていた。せっかく野乃が調べてくれたのだ、野乃もこの一週間できちんとけじめをつけていたので、今度は渉も正真正銘、最後のけじめをつける番だ。
ちょうどお客様もいない。それに、まさに今しがた休憩しようと思っていたところだったのだ。外は蟬の大合唱。腕によりをかけてブレンドした、野乃のために苦みを落として酸味を少しだけ強くしたブラックをアイスで飲むのも、きっと美味しいだろう。
「とりあえず、いったん着替えてきますね」
途端にぱあぁっと表情を明るくし、そう言ってトントントンと足取り軽く二階へ上がっていった野乃を見送り、渉は湯を沸かしはじめる。
野乃はあれからすぐに元樹君たちに前の学校での出来事を話し、親身なアドバイスを受けて七緒と寺島君に手紙を送った。今でもときどき前の学校の担任から自宅に電話があるそうで、叔父夫婦にも不登校(学校に行けないのではなくて行かないのだから登校拒否だというのが野乃の主張だ)の訳と、だから手紙を送るために住所が知りたいことを伝え、元担任から二人の住所を教えてもらって、手紙を出すに至ったのだ。
消印は恋し浜に一つだけある郵便局からのもの。けれど、差出人の名前はあるが、住所までは書かないことにしたらしい。その気になれば消印を辿って訪ねて来られるだろう。野乃だってまるっきり二人と連絡を絶ちたいわけではないのだ。
この案は、案外一番双方の気持ちを汲み取る力に長けていそうな三川さんからのアドバイスかもしれない。体育祭のことでぐんと視野が広がった三川さんは、態度や言葉遣いこそツンツンしたところがあるけれど、すっかり野乃のことが大好きになっている。
もちろん渉は、手紙の内容は知らない。でも、友人たちの力を借りて手紙を出したことだけは教えてくれて、そのときの野乃の顔はとびきり可愛い笑顔だった。
「お待たせしました」
二つ並べたグラスにカラン、カランと氷を入れていると、また足取り軽く野乃が階段を下りてきた。その手にはノートパソコンが一台。野乃がここへ来た際、彼女の荷物の一つとして持ってきていたもので、それを見るに、どうやら小道具も必要なようだった。
「グッドタイミング。ちょうどアイスコーヒーが出来上がったところだよ」
言って、さっそくカウンター席に座った野乃にグラスを差し出す。その隣に自分のグラスを置いて、渉もカウンターから出ると野乃の隣に腰を落ち着けた。
「パソコンが必要なんだ?」
「はい。失くした恋を抱えて訪れるお客様がたまに言いますよね。ネットで評判を見て来たとか、誰かのブログを見たとか。珠希さんのときも、確かそうでしたよね。それに体育祭のあとに来てくれたお客様も、店に入るなり似たようなことを言っていました」
尋ねると、ちらと渉を見て、野乃がカチカチとマウスを弄った。
「それで私、もしかしたらって思ったんです。もし『恋し浜珈琲店』が〝失恋を癒してくれる店〟って最初に書いた人が誰なのかを突き止められたら、ひょっとしたら知世さんに行き着くんじゃないか、って。――結果、ビンゴでした」
これです。
そう言って、野乃が画面を渉のほうへ向ける。
「このブログ記事の投稿は、二年と少し前……ちょうど知世さんがメンコちゃんを連れて行ってしまって間もなく書かれたものでした。投稿者の名前は〝clair(クレール) cat(キャット)〟――クレールはフランス語で〝透明な〟という意味があるみたいで、知世さんのイメージにぴったりです。それにこれ。プロフィール写真も白と黒のブチ猫ちゃんが使われているんです。本物のメンコちゃんがどういうブチ模様かは、私はわかりませんけど、渉さんなら見たらわかるかと思うんです。でも、何よりこの記事の内容が渉さんの話と――」
「ありがとう。もう十分だよ、野乃ちゃん。……ありがとう、本当にありがとう……」
一生懸命に説明してくれる野乃の声を遮り、渉は手で自身の目元を覆うと、そう言ったきりしばらくの間、じっと俯き、とめどなく溢れ出る涙と嗚咽をこらえ続けた。
書き出しを見たら、すぐに知世が書いたものだとわかった。
だってそこには、店のオープンの日時や場所、当時は一握りの人たちしか知り得なかった『恋し浜珈琲店』の店名がはっきりと記されていたのだから。
実際のオープンは、仮オープンの日の一週間後を予定していた。記事の日付は、知世がいなくなって仮オープンを迎えてから本オープンまでの間だ。知世は、渉なら自分がいなくなっても予定通り店を開店させると思っていたのかもしれない。実際その通りになったわけだけれど、狙って書かなければ、この日付にならないわけがない。
「……渉、さん……あの、私、ちょっと席を外し――」
「ごめん。ここにいてほしい」
「……はい」
「ごめん」
「いえ」
気を使って一人にしてくれようとした野乃の腕を掴んで席に引き留める。掴んだ野乃の腕から彼女の心底困惑した様子が伝わって。でも、どうしてもこの細い腕は離せなくて。渉は、知世が自分に残してくれた思いを噛みしめながら、静かに泣き続けた。
彼女が渉に残した思い――。
本気で好きになればなるほど自分には何もないように思えて苦しかったと、知世はその記事に綴っていた。少し記憶を落としてしまっていることも、渉を縛り付けているんじゃないかと思う原因の一つだったと、知世は渉との付き合いを振り返っている。
勢いで仕事を辞めて付いてきたけれど、着々とオープンの準備が進んでいくにつれて、このままではいけないと思うようになっていったという。好きだからこそ、もう甘えられない。好きだからこそ、もう渉を自由にしてあげなくてはいけないと思ったと、二年前の知世は渉のもとを去って間もない中でそんなことを書いていた。
荷物を残していくのは、自分勝手な未練だと書いてあった。いつまでも渉がそれを取っておくわけではないだろうことはわかっているが、捨てるまでの間だけでも、渉のそばに自分のものを残しておきたかったと。でも、渉の匂いが残る飼い猫を連れて行くことだけは、どうか許してほしい、と知世は綴っている。照れ屋で恥ずかしがり屋で、面と向かっては恋人らしいことは何も言えなかったけれど、どんなことでも許し包み込んでくれるような温かさを持っている渉のことが本当に大好きだから、どうしても二人で飼っていた猫を連れて行かずにはいられなかったらしい。
渉と付き合った五年間は、何もかもが順調すぎて幸せすぎて怖いくらいだったと、知世は振り返っていた。記憶が欠けたことでつらいことも多かったけれど、渉が一度も記憶喪失について言わないでいてくれたことが何よりの救いだったと、渉に感謝している。だから逆に怖くもあったらしい。全部の記憶を持っていた前の自分と、記憶が欠けてしまった自分。どちらが本当の自分だろうとずいぶん思い悩んだとも、そこには書いてある。
だからこそ、土壇場になってしまったけれど渉には自由になってほしかったと、知世は二年前に渉に語りかけていた。甘い夢から覚めたわけでもないし、記憶が戻って自分がいるべきは渉の隣ではないと悟ったわけでもない。ただ、これが〝今〟の自分にできる最善だと思うということだけは、もう知世の中で揺るぎようがなかったようだった。
いつ戻るかわからない記憶に対する怯えもあったようだ。記憶が戻っても渉のそばに居られる自信がなかったこと、渉と一緒にいる自分が変わってしまうかもしれないのが怖かったこと。それでも渉は絶対に一緒にいると言ってくれるから。もし戻った記憶に翻弄されて渉が苦しむようなことがあったら、それこそもう自分が渉と一緒にいられないから。
だから、結婚のことも考えていたはずの渉を、手遅れになる前に自由にしてあげなくてはと思ったと、知世はそこに書き綴っていた。
最後は、こんな文章で締めくくられている。
――一人でも大丈夫そうに見えるけれど、彼は本当は寂しがり屋だから。どうか恋し浜に立ち寄った際は、彼のところに顔を出してあげてほしいのです。きっと、とびきり美味しいコーヒーを淹れてくれるはずです。我儘なのは承知ですが、私のせいで傷ついてしまった彼をどうか癒してあげてはもらえないでしょうか。
彼は聞き上手な人です。なんでも話したくなります。そんな癒しの雰囲気を彼は持っています。店長とお客様という関係だからこそ、恋の相談でも、失恋の話でも、日常の些細な出来事でも、コーヒーのお供にいかがでしょうか。
泣きそうな顔をしていたら私のせいです。
笑っていたらあなたのおかげです。
『恋し浜珈琲店』は、あなたのお越しを心よりお待ちしています。 clair cat
「知世……」
小さく呼んだ彼女の名前は、涙に溶けて消えていった。隣でじっとしている野乃のグラスの氷が、その呼びかけに応えるようにカランと涼しげな音を立てる。
「知らなかった、知世がこんなことを思っていたなんて……」
「……もしかしたら、渉さんに悟らせないようにしていたのかもしれませんよね。結婚、するつもりだったんでしょう? 渉さんなら、店の開店資金とは別に結婚資金を溜めていたって驚きませんよ。そして、それに気づかない知世さんじゃなかったんです、きっと」
くるくる。
ストローでアイスコーヒーをかき混ぜて、野乃が言う。
「ああ……。そうだね、知世はそういう人だった。人の心の機微や痛みに敏感なのも、妙に思慮深かったりしたのも、野乃ちゃんと似たところがある。で、けっこう頑固でさぁ。相談してくれたら一緒に考えることもできたけど、それじゃあ知世は自分で自分が許せなかったのかもしれないよね。納得できたのか、そうじゃないのか……まだちょっとわからないんだけど。でも、知世の本当の気持ちが知れてよかったと思うよ」
だいぶ氷が小さくなったグラスの中を渉もストローでかき混ぜる。外側には汗がびっしりだ。せっかくのオリジナルブレンドが……と思うと、ちょっと苦笑が漏れる。
「迷惑じゃ、ありませんでした……?」
「全然。知らないまま何年もモヤモヤしてるよりずっといい」
軽く微笑むと、野乃も安心したように微笑を返してくれた。それから二人、無言で薄くなってしまったアイスコーヒーを、ちぅ、と啜る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます