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「でも、一度休んでしまうと、なんていうか……」
「うん、そうだよね。ほっとしたよね。解放されたというか」
「……はい。七緒も限界でしたけど、私も限界だったんです。一日だけ、ちょっと休みたいなって思ってしまって。もう目の前に夏休みも迫っていたので、終業式の日くらい休んでもいいだろう、ニ~三時間だし大丈夫だろうって。……そう、思ってしまったんです」
涙目で微苦笑した野乃の言葉尻を引き継ぐ。言ってしまえばズル休みだ。でも、そのときの野乃は、現に体調不良が続いていたし、ピンと張り詰めていた緊張の糸を一瞬だけでも緩められる時間が必要だった。野乃本人もきっとそれを望んでいたに違いない。
限界だったのは、お互い様だ。寺島君に頭を冷やしてもらうためにも、クラスに自分がいない日を作るのは有効的かもしれないと、野乃はそこまで考えたのかもしれない。
「だけど、長期休みは心が折れるには十分すぎる時間でした」
はぁ……と湿った息を吐き出すと、野乃は言う。それから、すん、と鼻を鳴らし、
「もうどうでもいいや、って。私さえ学校に行かなければ、七緒はこれ以上複雑な思いをして傷つかなくて済むだろうし、寺島君の熱も冷めるだろうって……そう、思ってしまったんですよね。実際、そう思ったら、すーっと心も軽くなってしまったんです。ちゃんと話さなきゃって気持ちも本当でしたけど、夏休みに入るまで、どちらにも本当のことを話す勇気が出ないままで……。逃げ出してしまいたい気持ちもあったんですよ。ちょっとの間だけでいいから、せめて夏休みの間だけは、いろいろなことから解放されたくて……」
そこまで言うと、野乃はとうとう、うっ……と喉を詰まらせた。抑えきれない嗚咽が静かな店内にひどく大きな音でこだまして、渉の胸は痛みを通り越して麻痺状態に陥る。
野乃は野乃で。七緒は七緒で。寺島君は寺島君で。
それぞれ、どうにもならない思いや、やりきれない思いを抱えていたのだと思う。
そんな中で、一時でも物理的な距離ができる夏休みは、野乃にとってどれだけ救いになったことだろうか。繰り返される日常がまたはじまるまでの、ほんの少しの、一ヵ月間だけのエスケープ。精神的に追い詰められていた野乃には、必要な時間だったのだ。
野乃はもう、十分に苦しんだはずだ。
もういいやと、ふと気持ちが途切れてしまうのも、誰にも責められることではないように思う。そう思うときは、誰にだってある。すんなり諦めたり気持ちを切り替えることのできる比較的軽いものから、いつまでも鈍かったり鋭かったりする痛みを伴うものまで。
「野乃ちゃん、もういいよ。わかったから、もう話さなくていいから」
渉はたまらず、嗚咽を漏らし続ける野乃に身を乗り出していた。
野乃は話さないが、元来彼女は人の心の機微にとても敏感な子なのだ。それだけ思慮深い子だというのも確かだろう。七緒が寺島君と仲良くなっていく野乃を見て、自分のためにしてくれていることだとわかっていても、どうしても嫉妬したり妬ましく思ったりしてしまう気持ちがあったのにも、野乃は気づいていないわけではなかっただろう。七緒の性格を考えると、それを野乃に言えずに溜め込んでしまっているだろうことも、野乃はきっと早い段階で気づいていたはずだ。感謝しているけれど、同時に嫉妬もしてしまう。筋違いの嫉妬をしてしまうことで、七緒が自分自身を許せなくなっていく――そんな彼女の心の動きが、野乃にはきっと手に取るようにわかってしまったのだろう。
だから引き際を計っていたのだ。早く彼と〝普通〟のクラスメイトの距離に戻らなければと焦っていたのかもしれない。そんなときに、一足早く彼からの告白。しかも彼は、すっかり野乃に好意を寄せてしまっていて、自分の気持ちに応えられないのは友達のせいかとまで言うような、いい意味でも悪い意味でも自分に自信のある男の子だった。
野乃のことが本気で好きだからこそ、あそこまで態度を翻せたのかもしれないと感じる一方で、少し自分本位というか、苛烈なところもある男の子のように思う。それは野乃が彼を怖いと思う理由に十分に値すると思う。実際、渉も背筋が薄ら寒い。
それでも、彼は彼で野乃に筋を通していたのだろう。俺はこれだけお前が好きなんだというアピールだったのかもしれない。野乃には逆効果で、むしろ野乃を苦しませるだけだったわけだけれど、寺島君にはこれしか方法がなかったのだろうと思うと、彼も切ない。
そんな彼の変化に比例してクラスの目も変わることも、悲しいけれど納得できた。
前に元樹君が言っていたように〝スクールカースト〟が以前の野乃のクラスにも存在していたとは思いたくない。でも、彼はクラスのムードメーカー的存在だったという。一種の畏怖のようなものがそこにはあったのかもしれない。クラスの中心人物がそれまでと様子が違うようになったのなら、周りはそれに順応していくのが〝ムード〟を〝メイク〟することのできる人――メイカーが持つ影響力というものなのかもしれない。
とりわけ野乃は、望まぬ形でその渦中に引きずり込まれてしまった側だ。板挟みに合った野乃の精神的負担は、どれほどのものだったのだろうか……。
野乃はきっと、数えきれないくらいの後悔を重ねているのだ。あのときから今までずっと。十二年ぶりに再会して、すっかり悲しく笑う癖がついてしまったみたいに。そんな野乃を誰が責められるというのだろう。七緒も寺島君のことも、責められるわけがない。
しかし野乃は、勢いよく
「私のことを許さないでください……っ。さっき、結局打ち明けられなかったって言ったじゃないですか。上手くやれなくて、こんがらがって、こじれてしまって。もう私の手には負えなくなって、でも言う勇気も出なくて。とうとう私、全部を放って逃げ出したんですよ。そういう汚い心を渉さんには見せたくなかったんです。……渉さんは、コーヒーで人を癒す人だから。そんな渉さんには、どうしても言いたくなかったんです……」
「野乃ちゃん……」
――あなたに癒してもらう価値なんて、私にはないんです。
まるでそんな声が聞こえてくるようだった。
癒されるべきは、わけもわからず傷つけられた七緒であって、返事もせずに自分の前から姿を消してしまった野乃を思っていた寺島君であって。けして自分なんかじゃないと、野乃が全身でそう言っているように渉には思えて仕方がない。
そのときふと、もしかしたら知世も……と一瞬だけ彼女のことが頭をよぎって、しかし渉はすぐにその思考回路を寸断した。彼女のことは今はどうでもいい。今はただただ、目の前で泣いているこの女の子の涙を、どうにかして止めてあげなくてはと思う。
「でも、何も聞かずにここに置いてくれる渉さんにも、送り出してくれた両親にも、それから汐崎君たちにも、だんだん自分を偽ることに罪悪感を持ちはじめて……。この間、熱を出して休んだときなんか、どうしてみんな、こんな私に優しいんだろうって思ったら、本当に申し訳なくて。嬉しかったけど、とてもつらかったんです……」
そんな矢先、野乃が次々と今まで溜め込んでいた気持ちを吐露していく。
「私が……私さえ、七緒に全部を打ち明ける勇気を持てていたら。寺島君のことも最初からちゃんと一線を引いて接することができていたら、きっとこんなことにはならなかったはずなんです。今なら、友達に寺島君のことが気になってる子がいてとか、だからいろいろ話を聞かせてほしいとか、いくらでも言いようがあったってわかってます。……それなのに、どうしてあのときは、そういうことを少しも考えなかったんでしょうか。スパイみたいで楽しいなって、七緒に頼ってもらえて舞い上がっていたんでしょうか……」
野乃の懺悔は止まらない。
「肝心の一番初めを間違えたら、ずっと間違ったまま進んじゃうのに……。そんな簡単なことに告白されてから気づくなんて、本当にバカすぎますよ。おかげで七緒が私を見る目もどんどん変わっていったし、寺島君はそれを七緒が諦めたって解釈して、夏休み中も頻繁に連絡を寄こすようになったし……。でも、全部私の自業自得なんですよね。マークシートの答案用紙って、一つマークを付け間違えば、最後まで間違ったままマークしちゃって時間ギリギリになって気づいて慌てて直すなんて、よく聞く話じゃないですか。まさにそんな感じなんです。でも私は、マークし直さずに投げ出したんです。二人から逃げて、家に隠れて。そして今は、ここにいるんですよ。何にも向き合わずに、直そうって足掻きもせずに、諦めて逃げ出すことを選んだ腰抜けなんです。最低なんです……」
自分の言葉で野乃の心がズタズタに切り裂かれていくのがわかる。あえて自分に攻撃的な言葉を選んで言っているのだということも、そうでもしないと向こうに残してきてしまった二人に、せめてもの償いができないと思っているのだろうことも、よくわかる。
――でも。
「じゃあ、どうして俺に打ち明けようと思った?
「……え?」
これでは野乃が、いつまで経っても前に進めないじゃないか。
「一人で抱えているにはつらすぎたっていうのも、もちろんあると思う。俺が知世の話をしたから、野乃ちゃんも自分のことを話さなきゃって思ってくれたのかもしれない。でもね、野乃ちゃんはさっき言ってくれたでしょう。結末を決めなきゃいけないのはむしろ自分のほうだ、二人でちゃんと結末を決められたら、そのときは、うんと美味しいコーヒーを飲もうって。……野乃ちゃん、本当はもうわかっているんじゃないのかな?」
「ど、どういう……」
これでは、野乃がここに逃げてきた意味が、渉のところへ行きたいと言ってくれた意味が、助けてほしいと言葉なく頼ってくれた意味が、まるでないのだ。
渉はコーヒーで人を癒す人だと野乃は言った。だったら、もう野乃だって……。野乃だって、そろそろ自分で自分を許してあげてもいいじゃないか。
困惑したように泣き濡れた瞳を揺らす野乃の目をしっかり見つめ、渉は微笑む。
「元樹君たちとちゃんと友達になりたいんだよね。本当はもう前のことから解放されたいんだよね。俺が淹れたコーヒーも美味しく感じられるようになりたいんでしょう? 野乃ちゃん自身も癒されたいと思ってくれるようになったから、俺に話そうと思ってくれたんだって、俺はそう思うけど……違う? もうそろそろ、自分を許してあげなよ」
自分のためだけに泣いて、泣いて泣いて、最後にほんのり笑える場所をここにしようと思ってくれたって、誰も咎めたりなんかするわけがない。癒しを乞うてもいのだ、もう。
「そ、れは……」
言葉を詰まらせ、キュッと唇を噛みしめて俯く野乃の手に、渉は自分の左手をそっと重ねた。思った通り野乃の手は夏なのに冷えきっていて、温めてあげなければと思う。
「必要なら、二人と連絡を取ってもいいと思う。元樹君たちに話してみるのも、きっと喜んでくれるはずだよ。だってあの三人は野乃ちゃんのことが大好きなんだ。俺だって叔父さんたちだって、野乃ちゃんが笑ってくれていたほうが嬉しいんだから」
「わた、渉さ……」
「うん。でも今は、何も考えずに自分のためだけに泣いてあげて。野乃ちゃんはさっきから〝○○してしまって〟ってばかり言ってるけど、野乃ちゃんのことが大好きなみんなのために、もうそうやって一人で背負い込まないでであげてよ。……どうにもできないことだったって思うことにしようよ。人生なんて、みんなそんなもんなんだから」
そう言って手の甲を優しく包み込むと、野乃の目からはさっきまでとは比べ物にならないほどの大粒の涙がぼたぼたとテーブルに落ちはじめた。わんわん声を上げて泣く野乃は再会してから今までで一番野乃らしくて、幼い頃の彼女の面影がいっそう色濃い。
涙と一緒に全部流してしまえるものではないだろう。簡単に忘れられるのなら、こんなに泣かない。だけど渉は、野乃の手の甲をぽんぽんとあやすように撫でながら、それでいいんだよと野乃に微笑み続けた。癒えない傷はきっと誰にでもある。ときどきこうして自分のためだけに泣くことも、長い人生には必要なことだと思う。
そして、自分にも言い聞かせる。
――大丈夫、また飛べる。宿り木でゆっくり羽を休めたあとは、また羽ばたいていけばいい。野乃も、自分も。そうしたら、また一つ世界が開けるはずだから、と。
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