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「……」
「……」
しかし二人が帰ったあとは、にっちもさっちもいかない雰囲気が店内に垂れ込めた。
梅雨の時季にわざわざ遠出してまでコーヒーを飲みに来るお客様は、残念ながら恋し浜珈琲店では稀有な存在だ。それが示す通り店内はがらんとしていて、元樹君と嘉納さんがいたときは野乃ともそれなりに話はできたが、二人きりになるとどう声をかけたらいいかさっぱりわからなくなってしまい、渉はアイスコーヒーのグラスをいつもよりだいぶ時間をかけて洗うという、ひどく大人げない時間稼ぎの策を講じてしまった。
さっきはああ言っていたけど、本当に大丈夫? 疲れてない? 無理してない? 学校は楽しい? ……聞きたいことは山ほどあるはずなのに、そのどれもが喉の奥までせり上がったきり最後はどうしても飲み込まれて、野乃の耳には一つも届かない。
性急すぎたのだと今ならわかる。野乃はまだ人に話してもいいと思えるまでには、心は回復していなかったのだ。学校に慣れてきたように見えていても、毎朝しゃんと背筋を伸ばして登校しているように見えていても。笑ったり、よく食べたり、元樹君に辛口をきいていても、本当の野乃の心は、触れればすぐに壊れてしまうほど、まだまだ繊細なのだ。
初冬の薄氷のようなそれを間近で見て感じていながら、どうしてあのときは無理に聞き出そうとしてしまったのだろうか。あのまま外に飛び出していかず、部屋に籠ってくれたことも、人の気持ちを推し量りすぎてしまう野乃の精いっぱいの気遣いだったのだと最近になって気づいて、渉は自分のあまりの不甲斐なさに唇を噛みしめる。
叔父夫婦――野乃の両親からは、娘を預かってもらって悪いね、のほかに、決まって最近の様子と、どうして不登校になったのかを話してくれる気になったのかどうかを電話口で尋ねられている。野乃を単身、送り込んでくるような人並外れた行動力と決断力を持つ叔父たちではあるが、やはり娘のことを思わない日はない。
その電話は必ず野乃が学校に行っている間にかかってきて、野乃に対するその気遣いにも、胸がじんわり温かくなったり、反対にぎゅっと絞られるような感覚がする。
そうして前半部分については、野乃や元樹君から聞いた学校の様子を話し、後半部分についてはいつも「すみません、まだ……」と受話器を握ったまま頭を下げるしかなかった。電話は叔父からだったり叔母からだったりするのだけれど、そうすると二人とも「野乃が学校に通っているなら、それだけでいいから」と恐縮しきりの渉に笑うのだ。
それもあって、渉もできることなら早く野乃に本当の意味で立ち直ってもらいたいと、あの日は強引な態度に出すぎてしまったところがある。それで結局、野乃との間にいかんともしがたい溝ができてしまったのだから、本末転倒もいいところだ。
別に叔父夫婦にきちんと保護者代理を務めているところを見せたかったわけではない。不登校の理由を知ってどうするとか、じゃあこうしたら、と差し出がましくアドバイスをしようとも思っていない。ただ渉は、一度でいいから野乃に自分のために涙を流してほしかった。自分のためだけを思って泣いて、そのあとは渉が淹れたコーヒーで笑ってほしかったのだ。野乃が元気にまた羽ばたけるようにと、そう思ってのことだった。
でも、それも今なら、自分のエゴ以外の何物でもなかったのだとわかる。珠希さんや拓真君が新しい場所へと飛び立っていく姿を見送りながらも、羨ましく思ったのもある。
そんな自分の願望を野乃に押し付けた。自分の胸の内は一つも明かさず、野乃にだけ明かせというのは、本当にずるい。野乃が怒るのも無理はない話だった。
「――野乃ちゃん。今日の晩ご飯は何にしようか?」
たっぷり時間をかけて洗い終わったグラスを拭き、棚に戻すと、そのタイミングで渉は尋ねた。委員の仕事や練習で帰りが遅く、晩ご飯のメニューは前日か朝に聞くか、ぱっと食べたいものが浮かばないときは渉が独断で作っていたここ最近だったけれど、今日は帰りが早かった。久しぶりに一緒に作ろうかという意味も込めて聞いてみたわけだが、果たしてまだ店内でスマホを見ている野乃は乗ってきてくれるだろうか。
「いいですよ、そんなに気を使われると、本当に申し訳ないです。忘れましょうって言ったじゃないですか。今日は蒸し暑いからツルッとしたもの、作りましょう」
内心ドキドキしながら野乃の反応を窺っていると、顔を上げた野乃がふっと笑った。
そういえば、時期も早いし試食品で悪いんだけど、と先日、エビの殻を練り込んだ素麺を近くの加工場の社長から頂いていた。ピンク色にツブツブと殻の色が混じった素麺は、見るからに美味しそうな代物だった。代わり素麺としてお中元セットに入れようと試行錯誤をしているとかで、開発をはじめて一年、早くも商品として近隣の店舗や知り合いに試食品として配れるくらいに開発は順調のようだ。
「じゃあ、この前頂いたエビ素麺を茹でようか。野乃ちゃんには話したっけ? 漁港のそばの『大潮水産』の社長さんが試食してくれって持ってきてくれたやつ。どうだったか感想を聞かせてくれって言われてるんだ。ツルッとしたものが食べたいんなら、ちょうどよかったし、それを食べよう。うち、シソも自生してるんだよね。ちょっと取ってくる」
「じゃあ私は、お湯を沸かします」
「うん」
野乃がほっとした顔をしたということは、渉も同じ顔をしていたということだ。キッチンカウンターを離れていく渉と入れ違うようにして野乃がカウンターに入り、渉は外に出て自生のシソを取りに向かう。シソは日本のハーブだ。ワサビも確かそうだったと思うけれど、日本人の感覚としては、どちらも野菜に分類されるような気がする。とはいえ、山椒なども含めて香りを主に楽しむものだから、和ハーブなのだろう。ハーブと聞くとミントやレモングラスやその他西洋のものがぱっと思い浮かぶが、日本にも自然のものを上手く取り入れた暮らしが今でも脈々と受け継がれている。
「わあ、シソのいい香り」
「爽やかでいいよね。でも、すごい勢いで増えるんだ。性が強いんだよ、シソって」
シソの葉を軽く洗っていると、香りが立ったのか野乃がクンクンと鼻を寄せてきた。しかしここ数年の経験でシソがものすごく性の強い植物だということを教えると、野乃は、こんなにいい香りなのに……と多少ショックを受けた顔をする。
「じゃあ、店先の草取りとか大変じゃないですか? 根っことかも強そうだし」
「まあ、多少はね。でも俺は時間もけっこうあるし。そんなに苦じゃないよ」
「……もし三川さんたちが何かしてきたら、ここの草取り、一日中させようかな」
「はは。でもそのあとは、飲み物をご馳走してあげるんでしょ? いいよ、無理に嫌おうとしなくて。三川さんの気持ちもわかるから野乃ちゃんはあんなふうに言ったんだって、みんなわかってる。問題は元樹君のほうだよ。あの子、なんであんなに鈍いんだろう」
笑って軽く流すと、野乃は寂しそうに笑って鍋の中に目を落とした。
「そんなふうに言ってくれる人、初めてです」
「そう?」
「汐崎君も、私がどんなにひどいことを言ったり、ひどい態度を取ったりしても、すぐに〝野乃、野乃〟って笑うし。そういうことをされると、苦しいんです。裏では何を思ってるかわからないから、無駄に信用したり懐いちゃったりしないように一定の距離を開けて浅く付き合おうとしてるのに、そうしようとしてる私のほうがバカみたいで……」
「だから苦しいんだ? 嘉納さんと一緒にいるのも?」
「……そう、ですね。彼女は私のことを優しいとか芯が通ってるなんて言ってくれましたけど、怖いから予防線を張ってるだけなんです。必要以上に関わらなければ、それだけ傷つかなくて済みますし。そうやって自分のことだけ守ってるんです」
「そう……」
どう言葉を返したらいいかわからず、それだけを言いながら、渉は無意識に野乃の頭にぽんと手を乗せていた。驚いた顔でこちらを見上げる野乃が視界の端に入ったが、構わず何度か、ぽんぽんとする。言葉では上手く伝えられないから。抱きしめるわけにもいかないから。せめて手のひらから伝わるもので、気持ちを伝えられたらいいなと思う。
「……くすぐったいですよ」
「うん。でも、もうちょっとだけ」
「じゃあ、お湯が沸くまでなら。タレも薬味も用意しないと。お皿だってまだですし」
「うん」
そうしてお湯が沸くまでの間、渉は野乃の頭をぽんぽんと撫で続けた。野乃の頭は小さくて、柔らかくて、当たり前だけどちゃんと温かくて。野乃をこんな悲しい考え方にさせた出来事は一体何だったんだろうと、渉は胸がぎゅっと詰まる思いだった。
数分して、鍋の湯がぐらぐらと煮立った。乾麺のエビ素麺を入れ、菜箸でかき混ぜる野乃の顔は、もうもうと立ち上る湯気でよく見えなかったけれど。少しだけ目元が潤んでいるように見えたのは、きっと渉の思い過ごしではないだろう。
野乃が麺を茹でたり氷水でしめている間にタレや薬味、皿や箸を用意する。その日の食卓も、いつもと変わらず野乃の口数は少なかった。けれど、前ほど息が詰まるような緊張感はない。野乃は、少しずつ話す準備をしているのだろうか。だったら自分も、どうしてここで一人、コーヒー店を営んでいるのか、野乃にはきちんと打ち明けるべきだ。
そんなことを思いながら、エビの香りが口の中や鼻の奥いっぱいに広がる素麺をチュルチュルとすする。味は申し分なく美味しかった。明日にでも「ご馳走様でした、美味しかったです」と『大潮水産』の社長に電話を入れよう。
*
それから二日。
今日は梅雨の晴れ間も覗いて、体育祭が行われるにはとてもいい日和が朝から恋し浜界隈を包んでいた。昨日は朝一番で大潮水産にお礼の電話を入れ、日がとっぷりと暮れ落ちてから学校から帰ってきた野乃は、さすがに疲れた表情を滲ませながらも「今日はちゃんとみんなで練習できました」と、安堵の色を浮かべて微笑んでいた。
そうして当日。実行委員で最終チェックと残りの準備の仕事があるからと早くに登校していった野乃を見送り、渉は、さてと、と腕まくりをして弁当の用意に取りかかる。購買や自販機で適当に買って済ましますから、と野乃は恐縮しきりだったが、体育祭当日の朝なのにいつもの低血圧が祟って弁当の用意ができなかった渉は、昼休憩に間に合うように今から作って届けるつもりなのだ(野乃も渉も起きられず、実に慌ただしい朝だった)。
弁当を届けがてらちょっと覗いてみようかとも思う。夏休み前の三者面談はまだ先だ。こんな機会でもなければ、野乃の学校での様子を自分の目で見ることなんてできないだろうし、弁当を届けに来た保護者なら、多少の見学は許してもらえるかもしれない。
「……よし、できた」
今日は奇しくも時間に余裕ができたので、弁当はだいぶ凝った中身になった。俵型に握った、ゆかり、高菜、おかかの小ぶりの三色おにぎり。手作りの唐揚げに、卵焼き、ナポリタン。その隙間を飾るのは、近所に住む家庭菜園が趣味のおばあさんがよくおすそ分けしてくれるレタスやミニトマト、さやいんげんなどの新鮮な野菜たちだ。家の庭先に小さいながらもハウスを作っているそうで、一足早く夏場の野菜も色づくらしい。
一服がてらコーヒーを飲み、店の表のプレートは【close】のまま、【都合により本日は午後からの営業になります】と手書きの張り紙を貼って鍵をかける。現在時刻は午前十時。店先の端に停めてあるライトバンに乗り込むと、渉は車を邦陽高校へ向かわせた。
「うわー、盛り上がってるなぁ」
五分ほどして着いた邦陽高校では、ちょうど飴玉食い競争の真っ最中だった。軽快な音楽が大音量で校庭に響く中、ジャージにハチマキ姿の高校生たちが、口の周りを粉で白くしたりなぜか頭から粉を被ったりしながらゴールに向かい、それを応援するギャラリーも笑いながらだったり手を叩きながらだったりしながら大いに盛り上がっている。
「わた、渉さん……っ! いいって言ったのに……」
野外テント内にいた教師に事情を話すと、すぐに伝達が飛び、野乃が飛んできた。顔が赤いのは、けして今日が晴天に恵まれているからではない。あれだけ大丈夫だからと固辞していたのに渉がのこのこ弁当を届けに来て、ものすごく恥ずかしいからだ。
「す、すみません、ちょっと教室に置いてきます」
「おわっ」
教師や周りの実行委員たちにそう断りを入れた野乃がぐんと渉の腕を引いたので、渉は少しつんのめりそうになりながらも会釈をする教師たちに会釈を返す。野乃はズンズンと先を急ぎ、ジャージの襟首から覗くうなじまで真っ赤にさせている。
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