■第三話 恋と友情のラテアート 1
「ああ、もうっ! 女子ってほんっっと、わっかんねー!」
その日の恋し浜珈琲店では、重くどんよりと垂れ込める分厚い雨雲を吹き飛ばすがごとき元樹君のそんな遠吠えが、もうかれこれ四回は響いていた。
「そんなもんでしょ、女子なんて。ていうか、汐崎君が鈍感すぎるんだよ。世話焼きでも庇護欲でもなんでもいいけど、わかったら必要以上に構わないでくれる?」
対する野乃は氷点下並みのクールさでそんなことを言う。その隣では、
事の発端は、二日後に迫った体育祭の練習中だったという。実行委員の仕事でクラス全員参加のムカデ競争の練習になかなか顔を出せなかった野乃を、実行委員に祭り上げたクラスの一女子グループが責め、推薦したのはお前たちなんだからそれは筋が違うだろうと割って入った元樹君にまで火の粉が降りかかり、最終的には「そうやって汐崎はいつも宮内さんを庇う!」と、グループの中の一人に泣かれたらしい。
さすがにマズいと思った元樹くんは、逃げるようにしてその場から走っていった彼女を追いかけた(正確にはグループのほかの女子たちに追いかけろと言われたらしいが、悪いことをしたと思ったのは本当だから追いかけるのは自分の役目だと思ったそうだ)。水飲み場付近で追いつき、とりあえず「みんなの前で悪かった」と謝るに至る。
すると彼女――
「汐崎なんか、大嫌い」と。
そして彼女はそのまま練習には戻らず、場が白けてしまった今日は練習なんてしている場合ではなくなり、野乃たちは早めに帰ってきた――と。そういうわけである。
なぜ嘉納さんまでいるのかといえば、彼女もまた体育祭実行委員に祭り上げられた人の一人だったからだ。一クラス男女二人ずつが選出されるという委員は、元樹君のほかに
ちなみに、今日も客入りはぽつりぽつりといった具合で、午後になると実にのんびり、ゆったり……早い話が閑古鳥が鳴いている状態だった。なので、いくらでも愚痴っていいけれど、あんまり声が大きいと響くからほどほどにしてほしいなと渉は眼鏡の奥で苦笑する。まあ、青春らしいと言えば、青春らしいけれど。
「鈍感すぎるってなんだよ。俺はクラスでカーストっぽい序列があるのが許せなかっただけで、大嫌いなんて言われるようなことを言った覚えはねえよ。構うなって言われてもこれが俺のやり方なんだから今さら変わんないし、つーか転校生が来たんだから、みんなしてよそよそしいのもおかしいだろ。俺はただ、クラスみんなで仲良くさぁ」
「うん、それはわかるよ。おかげでクラスにもだいぶ慣れたし。でもそれ、一ヵ月以上も前の話でしょ? 汐崎君のその発想がそもそも、高校生のあれこれを考えてないっていうことなの。カーストがないのはいいことだよ。いちいち顔色を窺わなくて済むのは、とっても救われる。でも、理想論だよ、そんなのは。なくならないの、永久に」
「……んだよっ。なんでそんなに冷めてんだよ、野乃は」
「汐崎君が熱すぎるだけ。だから何度も鈍感だって言ってるの」
「つーか、それも意味わかんないんだけど。なんなの、俺の何が鈍感なの」
「全部」
「ぜ、んぶ……」
その間も、野乃と元樹君のいつもの口ゲンカは止まらず、野乃の間髪入れない「全部」に元樹君はうぐっという感じで半身を引く。相変わらず嘉納さんは二人の様子をオロオロしながら見ているばかりで、チラチラと『どうにかしてください……』と渉に助けを求める視線を投げかけるだけで精いっぱいなようだ。
元樹君からかいつまんで事情を説明してもらっただけで、渉だって三川さんが何を思って〝大嫌い〟なんて言ったのかがわかったのだけれど。というか、むしろあの場面ではその台詞しか出てこないだろうと察せるのだけれど、当の元樹君はこの通り、いまだにピンとこないらしい。それが野乃を若干苛つかせるのだろうし、嘉納さんのこともオロオロさせる原因になっているとは……元樹君は夢にも思っていないのだろう。
罪作りな男だな、と渉も若干、呆れてしまう。
野乃がいつも必要以上に元樹君を煙たがっているのには、もしかしたらこういう理由も含まれているのかなと思っていたのだが、渉の予想もだいたい当たっていたらしい。嘉納さんも含め、ここにいる三人はわかっているのに、元樹君だけわからないなんて……。三川さんも、なかなか手強い男の子を相手にしているようだ。
「お待たせ。今日は蒸し暑いからアイスコーヒーね。ミルクと砂糖はご自由にどうぞ」
「あ、渉さーん。野乃がめっちゃ冷たいんですけど、どうしたらいいんすかね……」
人数分のコーヒーと、ミルクとガムシロップを入れた籠を持って行くと、この間ズバリ『美味しくない』と言った元樹君がおいおいと泣きついてきた。こういうところは相変わらず可愛らしいなと渉は思う。それはそれ、これはこれとして場面を切り替えることのできる彼のほうが、よっぽど大人だと思い知らされる部分でもある。……ある一点ではかなり恋愛偏差値は低いけれど。でも、何か欠点がないと、人間、可愛げがない。
と、思うことにしようと思う。けっして根に持っているわけではない。渉も最近、淹れたコーヒーが美味しくないと思うことしばしばだ。梅雨のせいで豆の味が若干落ちているわけではないのはわかっている。原因は、自分の中にある。
「はは。じゃあ野乃ちゃんが、はっきり言ってあげたらどうだろう?」
「てことは、渉さんもわかって……⁉ え、じゃあもしかして、嘉納も?」
「うん、まあ一応ね」
「……うん。私もわかってる。たぶん、わからないのは汐崎君だけというか」
「――なにっ⁉」
渉を見て、野乃を見て、もう一度渉を見てから嘉納さんを見た元樹君は、一人、戦慄の表情を浮かべる。ここまでお膳立てされてもわからないなんて、ある意味無垢で天然なのだろうけれど、これではいよいよ三川さんが不憫だ。
元樹君が『筋が違う』と正面切って言ってくれたことは、保護者の立場からすると本当に有難い一言だった。けれど野乃は、敏感で聡い子だ。三川さんの気持ちをわかった上で元樹君を煙たがっているのだから、野乃も野乃で気苦労が絶えないだろう。
「いえ、渉さん。私は何も言いません」
すると野乃が凛と言った。悩んでいるようではあるが元樹君の威勢の良さのおかげで軽かった雰囲気も、野乃のその凛と通る声できゅっと引き締まる。
「正直、私には迷惑な話なんです。三川さんが汐崎君に対して何を思っているのかを教えたら、汐崎君の態度が変わらない保証なんてありません。それを見た三川さんが変に勘ぐったりしちゃったら、もし私に同情されたって彼女が勘違いしたら、たまったもんじゃないですよ。これ以上ややこしくなるのは勘弁してください。汐崎君も、どうしても知りたいんだったら三川さんに直接聞いて。私はもう、この話題には関与したくない」
「ご、ごめん……」
「そうだよね。ごめんね野乃ちゃん。俺も面白がってた。……反省してる」
男二人でしゅんとなり、顔を見合わせるなり野乃に謝る。渉も元樹君も、どこか三川さんの気持ちを面白がっていたところがあったように思う。元樹君は、彼女が取った行動や言動の意味がわからないながらも。渉は、高校生の恋愛模様に甘酸っぱさやノスタルジーを感じながらも、ワクワク感が抑えきれないところがあったのだ。
これでは、どっちが大人で、どっちが子供なんだか……。元樹君より子供で、野乃よりも子供で。そんな姿を学校の委員仲間に見せてしまった自分がひどく情けない。
「あ、私こそごめんなさい。きつい言い方をしてしまって……」
「いや、野乃からすると迷惑なのは確かだし。俺もちょっとは自分で考えないとな」
「うん。野乃ちゃんが気にすることじゃないよ。悪いのは俺たちのほうなんだから」
我に返った野乃が、とっさにというように小さく頭を下げたので、元樹君も渉も慌てて彼女に比がないことを伝える。野乃の立場からすると、変に板挟みになってしまっている状況なのだ。何を無責任なことを言っているんだと気が立ってもおかしくない。
「でも宮内さん、優しいよねぇ。それに、めちゃくちゃ強い……」
すると、嘉納さんが心底感心したといったふうに、ぽつりと口を開いた。思いのほか白熱してしまったので今まで手を付けるタイミングがなかったのだろうアイスコーヒーに、ミルクと、ガムシロップを二つ、三つと続けて入れながら、
「私、三川さんたちが苦手で。だから、恥ずかしい話だけど、あんまり気持ちを考えようとしたことなんてなかった。でも、だからって第三者が勝手にどうこうしていいわけじゃないんだよね。三川さんたちが宮内さんに取る態度は、私だってどうしようもなく呆れるけど、宮内さんの考え方は一本筋が通ってて格好いいと思っちゃった」
ふっ、と口元を緩め、ストローでグラスの中をかき混ぜた。
「そ、そんなことないよ。私はただ、迷惑なだけで……」
すると途端に野乃が照れた。普段はミルクもシロップも一つずつ入れるのに珍しく焦ったようで、包みからストローを取り出すと、アイスコーヒーだけのグラスを無意味にカランカランとかき混ぜはじめた。顔もわずかに紅潮していて、飲んで体を冷やそうとしたらしい野乃は、けれど一口コーヒーを吸い上げると苦そうに口をへし曲げる。
そんな野乃の可愛らしい姿を眺めながら、嘉納さんはゆるゆると首を振った。
「ううん。私だってさっき、言っちゃえって思っちゃったもん。本当に迷惑だと思ってるなら、汐崎君にどうにかしてもらったほうが手っ取り早いじゃん。でもそれをしないのは、宮内さんが優しくて強い人だからなんだと思うよ。人の気持ちを一番に考えられる人なんて、そうそういないし。もし私たちが勝手に言っちゃったとして、それで汐崎君が取る態度で三川さんがどう思うかなんて、普通、そこまで考えないよ。でもそれを瞬間的にいろいろ考えられる宮内さんは、やっぱり優しくて強いし、一本筋が通ってると私は思うな」
「……う、うーん……」
「だから汐崎君も放っておけないんだよね。私もそうだけど、ちょっと心配になるときがあるっていうか、無理してるんじゃないかって思うときもけっこうあるし」
「……」
そう言われた野乃は、今度は完全に口ごもってしまった。もしかしたら、以前、元樹君が話してくれた〝クラスで少しずつ喋る相手もできてきた〟という子は嘉納さんのことなんじゃないかと、渉ははっと思い至る。もしそうなら、こんなに嬉しい相手はいない。野乃の学校での様子は、元樹君や野乃本人から聞くことがすべてだったけれど、多少の障害はあるにせよ、この子がそばにいてくれるなら、ますます安心だと思う。
この短期間でよく野乃のことを理解してくれているなと、渉は目の奥がじわじわと熱くなってくるのを感じる。難しいところもある野乃を丸ごと包み込んでくれるような友達がいるのといないのとでは、きっとクラスの風景も違って見えるだろう。
重めのボブカットに、校則通りに着た制服。一見、おとなしそうな子に見えるけれど、嘉納さんだって芯の強い子だ。ぜひ彼女にもちょくちょく店に顔を出してもらいたい。そのときはうんとサービスしよう。渉は眼鏡の奥の目を潤ませながら、そんな微妙にずれたことを思いつつ、真っ赤になって照れ続ける野乃と微笑む嘉納さんの姿をしばらく見つめたのだった。
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