5
やがて泣き疲れた野乃は、テーブルに突っ伏したまま、うつらうつらしはじめた。一気に感情を吐き出して相当疲れたのだろう。渉は、眠いところ申し訳ないなと思いつつも寝ぼけ眼の野乃を促し、自分の部屋へ引き上げてもらうことにする。
親戚とはいえ、いくらなんでも抱いて部屋まで運んでやるのは野乃に対して失礼だ。それに、元樹君の手前もある。たぶん彼は、いろいろな意味で野乃を放っておけないのだ。本人はまだ自覚していないかもしれないけれど、もう周りが気づいてしまっている。
ツンツンしていて、時に冷たくて、気まぐれなところもあって。どこか人を寄せ付けない孤高の気高さを身に纏っている反面、本当は内面の弱さや脆さを心を許した人には知ってほしいと望んでいる、まるで野良猫みたいな野乃。彼女もまた、そんな元樹君のことには気づかないかもしれないけれど、どちらにせよ、野乃の全部を笑って許してくれる包容力や優しさを持っている元樹君は、きっともっと彼女といいコンビになれるだろう。
「……さて。俺も野乃ちゃんや元樹君たちに負けてらんないな」
覚束ない足取りで階段を上り、ゆっくりと部屋に消えていった野乃の後ろ姿をしっかり見送ってから、渉も眠くなってきた目元を擦ってもうひと頑張りと気合いを入れる。
結局、二杯目のコーヒーも飲み残してしまったけれど、まずはそれを洗って拭いて棚に戻し、それからクローゼットの整理をしようと思う。
冷蔵庫横にマグネットで貼った、ごみ収集日の予定表は、ちょうど明日が燃えるごみの日だった。知世やメンコが残していった荷物をごみと判別したわけではけしてない。けれど、いつまでもクローゼットに入れていても、もうどうにもならない。
いつかケジメを付けなければいけないと、ずっと思い続けてきた。
ここに――この店に縛られ、身動きが取れなくなっていると、心のどこかでそうやって自分のことも慰めてきたけれど、今はもう、野乃がいる。ちょくちょく顔を出してくれる元樹君たちや、源蔵さん、よくしてくれる恋し浜の人たちが優しく、時にはちょっとお節介に自分たちのことを見守ってくれているのだから、一人なんかじゃない。
ふらっとコーヒーを飲みに訪れる人たちもいる。なぜか渉のもとへは失くした恋を抱えた人が集まるけれど、今はそれも、話を聞くだけだった渉とは違って、野乃が誠心誠意、その失恋の痛みを和らげる努力をしてくれている。
野乃が来てから、今までの日常ががらりと変わった。お客様の笑顔も増えた。知世がそこにいなくても、店にはいつも渉の笑顔と漂うコーヒーの香りがある。
「……よし。これで全部だな。ふは、少なすぎだろ、いくらなんでも」
知世はここへ来る際、自分の荷物のほとんどを処分していたので、まとめると言っても大サイズのごみ袋たった一つで足りてしまい、渉は思わず苦笑が漏れた。しかもまだ若干の余裕がある。どれだけ物に執着のない女性だったんだろうか。メンコを連れて行ったのがほとんど奇跡のように思えて、苦笑が次第に泣き笑い顔に変わっていく。
「メンコくらい、置いていってくれてもよかったんだけどな……」
まあ、そういう一見して何を考えているかわからないところも、ミステリアスだったし惹かれる部分でもあったから、今となっては、悪い思い出ではない。
なにせ、事故のせいで記憶の一部が欠けていて、人嫌いな人かと思われた第一声が『ねえ、天体観測、しない?』だったのだ。そこから付き合おうと思った渉も渉だけれど、一緒にいたら思い出せそう、なんて台詞で口説いてくる彼女も彼女だ。
もしかしたら、自分が保護して子猫から育てた猫だったから、メンコだけは愛着があったのかもしれない。キャットフードも新しいものをまた買えばいいだけだし、実際メンコはその餌があまり好きではないようで、いつも人間のご飯を欲しがり、その可愛さにすっかり甘くなっていた知世は、案の定メンコをブクブクと太らせてしまっていた。
「――あ。でも今は、気難しい猫がいるしな。ふ、一匹で十分だよな」
涙は、思ったほどは出なかった。そんな自分にちょっと驚きつつ、ふと、泣き疲れて眠ってしまっている可愛らしい保護猫のことを思い、笑ってしまった。
そんな些細な思い出さえ、今までは思い出すのもつらかったけれど、知らず知らずのうちに渉も変わっていたということなのだろう。見るとつらくなるから、クローゼットの奥にしまい込んだまま、手を付けることができなかった彼女の残していったもの。それをごみ袋にまとめても涙の代わりに笑顔が出てしまうのだから、保護猫の影響力は凄まじい。
願わくば、野乃にもそうあってほしいと渉は思う。
抱えていた荷物を少しでもここに広げることができたなら。そして改めて二人でコーヒーを飲むことができたなら。それはきっと、切なくも優しい恋の結末になるだろう。
翌朝。
女物の服と、いつかのキャットフードの箱が透けて見えるごみ袋が店内に無造作に置いてあるのを見て、起き抜けの野乃が腫れた目を大きく見開いて言った。
「……それ、どうしたんですか?」
「ああ、これ? ……うん。今日はちょうど燃えるごみの日なんだよね。もう食べられないし、猫もいない。服も俺が着るわけにもいかないから、処分してもいいかなって」
ちょうど朝食に目玉焼きを作っていた渉は、フライ返しを片手に少し照れながら野乃に眼鏡の奥の目を細めて笑いかける。気づいたのだ。ここにはもう、知世以上に大切なものがたくさんあって、そういうもので溢れているから、続く限りここを守っていきたいと。〝身動きが取れない〟のではなくて〝この場所〟が自分がいるべき場所なのだということに、二年かかってようやく気づけたし、納得のいく答えが出せた。
それでも野乃の目は物言いたげに揺れていた。本当にいいのか、と言うように。
「彼女には、出会ったときから最後まで、ずっと振り回されっぱなしだったんだ。これが俺の、どういう結末だったらいいと思うかっていう野乃ちゃんの質問の答え。もう戻ってこないことはわかってるし、今さら戻ってこられても、うちはもう定員オーバーだ。二年も引きずったままだったけど、俺には俺のやりたいことがある。野乃ちゃんが止めても、俺はこれをごみステーションに出しに行くよ。……たまには格好つけたいんだ、俺も」
――だから止めないでよね?
そう目で訴えかけると、途端に野乃の目がふっと細められた。
――渉さんがそれでいいなら。
そんな声が聞こえてくるような、野乃の腫れぼったい目だった。
「……私も、寝る前に少し、前のことを整理したんです。何も言わずに転校までしちゃいましたし、登校拒否をはじめてからは連絡なんて一つも取っていませんでしたけど。せめて元気でやっているってことだけは伝えようかなって。そう思うんです」
すると、野乃も照れくさそうに笑って朝食の席に着く。テーブルにはすでに、二人ぶんのクロスの上にサラダとフォークと、その間にドレッシングやお裾分けで頂いたパン、バターや、それから牛乳とコップが二つ、セッティングされている。
「汐崎君たちにも話してみようと思ってるんです。もうじき夏休みですから、今年の夏はみんなでたくさん遊びたいなぁって。もっと仲良くなれたら、きっと楽しいです」
コポコポと二人ぶんの牛乳をコップに注ぎながら、野乃が言う。
「私もようやく気づくことができたんですよ、私のことを思ってくれている人で世界は溢れてるって。両親も、渉さんも、汐崎君たちも。……七緒や寺島君だって、私がいつまでも元気がなかったら、心にしこりを残したままなんじゃないかなって」
牛乳で満たされたコップが、渉のぶん、自分のぶん、と置かれていく。目玉焼きはまだ柔らかすぎる。野乃も渉も七割五分くらいの半熟が好きだ。もう少し時間がかかる。
「ずっとけじめを付けなきゃいけないと思ってきたんです。このままドロップアウトするのは、いくらなんでもひどすぎるって。でも、渉さんのごみ袋を見て、私も頑張らないとなって改めて気合いが入りました。どうにもできなかったことの最後の悪あがきです。正直、まだ少し怖いですけど、恋し浜の人たちはいつも温かいですから。もしまた泣いてしまったとしても、もう一人じゃないって知っているので大丈夫です」
そう言って、野乃はにっこり、微笑みを作る。
「じゃあ、コーヒーを飲むのはそれからがいいかな?」
「あ、そうですね。結局、昨日は飲み残してしまいましたし、実は私、意外にも七緒がブラックコーヒーが好きだったので、思わず笑っちゃうくらい美味しいのを飲んでみたいと思ってたんですよ。七緒は缶コーヒーでもなんでも美味しそうに飲んでましたけど、私はミルクと砂糖がないと、どうしても苦くて。飲むならそれがいいです」
「うん。実は彼女もブラック派だったんだよね。腕によりをかけてオリジナルブレンドを作っておくから、全部にけじめがついたら、そのときはブラックで飲もう」
「ふふ。はい」
そうこうしているうちに目玉焼きが出来上がり、渉と野乃は手を合わせて朝食にかぶりついた。渉は朝はスロースターター気味のためにやや時間をかけて。野乃は学校の時間があるのでわりと急ピッチで口に詰め込み、早々に席を立つ。
洗い物をしていると、
「行ってきます!」
制服に着替えた野乃が元気いっぱいにドアベルを鳴らして登校していった。自転車に乗って朝の風を切っていく野乃の晴れやかな横顔が、店のガラス窓越しによく映えていた。
「いってらっしゃい!」
渉も野乃に負けないように声を張る。食器洗いはそのままに、店先まで出て野乃を見送ったついでに、ごみ袋を持ってごみステーションまでの短い距離を歩くことにした。
「ああ、もうすっかり夏だなぁ……」
見上げた空はどこまでも青く澄んでいた。その中に、ふわり、ふわりと少しの雲。前方に目を戻すと、もう野乃の背中が小さくなっていた。どうやら学校が楽しいらしい。いや、大切な友達が待っているから、学校が楽しいのか。とにかく、野乃が元気なのが渉は一番嬉しい。きっと野乃も渉に同じことを思ってくれているだろう。
「さよなら、知世、メンコ。できれば、いなくなった理由が知りたいんだけど……まあ、そんなことを聞くのは野暮だよな。元気でいてくれたら、それだけでいいよ。二人とも、どうか幸せに。俺は俺で幸せだから、こっちのことはもう忘れていいよ」
ごみステーションに知世たちが残していったものを置いて、踵を返す。正直、気になることはたくさんあるけれど、突き詰めれば一人と一匹の今が幸せならそれでいいのだ。
そう心から思えるようになったことが、渉は嬉しかった。
時計の針が十時を迎える少し前。店先の掃除を終えた渉は、いつものように【close】のプレートをひっくり返して店を開けた。この日は、どういうわけか開店後間もなくから野乃が学校から帰ってくるまで、細々とだが客足が途切れることはなくて。ちょうど子供たちのお迎えの時間になると、店は子供とその母親たちでほぼ満席の大入りとなった。
いつものように元樹君とともに帰ってきた野乃が、店内の様子を見るなり、さっそく接客の手伝いをしてくれる。あまり表には出たがらない子だけれど、渉があんまりひっきりなしにコーヒーを淹れているので、見兼ねて手伝うことにしてくれたようだ。
その反面、今日は嘉納さんや三川さんの姿もなく、せっかくの二人きりだというのに、野乃が全然構ってくれないので元樹君はちょっぴり面白くない顔をしている。これは自覚済みか、それとも自覚なく焼きもちを焼いているのか……。
「はい、これ。野乃ちゃんには内緒でサービスね。もうちょっとしたら店内も落ち着いてくると思うから、ごめんだけど、それまで野乃ちゃんのこと、借りるね」
「なっ……」
「ははは。ちゃんと返すから心配しないでよ」
「……渉さんって、案外、意地悪ですよね」
「まあね」
どちらにせよ、やけに可愛らしいむくれ顔だったので、ソーダをサービスしてみた渉だった。結局野乃に見つかって、二人してすごい顔で睨まれてしまったけれど。
飲み物一杯だろうがしっかり代金を払ってもらうのが、どうやら野乃のポリシーでもあるようだ。元樹君と二人で顔を見合わせ、こっそり苦笑を交わし合う。しかしそれもすぐに見つかってしまい、それからしばらくの間、男二人は肩身の狭い思いを強いられた。
でもまあ、野乃の元気がいいのは、いいことだ。元樹君もそれは同じなようで、店内を忙しなく動き回る野乃を見る彼の目は、とても優しい。
元樹君だって野乃の笑った顔を見るのが何より嬉しいのだ。頑張れ少年。まあ、野乃をデートに誘うときは、渉が父親のように立ちはだかってやるつもりではあるけれど。
「野乃ちゃん、これお願いね」
「あ、はーい!」
ちぇっ……と毒づく元樹君のことは、ひとまず気づかなかったことにして、その日を楽しみに思いながら、渉もカウンター内で忙しなくコーヒーを淹れ続けたのだった。
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